題名:

片づけたい女たち

観劇日:

04/1/16     

劇場:

シアタートラム

主催:

グループ る・ぱる      

期間:

2004年1月10日〜25日

作:

永井愛    

演出:

永井愛   

美術:

大田創     

照明:

中川隆一   

衣装:

竹原典子    

音楽・音響:

原島正治      

出演者:

松金よね子
岡本麗 田岡美也子
 


「片づけたい女たち」
 

 幕が開くと、客席から驚きの声が上がる。マンションの一室とおぼしき舞台一杯に、衣類の山がいくつか盛り上がり、複数の段ボール箱にごみの袋、積み上げられた書籍の山、散乱する食器やがらくたをのせたテーブル等々が所狭しとおかれている。白い壁は、天井のあたりから亀裂が入り、上方で大きなブロックになりさらに小さなものに分かれてやがて消える。この発泡スチロールのような厚みのある不定形のブロックが、乱雑に宙に浮いている様は、床に置かれた大量のものの山と相俟って、見るものの理性を一瞬混乱させる。僕らの脳はこのような無秩序に慣れていないらしい。眩暈を起こしそうな大田創の美術はしかし、る・ぱるの芝居にふさわしく、そこはかとないユーモアを漂わせている。この有り様に観客がしばし唖然とする間を作った後、ドアホンが鳴り響く。
 最近サリ・ソルデンという人が書いた「片づけられない女たち」という本が全米でベストセラーになった。自分の部屋を片づけることができず、ゴミの中に埋もれるようにして暮らす女性について、その原因が本人のだらしない性格にあるのではなく、神経系の障害である可能性を示唆するという内容のようだ。この障害はADD(注意欠陥障害)と呼ばれるもので、子どもの頃から兆候があっても、大人になるまで気づかないことが少なくないという。この障害は、さらに、散らかす、なくす、忘れるといった特有の症状をもっていて、それらが社会的に期待される女性像とのギャップが大きいために、特に女性において目立つという特徴をもっている。
 この芝居は、話題になったADD注意欠陥障害を下敷きにしている。ただし、神経系の障害をどうこうしようというのでない。「片づけたい」という意味は、人生のたそがれ時を前にして、ここらでいったん区切りを付けたい女たちの、「再生」へのささやかな願望であるらしい。
ドアホンが鳴ってもこの家の主は不在のようだ。勝手に二人の女が入ってきて、モノの山に声も出ない。主はツンコ(岡本麗)。入ってきたのはオチョビ(松金よね子)とバツミ(田岡美也子)、高校時代のバスケット部の仲間である。二人は、ツンコを誘って忘年会をやろうとやってきたのだ。このすさまじい様子を見てツンコは神経系の障害をもっているに違いないなどと言いあっている。
 バツミの亭主はかなり年上の宝飾商のようだが、不景気で商売はうまくいっていない。いつどうなるかもしれないので、今のうちプチ整形でもしてもうひと花咲かせようなどと危ないことを考えている。オチョビは、(場末の)食堂のおかみさんを長年やって来たが、最近、嫁にその座を奪われつつあって、いっそ孫を相手に遊んでいようかとも思うが、このまま引っ込むのも嫁の手前業腹だと思っている。お互いに肩が凝るだの関節が傷むなどと愚痴をこぼしあっているうち、ついつい衣類の山に手がいって畳み始める。
 この二人のやり取りは、五十代の女性の悩み事トップテンを並べたような様な、さもありなむと思うものばかり。松金よね子と田岡美也子のコンビがやればどうにかなると見守っていたが、どうも台本の出来が遅かったらしく、発酵させる時間がなさ過ぎたようだ。
そのうちに突然ツンコが現れる。隣りの部屋のモノの山に埋もれて寝ていたのだ。神経障害と言われたのに気づいていて、忘年会に出かけるどころか、すこぶる機嫌が悪い。片づかないのは、彼女なりに考えがあってのことだというのが怒っている理由だ。もうひとつ、最近、ツンコのもとを去った年下の男が、ケンカして辞めたもとの飲屋に頭を下げて舞い戻ったと聞かされたのが面白くない。男らしくないというのである。これはツンコの精神状態が不安定なことの伏線になっている。
 バスケット部の仲間が亡くなって香典返しの羽毛布団が届いていることから、高校時代にあった思い出話になり、三人はうまく絡み合うようになる。そこへ電話が鳴るが、ツンコはおびえて出ようとしない。このあたりからミステリアスな展開になって、結構なオチにつながっていく。
 ツンコの勤務先の上司である女性課長が最近辞めた。その上の部長が会社の方針もあって、突然トイレに立つのも報告を強要するなど社員の行動管理を厳しくしたために、この女性課長は抵抗した。ツンコたちも同様の思いだったが、切り崩しにあい、最後まで共闘することが出来なかった。課長は左遷されることを嫌って辞表を出し、結果ツンコ自身が課長に昇進することになった。ツンコは後ろめたい思いで一杯だ。だからかえって別れた男のだらしなさに腹が立っている。
 「あなたがどんなことをしているかみんな見ている。」という意味の書きつけがドアに挟んであったことから、いよいよ電話の主は、あのやめた女性課長に違いないと思い込んでいる。
なるほど、これは深刻だ。もっともツンコが男性だったらこれほど自分を責め悩むものだろうか、とも思う。男なら一瞬は卑怯千万と自責の念に駆られるかもしれないが、案外、出世したことに喜んで、かえって部長にすり寄っていくかもしれない。
 最近の労働組合をみていると管理強化を始めサービス残業やリストラへの抵抗などまるで自分の仕事と捉えていないようだ。組合の幹部が男ばかりだからか?いやそうに違いない。ツンコのように、現代女性の方が、よほど現実とまじめに向き合っているといえるのではないか。だらしなく片づかないのは男のほうである!(ぷんぷん)
 電話にでないツンコに変わってオチョビが受話器を取ると、それはどうやらおなじ建物の住人からのようであった。ここはいわゆるデザイナーズマンションで、景観に気配りすることが半ば義務づけられている。ツンコのごみの山はベランダに及んで、それが外から見えているらしい。その注意を促す住人からの電話だったことで、一同ほっとするというオチになる。
この芝居はツンコの家を舞台にしているから彼女を中心に展開するのは当然のことである。ところが、グループる・ぱるは3人で一組だから、そのバランスはとっておきたいというのが永井愛の工夫だったであろう。ツンコには目の前の現実と会社の人事を巡る具体的な問題があるが、その分オチョビとバツミの人生の見せ方が難しくなる。食堂のおかみはともかく宝飾商の妻というあいまいな存在でよかったかどうか少し疑問が残るところだ。五十代を迎えて人生の折り返し地点に立った三人三様を見せようとしたら、これまでも客演を頼んできたように、あと何人か補強する必要があったかもしれない。しかし、この芝居は登場人物をグループる・ぱるの三人だけと決めてかかっていたようで、それならば、再演を通じてもう少し充実させ、バランスさせるべきであろう。
 それにしても、ツンコの頑張りはすごい。不当な管理と権力に少なくとも抗しようとしたところがすごいと思うのである。その挫折によって自ら深く傷ついてしまうナイーブさが今どき珍しいのである。
 ほんとうは割り切ってやりすごしていい年代のはずが、どうしてもこだわるところがこの世代の特徴であり、いつまでも気苦労が絶えないと永井愛は言いたそうだ。
 片づけられないとはそういうことであり、片づけたいとはそういう意味なのだ。          

          (2004/2/3)


新国立劇場