題名:

国語元年

観劇日:

05/6/10

劇場:

新国立劇場

主催:

新国立劇場

期間:

2005年6月3日〜6月12日

作:

井上ひさし

演出:

栗山民也

美術:

石井強司     

照明:

服部基  

衣装:

渡辺園子

音楽・音響:

宇野誠一郎

出演者:

佐藤B作 たかお鷹 山本竜二土居裕子 沖潤一郎 剣幸 田根楽子 植木潤 後藤浩明 角間進 岡寛惠 野々村のん
 


「国語元年」

三年前の春に見たときは、偏見を持っていた。文部官僚が標準語をつくったとは聞いたことが無かったからだ。井上ひさしのホラ話に違いないと思ってみたが、案の定、悪戦苦闘したあげくに完成できなかった。もともと世間の常識では、東京山の手言葉がいわゆる標準語の土台になったことになっていて、いくら薩長政府でも「おまんさー・・・ごわす。」など全国民に押し付けて済むはずが無いと思ったろう。
何故、標準語なるものが出来たかについて、定説がどうなっているのかは知らない。大方のところ、言文一致体の文章ができ上がって行く過程で案外すんなりと出来たのだろうというのが僕の考えである。
二葉亭四迷が「浮雲」という本邦初になる口語体小説を書いたときを山本夏彦は「これを産み出すときに天地万物を産み出すような苦しみをした。」(「完本文語文」より)と書いている。その後、すすめられて二葉亭はツルゲーネフの「あひゞき」の翻訳を試みて徳富蘇峰の「国民之友」にのせるが、これが「出来立ての口語文とは思えない出来栄え」(夏彦翁)で、皆唖然とした。国木田独歩が「武蔵野」を書いたのはこの口語文に刺激されてのことだったという。一葉樋口奈津(夏)がもう少し長生きしていたらと思えば残念この上ない。
というわけで、言文一致体の誕生とその産み出されたものの万人が認めるすじのよさがごく自然に標準的話し言葉になり、共通語と言う暗黙のコンセンサスを産み出したのに違いないと、僕はそう思っている。
このような見地からすれば、小学唱歌を編纂したという文部省学務局四等出仕、南郷清之輔(佐藤B作)ごときが「あーだ。こーだ。」悩んだところで所詮は小役人、小説家などという当時も今もやくざな渡世のものでもなければ、こんな大事は行えない。
ざっとまあ、こんな偏見であった。
ところが、芝居というものは何度見ても新しい発見があるもので、今度の場合、最後の最後ではたと膝をたたいてしまった。つまりエピローグで、書生の広沢修二郎(植木潤)が一同打ち揃ったところを写真に収めようとして、ストップモーションになりそれぞれの消息を語る場面である。だんな様=南郷清之輔は二十年後の明治二十七年、本郷の東京瘋狂院で亡くなったと淡々と語ったのであった。前回は、ここを聞き流していた。結局、南郷清之輔は標準的な日本語話し言葉を産み出そうとするうちに狂った。狂ったために婿養子だった清之輔を置いてつれあいの親娘は鹿児島へ帰ったらしい。西郷隆盛の征韓論が一敗地にまみれて、上京していた薩摩隼人の多くは故郷に帰った。ご隠居は三年後の西南戦争の激戦地田原坂で戦死したとあるからまだ矍鑠たるものだったのだろう。下男の弥平(角間進)が主人に付き添って亡くなるまで面倒を見たようだ。
狂ったのは、自分が身命を賭して働いた文部省学務局が無くなったからなのか、標準的日本語口語体を完成できなかったからなのか、まあどちらでもあろうが、井上ひさしは主人公を精神病院にぶちこんむことで芝居を締めくくったのである。こう言う身もふたもない終わり方は他にも、例えば「雨」「薮原検校」など無いわけではないが、この芝居は後からじんわりと哀しみというかある種の感慨がやって来る点で、一線を画している。
もともとテレビドラマとして書かれた本だというから、どちらかといえば、明治初期の混乱期に方言同志が語り合う、混乱、おかしみに主眼が置かれたものだったに違いがない。新しい文法を編み出してそれについて実験を行うなどという高級な話に当時も今もテレビの視聴者がたえられるとは思えない。
ところが、この文法を完成しようと悪戦苦闘するところがこの芝居のもっとも大事な見どころ、テーマになっていて、これがいかに難事業であったかを、ついには狂ってしまうという後日談をさらりと知らせることで示したのであった。
そもそも、僕の誤解は年代感覚のずれにあった。二葉亭の「浮雲」は明治二十年〜二十二年である。しかし、「なるほど『浮雲』は先頭を切ったが、ホンマモンの口語体小説の嚆矢は紅葉の『多情多恨』(明治二十九年)と私は思う。」(徳岡孝夫)と言う人もいる。口語体も完成したと言えるのは尾崎紅葉の不倫(未遂)小説からだというのである。このころ樋口一葉は『たけくらべ』『にごりえ』を文語体で書いていた。鴎外森林太郎にしてもこの時代まだ文語体である。しゃべるようにあるいは饒舌に書くということが盛んに行われるようになるのは、明治三十年以降のことであった。
このあたりになると軍隊もなにしろ日清戦争を戦う必要があったのだから、組織も整い、号令や伝達の言葉も統一されていたに違いない。明治憲法も発布されてあらゆる方面において国家がひとつになる方向をめざしていたのだから標準的な口語体がまとまるのも自然の理であったろう。
ところが、この芝居の舞台は明治七年、東京と名をあらためたばかりの元江戸は麹町番町である。学制は布かれたばかりで、全国に小学校は約四百あったが、この当時の推定人口三千万人に対してこの数は、日本の識字率がまだ50%程度に留まっていたことを思わせる。(それでもアジア諸国に比べたら断トツに高い。)学制だけではない。この時代、郵便だの鉄道だのあらゆるインフラが西洋化されねばならない、国家の草創期にあった。三百諸侯のお国なまりも日本語として統一される必要があったのだ。
小学唱歌を編纂した実力を買われて、南郷清之輔がこの任を仰せ付けられたのは自然の成り行きだった。
井上ひさしは、このように政府が新しい日本語を簡単に作れると考えたことに間違いがあるという認識を土台にこの芝居を書いた。だからこそ、それは未完に終わり、南郷清之輔はついに気が触れてしまったのだ。
こう言う物語の骨格ははっきりしているが、その過程は実に面白く描かれている。
南郷家に集まったのは全国から縁あってやってきたもので、そこはお国なまりの集大成、方言のるつぼとも言うべき呈であった。南郷清之輔は長州弁、妻光(土居裕子)とその父重左衛門(沖恂一郎)は薩摩の出で鹿児島弁である。御一新のとき夫が上野の山でゆくえ不明になり、巡り巡って元自分が住んでいた屋敷に奉公することになった秋山加津(剣幸)は東京山の手言葉、下女の高橋たね(田根楽子)は江戸長屋ぐらしがながい下町言葉である。下男の築館弥平(角間進)は南部遠野弁、若い下女の大竹ふみ(野々村のん)は羽州米沢弁、書生の広沢修二郎は名古屋弁と南郷家は北から南からやって来たお国なまりが飛び交うなんとも囂しい屋敷である。そこへ、南郷清之輔にだまされたという御田ちよ(岡寛恵)が飛び込んでくる。清之輔は名をかたられただけの人違いと分かるが、行き場が無いことから南郷家に居座ることになる。ちよは河内の出身で、これがべろべろの大阪弁。それにあるとき日本語教授という触れ込みで、上がり込んできた裏辻芝亭公民(たかお鷹)が京言葉、後で強盗に入ってくる若林虎三郎(山本龍二)はもと会津藩士で、極端に分かりにくい東北訛り、と登場人物の言葉は一度聴いただけでは判別がつかないほどである。
この通じないということが様々の悲喜劇と言うか喜劇を生んでおかしいのだが、とりわけ強盗に入った虎三郎の言葉が誰にも通じなくて、お互い立ち往生してしまう場面がおかしい。「かねをだせ。」を「じぇねこくんにぇーが。」と言うのだがこれを南部遠野出身の弥平が聴いてもチンプンカンプンで腹を立てた虎三郎にけ飛ばされてしまう。会津も遠野も同じ東北なのに通じないのはおかしいと思うかもしれないが、発音のずーずー弁というのは似ていても、山ひとつ隔てればもう分からないというのがお国なまりである。虎三郎はこの状況に苛立つが、そこへ武家の教養をもつ加津が割って入って、「じぇね」と言うのは『ぜに』つまり『銭』ことではないかと尋ねると、果たしてそうであった。つまり、言葉というものは分からなくても僅かな手がかりを見つけて推論し、仮説を立てて検証するという手続きを持って理解できると言う方法論を期せずして示したのであった。こう言うものが可能になるのは教養の力である。
そんな騒ぎの中から清之輔は、新しい全国統一はなし言葉は各国のお国言葉からいいものをとって編纂するというアイディアを具申するが、田中閣下に一蹴される。会津言葉などけしからんというのである。薩長に逆らった敵の言葉など言語道断、何を寝とぼけたことを言っていると叱られてしょげ返る。
これがヒントになって言葉を権力の構造にしたがって政治的につくるのが受容されやすいと判断し、維新に貢献した薩長土肥の言葉から選択のうえ数のバランスを考えて提出しようとするが、鹿児島言葉から選んだ数は足りても、単語が皆暗い後ろ向きの意味ばかりでご隠居が怒りだす。
とうとうこれも諦めたところへ、加津が、若いころ吉原の飯炊きをやっていてた高橋たねが花魁言葉はやさしいと言っていたのを思い出して、その話を清之輔の前でするようにすすめる。「そうザンス。」「お分かりナンスエ?」とやる例の言葉である。なるべく分かりやすいつまり東京山の手の言葉使いに・・・スとか・・・スエ?とかつけて話せば、どこの地方出身の男にも通じた、または花魁がなまりを隠せたと言うわけである。
清之輔はこれに目をつけた。こうして完成を見たのが全国統一はなし言葉、文明開化語規則九条である。
動詞を活用するときになまりが忍び込むので、活用させずに言い切るかたちにする。たとえば「わかる」と言う言葉なら、文の終わりに来て言い切る場合、「ス」をつける。「わかるス。」言いつける(命令形?)場合は「セ」をつける。「わかるセ。」「行くセ。」「来るセ。」
可能を表すには「・・・コトガデキル。」否定を表すには「・・・ヌ。」、「売るヌ。」「わかるヌ。」とやる。過去と未来は「・・・タ。」「・・・ダロウ。」をつける。といったことである。
理屈はよく出来ている。理屈を覚えたら話すのは出来ないこともないが、情が通じるかどうかはわからない。そう思って、清之輔は様々の実験を試みる。虎之介を相手に刀を売りつけ、こともあろうに下女のふみを口説いてみる。
ここのやり取りがよく慣れていて、この不思議な言葉が案外当たり前に聞こえて来るのはどうしたものだろう。こうして完成したと思った清之輔が押っ取り刀で文部省に駆けつけたところ、職場が無くなっていたという最初に書いたところにつながる。
これより前、お国言葉を買うという公民先生の提案に一同がそれを持ち寄るのを虎三郎が批難していうせりふがある。
「いいか、言葉というものは人が生きていくうえでなくてはならない宝物だベ。理屈こねて学問するにも言葉がなければわからない。人と相談するのも商いするにも言葉だ。人を恋するとき、人と仲良くするとき、人を励まし人から励まされるときいつでも言葉がいる。人は言葉がなくては生きられない。そんな大事な言葉を自分一人の考えで勝手に売り払って構わないと思っているのか?・・・」
南郷清之輔の努力は理解できるが、自分一人の力で、と言うよりは政府=権力の力で、全国統一話し言葉の制定を企てたことにそもそも問題があったのではなかったかということがこう言う台詞から感じ取れる。虎三郎も実験しようと、清之輔のつくった文明開化語で警察を襲ってみたが、迫力不足でつかまった。実用には向かないという感想である。
清之輔は狂ったが、その命が消えようとしていたころ、二葉亭や尾崎紅葉たちが口語文すなわちしゃべるように書く日本語の文体を生み出す苦しみを味わっていた。おそらくそれが、話し言葉の土台になり、やがてラジオと言う文明の利器が登場してNHKのアナウンサーが標準的日本語を全国に流布していくようになるのだ。
このような俯瞰図に清之輔を置いてみると、少し置き場にこまるが井上ひさしのユーモラスな筆致によってしかるべき位置を与えてもいいような気になってくる。狂ったあと二十年病院にいて亡くなったと気付いて、いささかの哀歓を持った所以である。
植村潤は、テレビの演劇中継番組でなじみだった。芝居ははじめて見るが、禿頭と大きな目玉が迫力である。観客をいじる余裕もあって、さすがは「花組芝居」の立役者である。ただし、やり過ぎのところもあった。岡寛恵は適役とは思えないがよくやっていた。たかお鷹の公民先生もどんどんよくなっていく。剣幸もはまってきたように見えた。
この芝居は4回目の再演ということだが、アンサンブルはすこぶるよかった。
それは、演出の栗山民也の力に負うことが多いのだが、さりげなく一点の瑕疵もないようにできているために、その功績が見えにくい。ここに記して称えたい。   

 

(2005.7.4)


 


新国立劇場

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