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「おーい幾多郎」
この所、やぼ用があって吉祥寺に行くことが多い。前進座の本拠地ということがあるのかどうか、劇場が多い街だ。吉祥寺シアターの名前は聞いていたがどこにあるかは知らなかった。武蔵野市がやっているという割には地味なところにあって、たどり着くのに息が切れた。
芝居は西田幾多郎の評伝劇だが、書かれたいきさつが少し変わっている。
「金沢市民芸術村」(市営)が松田正隆を講師に招いて開いた第二回戯曲講座(2002年)に参加した池田むかうの作品である。池田は東京出身だが結婚して三十年来金沢に住んでいる。経歴は不明、家庭の主婦だということらしい。
戯曲講座なるものがどんな内容なのかは知らない。松田正隆が指導したのだろうが、戯曲としてよく書かれている。いくら松田の指導がよかったからといって、普通の主婦がここまで書けるとは思えないから、おそらく普通ではないのだろう。
初演は2004年、金沢市民の手によって上演された。その後、各地で巡回公演を行ってきたが、これとは別に文学座の有志らによっても公演が行われ、ついに東京の劇場に上ったというわけである。地方から中央へという逆の流れを作ったという意味では、「地方の時代」の先駆けで、マスコミとしてはもう少し騒いでやってもよさそうなものだ。なぜかといえば、池田むかうのような普通の主婦といって侮れない才能が地方には無数に埋もれているはずで、それが目覚めるきっかけになるかもしれないからである。何も劇作にむかうこともない。あらゆるところで活躍できる可能性があるのだから、こういう情報は刺激になるだろう。とりわけ百年有余も中央にむかったために、地方の男がダメになった時代だから(偏見との誹りがあるかもしれないが)ここは一つ地方の女にがんばってもらうしかない。
それはそれでいいのだがこの劇のポスターに「あなたは今、『家族』を必要としていますか」というキャッチフレーズは、何だかピントがずれている。この劇で語られているものがいうところの「家族」だとして、それが「今」必要だといいたいのなら、それは無い物ねだりというものだ。「家族」が崩壊している時代に「必要か」と問い掛けるのはナンセンスである。
いうまでもなく西田幾多郎は「善の研究」でよく知られた哲学者である。旧制高等学校の学生の必読書とされていたが、戦後になって外国の思想書に押されて読むものは少なくなった。まったく晦渋というわけではないが、扱っている概念も語も独特で普通の読者が読み続けるのは難儀である。「善の研究」が、自身の座禅趣味や学生仲間だった鈴木大拙のイメージもあって「禅」の研究と誤解され、どこか抹香臭さもつきまとう。
同時期に活躍した河上肇には、井上ひさしが書いた評伝劇があって、こちらはやっていることがマルクス経済学や労農運動だから公私にわたって世間の関心も高い。
それくらべて西田の方は、私生活はほとんど知られていないから、堅物の孤高の哲学者という印象が強いことは事実である。
そういう事情があるから西田の「生活者の部分に着目することで、もっと身近な存在として知ってほしかった」と池田むかうが戯曲の狙いを述べるのは理解できる。この戯曲がそのようなスタンスで書かれているために、日露戦争時代の家父長制の「家族」をノスタルジックに理想化したものとしか写らないのははなはだ残念であった。
物語は、西田が明治三十二年(1899年)夏、山口高等学校から第四高等学校教授として故郷の金沢へ転任したころからはじまり、明治四十二(1909年)学習院教授として東京に転出するまでの約十年間を描いたものである。
正面に居間があり、手前は庭で踏み石を通って廊下に上がる。廊下は下手に少し張り出しながら回り込んで書斎の縁側に続いている。奥は竹林やら潅木の茂みになっている。上手も深い植栽が植わっているが、小さな引き戸の向こうは玄関に通じている。やはらかい光が当たっていて、緑の濃い昔の典型的な民家の様相である。朝倉摂の装置は涼やかな風が吹きわたっているような懐かしさを覚えるものであった。
家族は、まず母親寅三(=とさ、本山可久子)が矍鑠としている。そして妻寿美(名越志保)に幼い子供、(幾多郎に子供は八人いたが、この劇では省略しているようだ。)他に、近所に出戻りの幾多郎の姉、正(富沢亜古)が住んでいる。また弟憑次郎(鍛冶直人)は軍人になってすでに独立している。さらに、この家には二人の書生、山口(岸槌隆至)と中尾(神野崇)が出入りしている。
西田家は金沢の近郊、宇の気十か村の大庄屋であったが、父得登の代で零落している。母親の寅三は烈婦ともいうべき気性で、子供を叱咤し長男幾多郎に高等教育を施した。それが二十九歳にして四高教授である。妻の寿美は寅三の姉妹の娘で、幾多郎とはいとこ同士に当たる。(昔はこういう結婚は珍しくなかった)この寿美を得登が一度離縁にしている。理由は分からない。次男憑次郎は、金のかからない士官学校に入れ、今や帝国陸軍の将校である。
姉の正は、実家に戻って暮らしたかったらしいが、これを母親の寅三が許さず近所に家を借りて独り住まいをしているものであった。時々現れては、書生にちょっかいを出すなど女っぽい一面もある明るい性格だが、身持ちが悪い(三度の結婚に失敗している)との評判が立ち一家の長としてはその行く末が気掛かりである。
弟の憑次郎は、父親から受け継いだ豪放磊落な性格で、日清戦争後の軍拡の時代を背景に軍人になった男である。たまに実家にやってきては性格の違う兄と口論になり、取っ組み合いの喧嘩をすることもある。
幾多郎と妻寿美との夫婦仲はきわめてよく、寿美もおおらかな性格で、参禅と学問に打ち込んでいる夫に代わって家事万端を取り仕切っている。ここでは描かれていないが、一度離縁し復縁したのは、寅三と夫の得登の仲が悪かったのが原因らしい。
劇はこれらの家族関係をスケッチしながら、後に自らが「金沢にいた十年間は私の心身共に壮な,人生の最もよき時であった」と書いた穏やかな日々を描く。とは言え西田幾多郎の生涯は、このような安穏なものではなかった。
この劇で最初に不幸の影がさすのは、弟憑次郎がたびたび家に現れ何か言いたげにしてはそのまま帰るという日々が続いていることからであった。あまり考え込むタイプでもないのに口が重い。言いかけては口ごもる。さすがに寿美も幾多郎も気付いていた。ある時我慢しきれないという風に憑次郎が告白する。実は他人の借金の保証人になったところ自分が負債を抱え込むことになって、もはやにっちもさっちも行かなくなったというのである。
幾多郎は一家の長として、寿美と一緒に親戚中を駆け回り金を工面してこれをようやく解決した。それから程なく憑次郎は出征することになる。露西亜との間で戦争が避けられなくなっていたのだ。子供ができて結婚せざるを得なくなったのだが、その子もようやく二歳、下にもう一人、二人の子を残して戦地に赴くことになるのである。(この場面で、軍服のズボンをはくところがある。いきなりファスナーをあげるというのはどういうものか?あの時代、まだズボンの前はボタンで留めている。衣装係は時代考証をしっかりやってもらいたい。)
この憑次郎が、出征してまもなく二百三高地で戦死する。母親の寅三は、軍人なら安心だと思って息子を軍隊に入れたのだが、今思うともっとも危険なところにやってしまったのだと嘆く。残された妻と二人の子供を西田家が引き取ることに。
やがて、憑次郎の従卒だったという岡田(林秀樹)が訊ねてきて、弟の最後の様子を語って帰る。戦場ではよく部下を思い、果敢に戦ったが敵の弾を受けた。立派な最後だったという言葉にいくぶんは慰められたようである。ただ、ここはあまり書き込まれていないために、岡田の人物像も訊ねてきた理由も判然としなくて、憑次郎の戦死についてはかえって蛇足のように思える。
この十年前に戦われた日清戦争は、明治政府が徴兵制を敷いてから初めての海外遠征で戦死者の扱いにはきわめてナーバスになっていた。およそ一万人の戦死者があったが、全国の遺族のもとにひとりひとり政府の使者が赴いて知らせている。今でも田舎の公園などで時々見かけるが「忠勲の碑」などと書いた立派な石碑の裏を見るとこの時に建立されたものと分かる。
日露戦争のときも、まだこういう倣いがあって、従卒であった岡田が上司の最後を語るために政府から派遣されたのではないかと思われる。この後大東亜戦争、それも末期に近づくにつれて戦死者の扱いはひどくなっていく。兵は消耗品ではあるが、徴兵制に反対されたのでは軍隊が成り立たない。政府はそれを恐れたのだ。近ごろ労働者は消耗品だといって、あまり大事にされない。明治新政府が恐れたような理由があれば労働者をぞんざいに扱う事をためらうはずなのだが、どうやらどんな理由はないらしい。現代の経営者は気楽に労働者を切り捨てる。とはいえ恐れるべき「理由」が隠れて見えないだけなのだが、それに気付いていない。池田むかうにそんなことに言及しろというのはできない相談だろうから、ここに書いておく。
姉の正が書生にちょっかいを出すのを母親がとがめるのは当たり前の話だが、幾多郎も不快に思っているようだった。姪の宇良(松山愛佳)が金沢の女学校に進学するというので同居することになる。若い娘がやってきて急に華やいだ雰囲気になるが、幾多郎はどこか緊張している。宇佳が書生と接触するのも嫌がった。西田幾多郎は、生涯そういうことには厳格であったらしい。
それは、父親得登が事業に失敗し続けただけでなく放蕩の限りを尽くしたことに原因があるという。一説によると寅三と結婚する前にすでに妾がいた。夫婦仲が悪かったのは得登の女遊びが過ぎたせいだろう。
この父親の血を姉の正や憑次郎の生き方に感じていた幾多郎が、自分にもその血が流れているに違いないと思っていた。それを律するために、必要以上に厳格に振る舞ったということらしい。それが西田幾多郎の硬質なイメージを作った。
やがて、明治四十二年(1909年)学習院教授として東京に赴任することになり、金沢を去ることになる。終幕、忙しく荷物をまとめている家族の姿がある。離れがたいという思いは残るが、どこか希望に満ちて明るい。西田幾多郎、この時三十九才。公私共にもっとも充実していた時代である。
始めにも書いたが、よくできた芝居だということはできる。しかし終わってみれば、いったいこの主人公が西田幾多郎である必要があったのだろうかという疑問が湧く。劇の中の西田は家長として、問題を抱えている家族の面倒をよく見ている。妻にとってはよき夫であり、よき父である。なんだかんだ言いながら家族は一つにまとまっている。なるほど明治時代の家父長制とはこういうものなのかと思えば、何かと自己主張の強い現代の核家族よりも牧歌的で生きやすいのではないかと思われる。池田むかうもそう思っているに違いない。
しかし、ここでは肝心の西田幾多郎の「仕事」がすっぽり抜け落ちている。四高教授は分かるが、いったいこの男は何を講じているのか。二人の書生は、何者で何を教わっているのか。主人公の「公」の部分が一向に見えてこないのである。
しかも観客は、西田幾多郎の哲学とはどういうものなのか?あるいはその形成に私的な生活の影を見いだすことはできるのだろうか?などという興味をもっている。それに対する答えは何も用意されていなかった。これでは「日露戦争当時の家庭生活、ある教授の場合」である。
この芝居が、金沢の地元の劇団のために書き下ろされたという事情から、地元の出身の西田幾多郎が金沢に住んだ時期だけを切り取って見せるというのはそれなりに納得できる。そこで、没落した元地主の大家族、その家長の責任と家族の信頼といった物語ができるのも自然の流れかもしれない。しかし、それだけではいくら地元にこだわるといってもあまりに了見が狭いではないか?
代表作「善の研究」出版まではまだ数年かかるが、その内容はすでにこの四高教授時代に考えられていたものであることは疑い得ない。この時期思索することが西田の日常であったが、その「日常」を描いていなかったのは重大な欠陥であったという他ない。残念であった。
僕はこの劇を観て、にわかに西田幾多郎に興味を持った。学生時代は一顧だにしなかった西田哲学とはどういうものか知りたくなった。とは言え老齢の身では「研究」するなどという大げさなことでは身が持たない。そこで文庫本の他二三冊の解説本を読んでみたのだが、これが実に刺激的で面白かった。
この金沢時代のエピソードに限っては全集にでも当たらないと出てきそうもないが、ただ、西田はこの頃思索に疲れるとよく金沢の海に出かけたという。海といっても市街からはかなり距離があるからバスか電車に乗ってわざわざいったものだろう。ひろい海と空を眺めながら考えていると、ずいぶんはかどったということである。
例えば池田むかうには、こうしたエピソードにかこつけて西田の哲学の一端を描く、というような技を見せて欲しかった。
これに限らず、観客が面白がるような西田の発想はいくつもあって、それらをちりばめたら、劇の奥行きがぐっと増したに違いないと思う。
僕がとりあえず読んだ本は新書版ばかりであったが、中でも面白かったのは永井均(千葉大教授)の「西田幾多郎《絶対無とは何か?》」であった。これはNHK出版が出している「シリーズ・哲学のエッセンス」という叢書の中の一冊である。この叢書は、東西の哲学者を取り上げてその思想を紹介するものだが、百ページほどの小冊子である。そんなもので何が分かるかといって侮れない。内容は哲学者の伝記的な事にはほとんど触れず、書き手自身が哲学者の思想とむきあって、読み手と一緒に考えながらその哲学の核心に迫っていこうというきわめてユニークな仕掛けになっている。他のも何冊か手に取っているが同じ編集方針で、NHK出版の企画者には面白い人がいると思う。
さて、その本では最初に「善の研究」第一編「純粋経験」のことをとりあげている。しかし、そんな説明もなしに、いきなりこのように始まるのである。
1.長いトンネルを抜けるとー主客未分の経験
無私の視点
よく知られているように、川端康成の「雪国」は、
「国境の長いトンネルを抜けると、そこは雪国であった。」
という文章で始まっている。サイデンステッカーによる英訳では、この箇所は
The train came out of the long tunnel into the snow country.
と訳されている。これをそのまま訳せば「列車は長いトンネルを抜けて雪国へ入った」とでもなるだろう。英訳では主語が明示されている。一方「 国境の長いトンネルを抜けると、そこは雪国であった。」という文には主語がない。いったい何が、あるいは誰が、長いトンネルを抜けたのか、肝心のそのことが描かれていない。だから、この文章はそのまま英語に訳すことはできないようだ。しかし、われわれは−−つまりふだん日本語を使っているわれわれは−−川端のこの文を難なく理解するだろう。この文を読んで、こう質問する生徒がいたら、先生は驚くだろう。「長いトンネルを抜けるって、いったい何が、あるいは誰が、抜けるんですか?」
でも、いったい何が、あるいは誰が、抜けるのかーー列車?確かに事実はそうだが、そう表現してしまったのでは、この文が言わんとしているポイントは失われてしまうだろう。
この後、小説の主人公「島村」が経験したことと考え、主語をあえて島村にしてみるが、それも川端の言わんとしていることとは違うという議論を進め、「誰が?」とも「何が?」ともいえない世界があることを西田幾多郎のいう主体と客体が分離する以前の「純粋経験」だと説明する。
これで僕は英語の文は主語がなければ完成しないが、日本語は主語がなくてもかまわない。なぜこういうことが起きるのか?という新たな命題を突きつけられた気がしたが、永井=西田のいっていることはそれとは少し違う。文章のことをいっているのではないのだから。
これなどは、比較的分かりやすい概念で(とも言えないか?)劇の中にとり入れてもよさそうなことである。また、
3.西田幾多郎vsデカルト
の項も、「純粋経験」を考えの根底に据える西田と、デカルトの「我思うゆえに我在り」を比較しながら、永井自身があれこれ考えつつ西田哲学の概要を浮き彫りにしてみせるのも興味深い。
たまたま見つけたブログで知ったのだが、このデカルトとの比較について、どんな議論をしているのか群馬県立女子大学の植村恒一郎教授の書評が分かりやすいので紹介しておこう。
「永井均氏の新著が出た。非常に面白かったので、論点をいくつか抜き出してみたい。まず第1、2章では、西田の「純粋経験」に、デカルトの「cogito ergo sum」と、ウィトゲンシュタインの「感覚日記」との両面から光が当てられる。デカルトのcogito ergo sumは、当時から直観なのか論証なのかが問題になり、デカルトは論証ではないと言ったが、実際には直観と論証の両面を持っている(p41)。重要なことは、「われ思う」の「われ」という一人称が、一人称である必然性はなく、『省察』第二答弁では「彼思う」に、『哲学原理』では「われわれ思う」になっている点にある(34〜7)。つまりデカルトのcogito ergo sumは、本来は「彼」に読み替えられない「私」の直接体験から出発したはずなのに、それを「論証もどき」に語ったために、私の直接体験と言語との間にある深刻な亀裂が見失われ、私と彼との違いが飛び越された一般的真理になってしまった。
このような私の直接体験と言語との一致を拒否したのが西田の「純粋経験」である。「彼」として読み替えられない「私」は言語では表現できないと、西田は考える(37)。西田の「純粋経験」を理解するために、永井氏は、西田とは逆の側からデカルトに反対したウィトゲンシュタインと比較する。ウィトゲンシュタインは、有名な「感覚日記」論で、私の直接体験と言語との深刻な亀裂をどこまでも追及した。自分だけに起こる感覚を指すための、私だけに意味を持つ言語「E」という思考実験によって、どのような直接体験もまた、「共通の言語ゲームに乗っかっている」ことを強調した。つまりウィトゲンシュタインは、言語は個人の体験に先立って、個人の体験とは独立にそれだけで意味を持ちうると信じている。それに対して西田は、まったく逆に、体験は言語とは独立であり、体験だけで意味を持ちうると考える。言語と体験を何の問題もなく相即させたデカルトに対して、ウィトゲンシュタインも西田も両者を切り離し、ウィトゲンシュタインは言語の側から、西田は体験の側から、問題を出発させる(p46f)。
西田は『善の研究』において、我々に向かって「純粋経験」を一般的に語っている。純粋経験について一般的に語る言語を、西田はどこから手に入れたのだろうか? 「答えは一つしかありえない。それは純粋経験それ自体が言語を可能ならしめる内部構造を内に宿していたからであり、・・・内側から叫びのような音声を自ずと分節化させる力と構造が、経験それ自体の内に宿っていることによってである。だから、その後の西田哲学は、一種の言語哲学として読むことができる。」(47)
このようにして永井氏は、『善の研究』(1911)の「純粋経験」論が、『自覚における直観と反省』(1917)を経て、『働くものから見るものへ』(1927)の「場所の論理学」へと発展する過程を、体験を言語に架橋する哲学的議論として読み解く。「私」とは、「事物や出来事が<於いてある>場所」である。つまり、「私」は世界と向き合う「主体」ではなく、世界がそこ「においてある場所」なのだ(67)。西田が主張した、主格ならぬ与格としての「場所としての私」は、永井氏がこれまで個人としての「私」と区別するために苦労して作り出した、あの山カッコ付きの私、すなわち<私>とオーバーラップしてくる(97)。そして、西田の後期哲学の「我と汝」論を、言語ゲームと他者の同時的成立の議論と捉えることによって、「絶対無=場所としての私」という田辺元も理解できなかった西田のテーゼに光を当てる。永井氏の独在論とも重なる第3章は、とても難解だがスリリングな魅力に満ちている。だが、急がずに順番に見ていくことにしたい。」
少し事情の分かる人なら続けて読みたいところかも知れないが、この辺でやめよう。
すでに劇評の範囲を逸脱してしまっているのだから。
最後に役者について触れておこうと思ったが、すべて文学座の俳優で巧みではあるが特に印象に残ったものはなかった。本のできが「ほんわか」とした家庭劇を目ざしたものだから、その分役者は損をしているともいえる。
それにしても、評伝劇なのだから、機会があったらもう少し筆を入れてもいいのではないか?池田むかうにはそれを勧める。その際、ここにあげた小冊子、他に岩波新書(藤田正勝)も参照されるとよい。