「国境のある家」
八木柊一郎追悼(平成16年6月没)と銘打った俳優座の公演。作家が長く暮らした逗子市の池子弾薬庫跡近くにある一家の話である。旧制一校出(当然帝大を出ただろう)の老人とその妻(大塚道子)、二人の長男で自動車メーカーに勤務する男と妻、彼らの子供で姉と浪人生の弟(志村史人)という三世代にわたる家族が同居している。
当然家族は互いの名前を呼びあっているのだが、劇評を書こうと思ってパンフレットを見ると、困ったことに、役名に中年の男とか老人、若い女とかあるだけで名前が載っていない。固有名詞があるのに、なんだか頑なである。これはどうも意図的にやっていることかも知れないと思った。
せりふの中に「60年安保から二十五年」とあるから、設定は1985年ということになる。(初演は87年、青年座)それが何故重要かといえば、その時点での日本と米国との政治的文化的関係が劇の背景になっているからだ。さらにいえば、そこで語られた日米の関係が、二十年経った今日では、当然のことながら、様変わりしていて、そのまま通用する議論とすでに古ぼけてしまった論議が混在していることに留意しなければならないからである。
大雑把に言えば、この時期日本はすでにバブルが始まっていて、国民総生産が米国に次いで第二位、国民一人当たりの所得は米国を抜いて、経済的には空前の絶頂期にあった。
世界を見渡すと、冷戦下ではあったが、ソビエト連邦はこの年、ゴルバチョフが書記長に就任し、ペレストロイカとグラスノスチを開始し、冷戦終結の兆しが見えはじめていた。同じ頃、欧州は、ECが欧州連合(EU)発足に向けて、着々とした歩みを見せ、小平の中国はようやく改革開放の道を確かなものにしている。
つまり、世界はまだ冷戦下にあったが、それぞれの変革に向けて個別に蠢いており、日米は、中曽根首相が「不沈空母」発言で物議を醸し「ロン・ヤス」の蜜月時代を迎えていた。
物語は、波の音で始まる。セーシェル島に打ち寄せる波の音が、赤沢家の居間に置かれたオーディオセットから流れているのだ。休日の午前、当主のノブオ(中野誠也)は唯一の趣味である音響装置の音質を確かめて楽しんでいた。
妻のケイコ(川口敦子)は、池子弾薬庫跡地に米軍の住宅を造る計画でリコールされた市長の出直し選挙で、反対派の選挙運動のために、この日も出かけようとしている。この当時実際にあったことである。ノブオは長年米国に自動車を売ってきて、日本車排斥で壊されるなど貿易摩擦を経験していたから、米国にたてつくような妻の行動には、なんとなく違和感を覚えていた。
ノブオは、娘のミツコ(清水直子)が米国人の男と付き合っているのも気になっている。アンドリュー・ジャクソンといった。1828年に就任した第7代大統領と同じ名である。夫婦はこの大統領がどんな政治家だったか、米国史にも造詣が深い。初めて米国に普通選挙(黒人を除く)をもたらした大統領だったが、もともと軍人で、インディアンを多数殺して土地を奪い、はるか西方へ追い落としたいわば西部劇の騎兵隊を率いた張本人とノブオは手厳しい。むろん娘ミツコが付き合っている男とは何の関係もない。
そのミツコは、海岸で散歩中の祖父(可知靖之)が、市のカルチャー教室で話す講演の暗唱をしているところに出くわす。祖父は、逗子に永く住んだ徳富蘆花に心酔していて、彼と逗子との因縁について語ろうとしていた。
「真白き富士の嶺、緑の江ノ島・・・」の曲は、もとは米国人が作った明るい希望の歌だったが、日本では、明治43年1月、逗子開成中学のボートが転覆、十二人が遭難した事故の合同慰霊祭で歌われたものだった。老人は、小学三年生として出席した慰霊祭の様子をよく覚えていた。横須賀鎮守府長官、海軍中将瓜生外吉、逗子に別荘を構えていた海軍大将東郷平八郎、小説家徳富健次郎が出席、歌は鎌倉女学校の生徒70人によって歌われ、出席者五千人余の感涙を絞ったという。
老人は、しばしば自分を徳富蘆花だと思い込んで、妻を愛子と呼ぶことがあった。愛子は蘆花の妻である。ボケが始まっていたとはいえ、この遭難事件と徳富蘆花の小説「不如帰」との間には曰くいい難い物語があると、まるで我が事のように語るのである。
老人の妻アキコ(大塚道子)は大正元年生まれ、赤沢家の家付き娘で池子弾薬庫跡地の森は米軍に接収されるまで自分の家の庭であった。最近、密かに孫のマモル(志村史人)の車で、この幼い頃の遊び場にやってきていた。むろん、米軍の土地だから発砲されても不思議ではない。
それが偶然ケイコに見つかって、ノボルの知るところとなった。妻は池子を米国から取り戻すべきだといい、夫は米国に車を買ってもらって身をたてているのだからあきらめるしかないと言い争っているうちに、革命という言葉がどちらからともなく飛び出した。ほんとうに日本の現状を変革するには革命しかないというわけである。それをきっかけに、60年安保のことが思い出される。6.15、二人ともあの激しいデモの中、樺美智子のすぐそばにいたことを互いに知らなかった。ノボルは、日本で革命が起きる可能性があった唯一の瞬間だったと述懐する。
八木柊一郎は、演劇人の安保共闘に参加して、中心的な役割を担った。終結後「忘れまい6.15」(八木柊一郎作詞、林光作曲)を作っていて、これはこの劇の中でもうたわれる。ノボルの高揚した様子は、この時の作家の実感だったかもしれない。
夜、一家が集まっているところで、娘のミツコが、米国人のアンドリューと結婚するといいだして、家族それぞれが複雑な反応を見せる。アンドリューを愛しているのはもちろん、自分は米国に行って暮らして見たいと思っているという。ミツコにはこの時代の若い娘が持つ米国に対する漠然とした憧れがあるのだ。母親のケイコは、肯定的な態度、父親のノボルは、米国人とビジネス上で多数付き合った経験から、結婚には慎重であるべきだという。弟のマモルは何か言いたげであるが、発言を避けている。
そこで、老人がここぞとばかり、ミツコの話を飛び越えて、日米の関係について大演説をはじめた。日本の憲法は米国から押し付けられたもので、日本国民が自ら決めたものではない。戦争の放棄などは国としての態をなさないではないか。北から南までこれほど他国の軍事基地が存在する国は他にない。日本はずっと米国の属国だった。唯一60年安保のときに独立のチャンスはあったが、今でも日本は占領国といっていい状態ではないか。米ソ対立の狭間にあって、一度は独立の貧乏のやせ我慢を試して見るのもよかった。というのが発言の趣旨であった。ここの演説は、軍事評論家はだしの日米関係論を展開する場面で、こういう家庭劇に登場するのは珍しいかもしれない。
もっぱらその論に抵抗するのはノボルで、「それにもかかわらず日本はうまくやってきたではないか」あるいは「米国も内政では麻薬やホームレス、銃の問題など、相応に苦しんでいる」と曖昧な態度で応じる。むろん結論など出ることでもない。
躊躇していた弟のマモルが、自分は結婚には反対だと言い出した。アンドリューは教師だといっているが、そんなふうに見えないという。ほんとうは軍の情報関係の仕事をしているのではないかというのがマモルの見方だった。しかもミツコを紹介する前にマモルとアンドリューがただならぬ仲にあったことを告白したのだ。祖母が「かわいそうに、マモルは陰間だったのかい。」というのがなんとも古風でおかしかった。
ミツコは家を飛び出す。あわてて両親とも追いかける。残された老人が、自分の演説でこんなことになったと嘆くが、妻のアキコに促されて、翌日に控えた講演の原稿を再び暗唱しはじめる。
あの逗子開成中学の12人の遭難者の話が、幸徳秋水らの大逆事件と関係しているという老人の妄想めいた話である。
徳富蘆花は大逆事件の後、助命嘆願書ともいうべき「謀反論」を書いたが、処刑に間に合わず、第一高等学校でこれを朗読して擁護した。この時の刑死者が幸徳以下十二人で、ちょうど一年前の開成中学の遭難者と符合することから老人は徳富蘆花がつないだ何かの因縁ではなかったかというのである。「不如帰」の波子のモデルが実在して、その軍人の弟が乗艦した軍艦云々がと言う話は「教養」としては面白いがややこじつけで、冗長であった。
ミツコが一人帰って、アンドリューとの結婚はやめた、もう会わないと宣言する。アブノーマルではないかと自らを心配している弟を挑発し、ストレートだと励ますまでに回復していた。
明け方の居間で、ノボルとケイコは何ともいえない脱力感におそわれていた。自分は今まで何をやってきたのか?存在すらしていなかったのではないか?「三人姉妹」の終幕でチェプトイキンがやったように、ぶつぶつと同じようなことをつぶやき、力なく生きていく姿と自分を重ねるのであった。
そして、それを吹き飛ばすように、ステレオ装置のボリュームを一杯にあげマーラーの5番が鳴り響く中、幕が下りる。
明らかなように、明治世代の国というものの考え方、昭和世代にとっての現実的な国のありよう、そして若い世代の国際感覚という三つの異なった国家観が、一つの家の中に国境のようなものを形作っているという様を描いた。しかも、逗子という米国の軍事施設がある場所、つまり実際の国境がある街を舞台にして。
八木柊一郎にして見れば、老人の考えは十分理解しながら、焼け跡から40年(この時点で)、ここまで積み上げてきたのは自分たちであったという自負もあっただろう。しかし反面、老人たちが指摘するようにあるべき国家のかたちも考えずにただ現実に流されてきたのではないかと内心忸怩たるものがあったに違いない。
終幕近くのノボルのせりふに「家の中の国境線の左右に老人と若い者たちがいるとすれば、自分たちは線の上にいる。線とは面積のないもの、つまり存在しないものではないか?」と自問するところがある。自分たちがよってたつべき場所はどこか、と言う問いはわが国民に共通の課題であるといっているようである。
八木柊一郎は、旧制山形高等学校を戦後に中退している。蘆花徳富健次郎に心酔する一高出の老人とか、開成中学生遭難、大逆事件など古くてやや高踏趣味のきらいがあるのは旧制高校のエリート臭がして若干嫌みだが、それを除けば、極めてまともで詳細な日米関係論、国家論になっている。向き合う世代も彼らの議論の展開もそれなりに納得のいくものであった。
「日本は米国の第五十一番目の州」とは典型的な当時の議論であった。こういう屈辱的な言われ方に、妙なナショナリズムをあおられると言うむきもなかったわけではないが、日本と米国の関係が一瞬真空地帯に入ったような時期であって見れば、こういうジョークも仕方がなかったかもしれない。
しかしこのあと、ソ連は崩壊し、ベルリンの壁が壊れ社会主義は完全に敗北して、世界は米国を中心に再編成されていく。その過程で、超大国に押さえられていた各地の民族主義や宗教対立の問題が一気に噴出し、アフリカ、中東、バルカン半島において紛争が起きた。湾岸戦争では大金を拠出しながら日本の貢献は評価されないと言う憂き目に遭った。冷戦終結後の世界にどう対処していいか日本はまだ何も知らなかったのである。
その後の十年は、バブルの崩壊と不良債権に苦しみ、日本は長期の低迷期を向かえ、すっかり自信を失ってしまった。この間米国が主導した「グローバリゼーション」も受容せざるを得ないという気分になったことは確かである。そして9.11、米国は明らかに正気を失った。
これによって国際関係は一気に流動化、日本外交は米国追随と見えているが、それだけでことが済む事態ではないことにようやく気がついた。中国経済の著しい成長、北朝鮮との緊張関係、石油を巡る中東諸国との関係、ロシアとの領土問題、欧州連合との競争と連携などなど、全方位で国際社会と向き合わねばならない時代になった。
つまり、国家とは何かとか国家はどうあるべきかなどという観念論では、日々の個別の問題に対応しきれないと言う現実に直面したのである。
ある意味では、武力を行使しないというだけで、戦前の日本に帰ったようなものである。松岡洋右や軍部は、国際社会のルールの閾値が変更されたことに気付かずこれを踏み外してしまったが、この轍を踏まぬためにも世界の動きを注意深く見守っていなければならない。
この劇は、赤沢家の人々に名を借りて、あの当時の日本国の政治状況のなかの世代間の感覚の違いを示そうとしたものであって、そのために登場人物には老人、中年の男、若い女などと世代を代表する意味の役名を付したのであろう。
いま考えると、あの時代の米国は若い世代が面白がる要素はあった。また、上の世代には経済成長は成し遂げたが、一方で独立した国家として評価出来ないというジレンマがあったことも事実である。
しかし、現在においては、世代間の感覚の違いはあったとしても、「国益は何か?」と考えるのが共通の見解のように思える。つまり当面の間は、米国だろうがどこだろうが現実主義と相対主義でやっていかなくてはいけないというのが日本人の立ち位置なのだと思う。そのうちに、次第に「国家」などという概念も変容していくはずだから、なにもこぶしを振り上げなくてもいい、気長にやっていくしかない、と言うのが僕の考えである。
したがって、この芝居は20年にして、古典の風貌を供えた物語になったのであり、ゆめゆめ八木柊一郎のアジにナショナリズムをかき立てられて、無分別に米国出て行け!などと叫んではいけない。
安川修一の丁寧な演出もあって、説得力があった。達者なベテランに交じって若い世代も健闘していたと思う。俳優座、しっかりしろよ