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作者晩年の1939年に書かれた作品である。初演は46年、舞台は1912年のニューヨーク、劇作家として波乱のスタートを切った時代の自分を懐古して書いたと言われている。二階が木賃宿になっている酒場というのは西部劇だけかと思っていたら、大都会にもあった。幕が開くとその酒場のいくつかあるテーブルの上にはそれぞれ酔いつぶれて正体もなく寝ている連中がいる。下手側の壁に天井まで縦に入ったスリット状の明かり取り、そこから僅かなどんよりとした外光が入っている。下手奥には二階に通じる階段、正面の柱に丸い大きな動かない時計、そこから一段高く上手一杯にバーカウンターがのびていて出入り口に向かっているが、テーブル席とは紗のカーテンで仕切られているためにその先は見切られている。上手手前に古ぼけた箱形ピアノ。奥まったバーカウンターは使われることなくおおむね芝居はテーブル席で展開する。
連中の中でラリー・スレイド(木場勝巳)だけが覚醒している。この男はかつて西海岸でアナルコ・サンジカリズムつまり無政府主義の労働組合運動に深く関わっていたが、何かあったのか、運動から足を洗ってNYに流れてきた。バーテンダーのイタリア系、ロッキー・ビオッジー(たかお鷹)と話をしているが、政治運動に絶望しているどころかその自分の過去をのろっているうえに、人生そのものを何の意味もないものと否定してかかっている。そのきりきりと自分を苛む絶望的なニヒリズムのために酔いつぶれて眠る気さえもしないといったところらしい。
第一幕では、この酒場の常連、むろん二階の安宿に長逗留している酔っ払いの連中の紹介をバーテンのロッキーとラリーの会話を通して行う。
上手手前のテーブルには三人の男が突っ伏している。ハリー・ホープはこの木賃宿のオーナーである。二十年前妻が亡くなると悲しみのあまり家から一歩も外へ出ないと決意し、それを今日まで堅く守って、毎晩自分の店で飲んだくれている。脇でつぶれているのはハリー・ホープの亡くなった妻の弟で、かつてはサーカスの切符売りをしていたエド・モジャー(宮島健)、サーカスへ戻ろうという気はどこかに残っているが今では義理の兄に寄り掛かって何の仕事もしていない。もう一人は元警部補、パット・マグロイン(小田豊)で、
汚職が見つかって警察を追われた。もちろんアイリッシュである。自分では冤罪だといっているが、あやしいものだ。もう一度裁判に訴えてでも復職をと考えている。だが、思っているだけで毎日酔いつぶれて愚痴をこぼしているだけだ。
奥の真ん中のテーブルで正体をなくしているのはジョー・モット(二瓶鮫一)、黒人で博打専門のバーをやっていた経営者だが、自身の博打で身上を無くしてしまった。夢よもう一度と思っているが、復活の手がかりすらなく、居座っている。その手前のテーブルに坐っているのはジェイムズ・キャメロン(花王おさむ)、元新聞特派員。ボーア戦争の取材で留守をしている間に妻に浮気をされて離縁した。相手が将校だったことはせめてもの慰めと思っているのだが、これを許し難いとして毎日怒りにまかせて酒をあおっている。下手奥のテーブルにはぼろぼろのシャツとズボンをまとったウイリー・オーバン(大鷹明良)がいて、時々歌ともつかない奇声を発して迷惑がられている。ハーバードの法科を出たが、アルコール依存症で法曹界から締め出されているといっている、はたして本当か?叔父に実力者の裁判官がいて、これに話をつけて弁護士になろうと思っているが、酒の誘惑は断ち難く一日延ばしに延ばしている。そして、もう一人ラリー・スレイドの向いに突っ伏しているのは、ヒューゴ・カルマー(久保酎吉)、アナーキストの雑誌を作っていたという触れ込みだが、不意に起き上がって、詩の一節を暗唱したり、椅子の上に立ち上がってアジ演説をするところなどは、実際に欧州辺りで無政府主義の活動を行っていたのではないかと思わせる学者タイプの老人である。ちなみにカルマーという名はカール・マルクスから作ったという話があるらしい。
そこに新しく投宿する若者が現れた。ドン・パリット(岡本健一)はラリー・スレイドを訪ねて西海岸からやってきたといっている。しかし、ラリーは見覚えがないと冷たくあしらう。若者の話によると、自分は幼い頃から母親の組合活動に巻き込まれてそれを手伝っていたが、その頃ラリーらしき男が家に出入りし、かわいがってもらった記憶があるというのだ。いつの間にか男の姿は消え、最近になって、仲間の密告によって母親が逮捕され投獄されてしまい運動は壊滅状態になってしまった。自分は組合活動の意味も分からず、それ以上続ける気もなかったので、母親と関係があった男という昔の記憶をたどって、自分がこれからどう生きたらいいかラリーに相談しようとNYまでやってきたというのである。しかし、それなら彼は最も頼りにならない相手を選んでしまった。ラリーはお前など知らない、母親という女も会ったこともないとけんもほろろ、さっさと目の前から消えうせろと激しい剣幕で追い出そうとする。しかし、ドン・パリットは何かいい足りなそうな態度で、宿から出ていこうとしない。
他に、バーテンのロッキーがヒモ家業もやっていて、抱えている二人の気のいい娼婦、マージー(岡寛恵)とパール(野々村のん)、また、昼番のバーテン、チャック・モロー(粟野史浩)とその恋人、娼婦のコーラ(明星真由美) が酒場ににぎやかさを添えている。
彼らは時たまやってくるセールスマンのヒッキー(市村正親)を待っている。ヒッキーはとびきり陽気で話がうまい。気前が良くて皆ふるまい酒に酔いながら、彼の繰り出す冗談話に笑い転げて一夜を過ごす。「氷屋来たる」の話もヒッキーの笑い話に出てくるものだ。昔の冷蔵庫が氷を使っていたことを知っている世代はめっきり少なくなった。子供のころわが家にも氷の冷蔵庫があった。木製のがっちりした箱で扉を開けると中はブリキでできていて意外に狭い。断熱材が木箱とブリキの間に入っているのだろう。最上段は簀の子になっていて、そこに一貫目(3.75kg)単位に鋸で切られた氷を数個入れて置くと、冷気が下に下がってひんやりするというものだった。米国でも1912年当時はこの冷蔵庫だったのだろう。氷屋が定期的に各家庭を訪ねて配達したために、その若者たちが留守を預かる主婦の浮気相手として、格好の話のタネになったのである。翻訳の沼澤洽治がタイトル ”The Iceman Cometh.” の露骨なピンクジョークを紹介しているが(パンフレット「訳者雑記帳」)このタイトルはさらに新約聖書マタイ伝二十五章にも言及しているのだそうだ。
「・・・華燭の宴に来る筈の花婿がなかなか姿を現さないので、これを迎える付添の若い乙女たちが、眠り込んでしまう話であるが、夜半に『花婿来る』と叫ぶ声がして一同を目覚めさせる(この箇所は、人が天国に臨む心の備えを諭した寓話であり、花婿は再来するキリストを示すという)。つまりオニールは、下世話な冗談の「氷屋」を聖書の「花婿」のイメージにかなり際どい形に結びつけているわけで・・・」
奇妙なタイトルだと思っていた疑問が解けた。このあと劇の進行とともに「氷屋」を絶望や死に神を象徴するイメージに変えていくのだが、オニールの、いかんともし難い真情、いわば世の中に対する、あるいは神に対する悪態のようなものが複雑に込められてでき上がっていたのである。
さて、その待望のヒッキーが久し振りに酒場に現れる。彼は相変わらず陽気ではつらつとしている。明日は酒場のオーナー、ハリー・ホープの60歳の誕生日。ヒッキーはみんなでそれを祝おうと持ちかける。ハリー自身が自分の誕生日を忘れていた。夜中の十二時を回ったらシャンペンで乾杯しようという趣向で、一同は部屋を飾り付け、テーブルを寄せてダンスフロアを作った。よどんだ酒場の空気にヒッキーは風穴を開けた。みんないそいそと張り切っている。一同が揃った。カウントダウンのあとケーキが運び込まれる。ヒッキーは酒を飲まない。酒はやめたんだという。そして、思いもかけない言葉が次々とヒッキーの口から出てくる。ハリー・ホープには、妻の死を口実にして酒場から出ようとしないのは、本当は世間を怖がっているからではないかと攻め立てる。もうそろそろ世の中の風に当たって次のことを考える時期ではないかと諭すと、何とハリーは納得して同意する。
いつも「明日になれば」と先延ばしにしているハーバード出のウイリー・オーバンに向かって、ヒッキーは、酒をやめて弁護士になる道を行くべきだという。すると、彼は元警官のバット・マグロインに近づくと「あんたの訴訟の弁護士に雇ってくれ」という。弁護士の仕事を持って叔父のもとに頼みにいこうと決心したというのだ。パットもその気になっていた。また、ジェイムズ・キャメロンは、妻の浮気を責めてばかりいたのは間違いだった、といいだした。ほんとの原因は自分が作っていたのかもしれない、妻が浮気をする前に自分はすでに妻を愛していなかった。それにかこつけて酒におぼれ、新たな人生を切り開こうともしなかった。明日こそ仕事を探しに行こうという。ジョー・モットももう一度カジノを開くためにこの酒場から明日出かけると言い出した。皆、ヒッキーの魔法にかかったように明日は世間に出ていくというのである。ひとり、ラリー・スレイドだけはヒッキーの話に乗ってこない。ヒッキーは手ごわい相手だとは思っていたが、こんな酒場でくすぶっているようじゃろくなことにならないという。しかし、ラリーの態度は頑なである。
翌日、ヒッキーは金を出して服装を整えさせ、一同はそれぞれ店を出て行く。ハリーはついに二十年ぶりにNYの街に出ていく。バーテンのロッキーが店の中から様子を窺って1912年のマンハッタンを実況中継するところが面白かった。まもなく急いでかえってくるが、自動車が怖かったと言い訳をする。T型フォードが作られはじめて僅か四年、その頃のNYではまだ、せいぜい一時間に一台も通れば多い方であった。そんなふうにして、一旦店を出た者たちは夜までに皆戻ってきてしまっていた。
その夜ヒッキーは、皆を責めて、もう一度考え直せといいながら、いつしか自分のやった驚くべき行為を話はじめる。NYで最も長いせりふといわれたこの告白が続いている間にスーツに帽子を被った二人の男が現れる。刑事らしい。一同は色めき立つが、落ち着いてヒッキーは自分が呼んだのだという。結局ヒッキーは逮捕される。
背中を押してくれたヒッキーがいなくなった。一体おれたちの明日はどうなるのだと、皆不安に駆られる。もう一度勇気を振り絞って店を出ていけるだろうか?再び酒場の沈んだ空気が戻ってくる。舞台は安酒に酔いつぶれて寝ているあの最初のシーンに帰った。なにも変らなかったという徒労感だけがただよっている。
ラリー・スレイドにドン・パリットが時々近づいては西海岸での出来事を話していたのだが、とうとう警察に母親と仲間を金で売ったのは自分だったと告白する。その金でNYまでやってきたのだ。ラリーはそんなことは承知だったという態度であった。しかしあくまでも自分に関わりのないことであった。ドン・パリットはこの先どうしたらいいだろうと執拗にラリーに迫る。「上に行って終わりにするんだな。それで楽になる筈だ。」外階段の踊り場から転落する方法があると暗にいったのだ。やがて、ドン・パリットは階上に上がっていく。ラリーは耳をすましている。それからややあって、何かが地面に落ちる鈍い音が響いてくる・・・・・・。
いかにもユージン・オニールらしい芝居で、三時間四十分、厭きさせもせず一気に見せてくれた。俳優は、現在望み得る最高のキャスティングといえる。それぞれの個性をくっきりと彫り深く描いていて、ストーリーはともかく群像劇としての面白さが遺憾なく発揮されていた。市村正親のヒッキーも心配していたほど浮き上がってはいなくて、冷静に陽気なヒッキーをつくり出した。演出家栗山民也の得意とするタイプの劇には違いないが、このような陰々滅々たる救いのない芝居を何故、彼は芸術監督最後の演出作品として選んだのであろうか?この劇の持っている世界観に、共感しているとは到底思えないのである。
善意の人、ヒッキーの長い演説は一見合理的に聞こえるが、結局は独りよがり、自分勝手、自己中心的な主張に過ぎない。自分のせいで妻が不安に駆られ、動揺し、気に病むことが鏡に映るように自分に返ってくるからといって、その苦痛を取り除くのに、鏡を壊してしまうという行為は誰が見ても非合理である。取り除かれるべきはむしろ自分のほうではないか。だから、酒場の人々は「ヒッキーは気が狂ったのだ」とまともな感覚で見ていた。彼は刑務所ではなく、精神病院に入れられるだろうとマージーとパールがいう。「そしたら私、会いにいってやるわ。」
酒場の片隅から皮肉な目で世間を見ているラリー・スレイドにも救いがない。社会主義運動に身を投じていただけに、その反動は激しく、社会と人間に対する不信、怒りは根源的なものであろう。しかし、死ぬことにも意味を見いだせず、ヒッキーの呼びかけにも偽善の匂いを嗅ぎつけ、明日があるとも思えない、行き場のない隘路に追いつめられ生きていなければならないのである。酒場の連中にしても、明日こそといいながら、その明日は永遠に来ない明日と信じている。このようにして僕らは、一切の手がかりも与えられず、不幸のどん底であえいでいる人々の姿を見せられて劇場を後にすることになる。
あえて言えば、わが国の現状からいって、格差社会が進行すれば、この1912年当時の米国の不景気が表しているように、酒場ならぬ、マンキツに、信じてもいない明日の夢を見るという救いようのない人生がふきだまることを警告しているのかもしれない。
この戯曲はユージン・オニールの代表作であり、正統的な文学史では必ず取り上げられる「傑作」であると内野儀(東京大学教授)はパンフレットに書いている。(「告白」と言う制度と「女性嫌悪」−「氷屋来る」を巡って−)しかし、一方で「これが何故『傑作』であるのか、あるいは『傑作』とされたのか、歴史的に解明される必要に迫られている。」と奇妙なクエスチョンマークを指し出してもいる。僕が一体、この暗く何一つ光明の見いだせない劇のどこが面白いのか? と思ったのはまんざら的外れの感覚でもなかったということだ。彼は、何故『傑作』か?という問いはまた「いわゆる近代劇というある一時代を席捲した演劇の形式が、普遍性の神話を今でも維持し得ると、少なくとも第一世界のメインストリームの文化の圏域では考えられていることともどこかで関係してくるだろう。」となんだか歯切れの悪い苦渋に満ちた言い方をしている。まるで『傑作』だといっていることに異議を唱えたい気分のようだ。ここで言いたいのは端的に言えば『普遍性の神話』という点で、この劇には何があるだろうか?ということだろう。つまり時代や場所の違いを超えてなお了解可能な普遍的価値というものが『傑作』の条件ではないかといいたいのだ。その点で、彼はヒッキーの「告白」を「キリスト教伝統の延長線上にある『告白』、制度としての『告白』とみて、これには欺瞞があるのではないかといっている。つまりヒッキーの『告白』は酒場の飲んだくれという聴衆に対して行われるのだが、それを通じてヒッキーは決定的な自己認識に至る。それはすぐに否定されるべきものであったが、「その否定へという言語化=文節化のプロセスを共有することで、半ば逆説的だが、絶望の果てのかすかな希望すらそこに見いだしているかのようである。いや希望というのは言い過ぎだろう。むしろ、絶望を共有することの、希有でもあり絶望的でもある共同性がそこから立ち現れてくると言い換えた方がよいかもしれない。そしてもしその共同性に感動したりするなら、観客もまた、その共同性から必ずしも自由ではないことになる。この事態を肯定的に捉えることは可能であり、だからこそこの戯曲は文学史的『傑作』とされてきたのである。」(内野儀「パンフレット」より)
告白という行為によって、たとえそれが否定されるべきものであっても一瞬流れる共犯意識=共同性が免罪符になっていはしないかという疑問であろう。しかし、その点なら、すでに僕が書いたようにあの長広舌の「告白」に流れている自分勝手な言い分、自己中心的な考え方は我々の時代においては何一つ許されるものではない。ただの無駄話、聞くに堪えないおしゃべりに過ぎない。実は僕はあの場面を見ながらオウム真理教の連中、麻原の言い分を思い出していた。「ポア」と似たようなことをいっている。酔っ払いとはいえ、よくこんな話をまともに聞いているなあと思っていた。そして、結局聴衆は「あれは狂っている」といって許してしまったのだ。僕にはキリスト教における制度としての「告白」がどんなものか理解が及ばないが、そのような歪んだ「共同性」を生むものなら内野先生のいっていることは正しいのであろう。
彼はそれ以上にこの戯曲には「ホモソーシャル」と言う共同性が典型的に現れているという。この聞きなれない言葉の意味は、同性愛嫌悪(ホモフォビア)と女性嫌悪(ミソジニー)を基本的特徴とする男性同士の強い連帯関係なのだそうだ。家父長制はこれが根拠になっているという。最後の場面の絶望的「共同性」は、「『女性嫌悪』を媒介にして始めて成り立つのである。」とまでいっている。そこまでは気がつかなかったが、しかし、それがユージン・オニールの心のありよう、一種の傾向、性癖だったとしても、この戯曲が『傑作』かどうかにはあまり関係のないところである。『女性嫌悪』を批判しても何事も起きないだろう。
一つだけ言えることは、米国の道徳的規範を形成しているピューリタン的倫理が、よきにつけ悪しきにつけこの国の根元を縛りつけていることが、ヒッキーの告白を通して見えてくるということである。アーサー・ミラー、テネシー・ウイリアムズ、フォークナー、フィッツジェラルド、ヘミングウエイ・・・彼らは皆その目に見えないが明らかに存在する巨大な壁と戦った戦士だといえる。中でもユージン・オニールは満身創痍になりながら戦い続けた希有な存在として文学史に残る資格は十分あるといってよい。問題はこの芝居がどうかである。
世間に悪態をついて、絶望の中を生きる男たちの物語は他にないわけではない。希望があるかないかはどうでもいい。肝心なのは面白いか、面白くないか、である。
そして内野先生が書いているように「・・・ではいったい、2007年の現在、この戯曲にどのような上演が可能なのだろうか?」が栗山民也に問われていたのだ。
題名: |
氷屋来たる |
観劇日: |
Day07/6/22 |
劇場: |
新国立劇場 |
主催: |
新国立劇場 |
期間: |
2007年6月18日〜7月8日 |
作: |
ユージン・オニール |
翻訳: | 沼澤洽治 |
演出: |
栗山民也 |
美術: |
島 次郎 |
照明: |
勝柴次朗 |
衣装: |
前田文子 |
音楽・音響: |
上田好生 |
出演者: |
市村正親 岡本健一 中嶋しゅう たかお鷹 花王おさむ 大鷹明良 宮島 健 武岡淳一 小田 豊 久保酎吉 二瓶鮫一 明星真由美 野々村のん 岡 寛恵 伊藤 総 粟野史浩 木場勝己 |