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「錦繍」

「前略、蔵王のダリヤ園からドッコ沼へ登るゴンドラ・リフトの中で、まさかあなたと再会するなんて、本当に想像すら出来ないことでした・・・」と始まる宮本輝の小説「錦繍」の舞台化である。これはすべて書簡体で書かれた小説で、つまりは一人称で書かれた手紙のやりとりを物語って見せるという制約の多い芝居で、役者は小説から抜粋してきたフレーズを読み上げながらそれに合わせて動作を付けるという、やや朗読劇に近いものを演じなければならない。実際主人公二人は手紙の便箋を手に持って演じるわけだから、見かけも朗読劇のようで、鹿賀丈史や余貴美子の芝居を見にきたのにこれでは役者が十分な働きが出来ないではないかと不満な観客もいたかもしれない。そのせいでもあるまいが、鹿賀丈史の滑舌がすこぶる悪く、稽古不足を思わせた。
まあ、そうはいいながら、宮本輝が創造した物語の起伏の激しい濃厚な展開に目を奪われながら、あっという間の三時間余であった。ジョン・ケアードが日本人の助手を置いて、台本も手がけたというが、これがなかなかよく出来ていて、時々主人公のせりふを、取り囲んだ五人の役者にわけて発声させるなど群像劇を思わせる手法を取り入れて退屈させない。ちょうど小説の英訳本が出来たらしく、ジョン・ケアードはこれを読んで大いに共感したものなのか、そのあたりの事情についてはなにも聞いていないが、いかにも「錦繍」と言う日本独特の美学、あるいは錦秋の風景美を思わせて外国人には魅力的なタイトルであろう。主人公の女性にも親の言う結婚相手を選んで不幸を呼び込む薄幸ではかなげな風情があって、外国人から見たらいかにも自己主張しない日本女性の魅力が感じられたのかもしれない。
舞台の背景は半円形に天井から吊したホリゾントで、光の当て具合によって輝いたり鈍色に沈んだりする、下の部分は人がかがんで出入りするくらいの巾で浮かんでいて、その後ろで役者が椅子に座って出番を待っている。舞台には何もおかれていない。中央、ホリゾントの後ろに尺八の藤原道山が控えていて、時折鋭い音を舞台に響かせる。それぞれが座っている椅子を運んできて小道具にするのだが、話の進行上、ところどころ床に寝転がる場面があって、そういう時には少し違和感があった。
冒頭の手紙を書いたのは勝沼亜紀(余貴美子)、旅行先である蔵王で、別れた夫、有馬靖明(鹿賀丈史)と十年ぶりに出会う。亜紀は、元夫の変貌ぶりに驚き、ためらいながら居場所を調べて手紙を書いたと言うのである。有馬は亜紀の父親(高橋長英)が一代で築いた建設会社の社員で、後継者と見込んで娘と結婚させたものであった。ところが、程なく有馬は無理心中事件を起こして、建設会社にいられなくなり、亜紀とも離婚した。亜紀は何があったのか詳しいことを聞かずに慌ただしく有馬と別れたのであった。有馬の相手は瀬尾由加子(馬渕英俚可)、十四歳のころ舞鶴で出会った同級生で、その大人びた大胆な行動に翻弄されながら強い恋心を抱いた相手であった。出張で舞鶴に行った折りに由加子の父親から、いまは京都の百貨店に勤めていると聞いていた。ある時偶然その百貨店で由加子と再会するが、彼女はまもなくクラブに勤めるという。そのクラブに通ううちに二人は出来た。しかし、その関係がそれ以上進行するはずもない。そこへ、由加子に金を出すという男が現れ、つきまとうことに。由加子は根負けするように男と関係し、有馬とのあいだも続けていた。有馬もそれを承知である。ある日行きつけの京都の旅館でそれは起きた。有馬が寝ているところを由加子が刺した。首と胸を深々と刺され、気づいた時は血のりで胸元が濡れていた。由加子は、自ら咽を突いてほぼ即死だったという。二十七歳であった。有馬は一命をとりとめて、約一ヶ月入院、そのまま亜紀の前から姿を消したのである。亜紀は一体何があったのか何も知らされないままに夫と別れることになって、ぼう然と日々をおくっていた。有馬に会いたい、もう一度会って自分たちの関係は何であったのか確かめたい。その頃は、そう思っていたと告白する。
おそらく、ここまで聞いてもこれはもう大メロドラマだなと感じるだろうが、そのとおり、社長令嬢と結婚した後継者候補がクラブの女に無理心中を仕掛けられて生き残り、取り残された妻が零落した夫への思慕をつづっているのである。クラブの女は中学生のころまで遡って、大胆で激しい性格を内に秘めているという申し分のない伏線を張っている。宮本輝の物語は、このような緻密さで書き進められていく。僕は小説というものを読まないから彼のことはよく知らないが、決して破綻を見せないように論理的整合性を考慮してディテールを編み込んでいく手法は、偶然に過ぎないが「錦繍」と言うタイトルがそのまま彼の方法論を体現しているような気がした。話の綾をたっぷりと織り込んできらびやかでヴォリューム感一杯の物語にはなっている。ところが、その綾なす布がずっしりと重い手応えを返してくれるかどうか、話の先が問題だ。
さて、亜紀は夫が去った後、所在のなさを散歩などで紛らわせていたが、近所に山小屋風の落ち着いた雰囲気の喫茶店ができて、家政婦に勧められるままそこに通うことになる。モーツアルトの曲だけをかける店で、亜紀はシンフォニーを聴きながら心休まる時間を過ごすことが出来た。片隅にじっと耳を傾けている青年がいて、その姿が亜紀には少し気になった。経営者の夫婦(清水幹生+神保共子)は、長年銀行に勤めた後、念願だった喫茶店「モーツアルト」を開いたのであった。次第に打ち解けて互いの事情を知ることになり親しくなっていく。主人は十六歳の時モーツアルトに夢中になり、戦時中も頭の中で鳴り響いていたという。経歴には、出征して山西省から引き上げてきたなどという念の入れようである。
ある夜その「モーツアルト」が火事になった。二千五百枚あったと言うレコードがすべて灰になった。父親が見舞いにといって包みを渡してくれたのを届けて励まし、店は再開することになった。それからまもなく父親が「お前に密かに心を寄せている男がいる」といって喫茶店の主人の甥で、大学で東洋史学の講師をしているという勝沼壮一郎(西川浩幸)と見合いすることを勧める。父親は心中事件の後、有馬は会社の後継者としてはその資格を失ったが、なにも家を追い出すこともなかったと亜紀にわびを入れ今度こそ幸せになってくれという。亜紀は結局それを受け入れた。そして、まもなく二人のあいだには清高(植田真介)が生まれる。一年半くらいたった頃清高の様子がおかしいのに気づいた。脳性まひで足が不自由、さらに普通の子供よりも二三歳知恵遅れであった。
一方、有馬のほうは、亜紀と別れた後様々の職業を転々としたがうまくいかず、借金をこしらえて逃げ回るはめになっていた。今はスーパーでレジを打っている玲子(馬渕英俚可)のアパートに転がり込んでいる。振り出した手形が巡り巡って怪しい連中の手に渡り、金策もつきて、身を隠そうと飛び乗った列車に運ばれた先が蔵王で、そこで偶然亜紀と再会したというのであった。
玲子とは彼女が二十七歳の時に出会うが、そのとき有馬がはじめての男であった。そのためか自暴自棄になって生きる気力を失っていた有馬のためにつくそうと蓄えを投げ出して支えようとする。有馬はうっとうしいと出て行こうとするが、しかし他に何の当てもあるわけではなかった。
亜紀の夫勝沼壮一郎は、まもなく助教授になり一年ほど米国に単身で渡り、研究生活を送って帰るなど少壮の研究者としての地位を着々と築いていた。ある日亜紀は、何人かでやってきた教え子の女子大生のひとりが夫と交わす視線に特別なものを感じることがあった。夫はいつもと変ることなく大学と往復していたが、互いの心はすでに離れていた。あの学生と続いていることには気がついていた。やがて夫が神戸に小さなアパートを借りていて、そこにはすでに三才になる女の子までいるという話が父親からもたらされた。
玲子は、有馬が女からの手紙を持っていることを怪しみ、問い詰める。読み終わった玲子は「わたし、あんたの奥さんやった人、好きや!」と叫んである決心をする。自分が有馬と自立する道を築くために、考えついた仕事、美容院のPR誌を作って広告を集めることにしたのだ。有馬は、いやおうなしに巻き込まれ、靴をすり減らして街を営業に歩くが、次第にその渉外の仕事が楽しくなっていく。美容院を取り込んだら今度は理髪店があるではないか?有馬は玲子によって再び生きる気力を取り戻しつつあったのである。
その手紙を受け取った亜紀は、夫壮一郎を神戸で暮らす三歳の娘のところにやって、自分は清高と二人で生きていこうと決心し、そのことを告げる手紙をこの往復書簡の最後にしようと提案して終る。
途中、玲子が自分の祖母の話をするところで、猫が鼠を捉えてそれを食らう様子が克明に描写される場面があったが、これは一種のリアリズムではあるが、この劇の中に挿入されるのは不自然であった。
亜紀は、しばしば自分の人生を彩っている不幸は、わたしが抱えている「業」のようなものではないかと口にした。最初の結婚で夫が事件を起こして離婚、次の結婚では障害のある子が生まれ、夫は自分のもとを去っていった。また「モーツアルト」で交響曲第三十九番を聞きながら店の主人に、この音楽は「もしかして、生きていることは、死んでいることと同じ」といっているのではないか?とつぶやく。どういう意味なのかいくら考えても分からなかったが、このあたりに作家がこの小説に込めようとした思想性があったのかもしれない。人間はそれぞれの「業」を背負って生きていかねばならないとか、あるいはまた宇宙にはそれを支配する「法」というものがあり、かくされた宇宙の「からくり」があるのだというせりふに示されるような宇宙観、世界観を込めようとしたのであろう。
宿業とはカルマ、輪廻は転生するという思想で、それから逃れることは出来ないという意味では一種の諦念であるが、しかし、それでもなお反転して運命を変えようとする積極的な生き方があると仏教は教える。この芝居の結末はまさにそのような「生の再生」を謳ったものとして捉えることも出来る。
しかし、ジョン・ケアードがそのことを理解しているという気配はほとんどなかった。それはもともと宮本輝の小説の中に、そうした宇宙観や人生哲学が背景としてあるいは下敷きとして備わっているものではなかったことに原因がある。亜紀の不幸は「業」といえば言えなくもないが、あれが「業」ならたいていのものは「業」に違いない。有馬の運命は、あらかじめ宇宙が仕掛けた避け難いからくりにからめ捕られた結果であったといわれても否定する根拠はない、というかそれ自体が無意味である。無理心中という劇的な事件によって変えられた二つの人生が、十年というそれぞれの時を過ごしたのちに一瞬交錯した結果再び向きを変えて生きていくという話ならジョン・ケアードも芝居になると思ったであろう。つまり、「業」も「宇宙観」も付け足しのようなものでこの劇の本質ではない。それでもなおそれが重要だといい張るなら、この程度の一種の決定論は、「通俗」に過ぎないし、宇宙の法則に支配されていると脅してもただ害になるばかりだ。
さすがは人生経験が豊富な作家でのことはある。無理心中からモーツアルト、火事に手形やPR誌まで破綻のない濃厚な物語でたっぷりとした手触りを味わうことは出来たが、最後に込めようとした思想性の質量はすっかり軽いものであった。宮本輝という作家はもともとそういう作風なのだろう。
藤原道山の尺八は、ところを得て風景を鋭く描き出し、あるいは人の心根を映し出して表現力豊であった。ときには舞台の中央に跳び出して芝居の手助けをするなどの活躍を見せて才能の巾を見せた。
この尺八一本で音を貫徹すべきであったが、あれは確か二幕で、突然大音響とともに「レクイエム」が鳴り響くのには、腰を抜かした。モーツアルトが盛んに出てくるのだから全く出さないわけに行かないのは分かるが、なにも「レクイエム」でなくてもよかった。”シンフォニー39番“や” ジュピター” もせりふにでているのだから、そういうものやピアノコンツェルトでもよかった。「こぶ」と「かつぶし」のいいだしをすすっている時に、いきなりチーズフォンデュを突出されたような違和感があった。
この小説を美しい日本語だという人は多いらしい。この原稿を書くために少し目を通したが、おそらく英訳したものをもう一度日本語訳したらほんとうに美しい日本語になるに違いないと思った。モーツアルトに関する記述は非常に多くて作家の思い入れはわかった、が読んでもどこがいいのか理解出来なかった。小林秀雄の”40番”も分かりやすいとは言い難いが書けてるという意味では言うまでもない。
余貴美子は、書簡体のせりふという限界はあったが抑制の効いた芝居で、父親の愛情を感じながら言うがままの結婚を受け入れてのち、自分の弱さを克服して自律しようとする女性の変化を力強く表現した。考えて見れば、余貴美子がこうして舞台に出ずっぱりの芝居を見たのははじめてではなかっただろうか?三十年ほど前、青山三丁目の交差点から千駄ケ谷に向かう路、通称キラー通りに面したブティックの地下にバーがあって、僕らは夜中仕事が終るとそこにたむろしていた。そのころ六本木の自由劇場では「上海バンスキング」がロングランであった。芝居がはねて午後十一時頃になると「上海・・・」で中国娘をやっていた余貴美子がアルバイトのためにやってきた。役どころが抜けないのか中国訛りの日本語であった。懐かしい思い出である。
脇を固めた文学座の神保共子、清水幹生、植田真介らがさすがにいい仕事をしていた。
また、馬渕英俚可は役柄にあったキャラクターで、あまり作らないところがよかった。才能については未知数である。

「前略、蔵王のダリヤ園からドッコ沼へ登るゴンドラ・リフトの中で、まさかあなたと再会するなんて、本当に想像すら出来ないことでした・・・」この濁音が続くところに、再会した男と女のぎくしゃくした関係を読み取ることが出来ると作家の黒井千次は鑑賞している。なるほど小説とはそんなものかと納得する。しかし、僕は小説を三ページも読めなくなっている。やはり広告代理店から転身した藤原伊織もその人となりを知っているが、数ページで読めなくなってしまう。面白いだけなら、事実は小説より奇なりといって、事実の方が余程興味深い。小説の舞台化は、もう一つひっくり返して事実のように見せてくれるから面白く見ていられるのかもしれない。この芝居ははたしてそれであった。

 

 

 

題名:

錦繍

観劇日:

07/8/2 

劇場:

天王洲銀河劇場

主催:

日本テレビ+ホリプロ 

期間:

2007年7月21日〜8月12日

作:

ジョン・ケアード 原作:宮本輝 

演出:

ジョン・ケアード 

美術:

堀尾幸男

照明:

中川隆一 

衣装:

小峰リリー

音楽・音響:

高橋巌      藤原道山(尺八)

出演者:

鹿賀丈史 余貴美子 馬渕英俚可 西川浩幸 西牟田恵 神保共子 清水幹生 高橋長英 植田真介 他

 

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