題名: |
「言葉」 |
観劇日: |
02/10/18 |
劇場: |
俳優座劇場 |
主催: |
シアター21制作委員会 |
期間: |
2002年10月18日〜27日 |
作: |
山崎正和 |
演出: |
鵜山仁 |
美術: |
堀尾幸男 |
照明: |
勝柴次朗 |
衣装: |
前田文子 |
音楽・音響: |
斉藤美佐男 |
出演者: |
田中実 石田佳祐 早坂直家 中嶋しゅう 高橋礼恵 程島鎮麿 内田稔 |
「言葉」アイヒマン逮捕劇というだけで、スリリングなスパイものが成立すると思われるが、これは逮捕後、イスラエルへの合法的な移送のために、モサドが本人の同意を取り付ける説得過程を描いたものだ。
その「言葉」を引きだそうとする工作員と恋人の関係がサブストーリーになっていてこちらは恋人が男に愛の証である「言葉」を求めるという対称的な構造になっている。 これは、「言葉」というテーマを浮き彫りにするのと、男臭い諜報劇に花を添えるという点で、さすがにうまい構成だと思う。ただし、ピーター(田中実)とギラ〈高橋礼恵〉のサブストーリーのプロットは、二人の愛情を巡る緊張関係が、「アイヒマンの説得と送還」という主ストーリーにうまく投影されたかといえば必ずしも成功していない。二つの時空を往来するピーター(田中実)がそれを演じ分けられないという表現技術上の問題が決定的に大きい。
それについて演出〈鵜山仁〉に責任をおわせるのは酷だが、一方のギラの場合は、人物造形を平板にしてしまった。高橋の終始変わらぬ硬い表情と明るいメークアップ、一途に攻め立てるせりふまわしなど、演出上一貫しているといえるが、反面、彼女の人生がどんなものか一向に見えないので、切実さが伝わらない。後で他の男と結婚して幸せだなどという手紙をよこす程度の女にしか見えない〈60年代を生きる女にしては古風に過ぎる〉のは困りものだ。このプロットが全体から浮いた印象を与えるとすれば、なぜこの女は執拗に愛の証としての「言葉」を求めるのか?また、なぜ男はその求めを満たすことができないのか?というふたつの問いに、すっきりと納得のいく応えを表現しきれていないからである。
そのことよりも、気になったのは、アイヒマン(中山仁)がどの時点で翻意したか?という問題である。ピーターとの言葉による攻防戦の進行があまり「論理的」に見えなかったために、アイヒマンがアルゼンチンを出ることに同意した瞬間〈善への希求といっているもの〉を見逃してしまったほどだ。これは明らかに戯曲の欠陥ではない。 アイヒマンは、逮捕から監禁、尋問を通じてもっとも激しく心境を変化させるいわば芝居のダイナミズムを作りだす役割だと思っているが、中山には狂言回しにふさわしい悪と善の間を行き来するような、もっと起伏のある表現がほしかった。一貫して小市民を演じた中山アイヒマンに、僕は賛成できない。
早坂直家のメイアーは力演が少し浮いてしまった。石田佳祐のウジは持ち味を出して上出来、中嶋しゅうもクールな諜報員アハロンの性格をくっきりと見せてくれた。内田稔〈ダヴィッド〉、程島鎮麿〈ダニー〉は適役を得たと言えるが、欲を言えばもう少し積極的に他とからんでも良かったかと思う。
このように、それぞれの役柄が一定程度の完成度を見せているのだが、初演の初日に見たせいか、全体のアンサンブルはいまひとつよくなかった。堀尾幸男の装置が、アイヒマンの監禁場所について、やや持て余し気味で、それも原因の一つだったかもしれない。なにしろベッドの出し入れでは、あまりに便宜的で、僕は感心しない。
それにしても、エピローグで、ピーターが新しい任務を与えられるのをみて、「ああ、この人は一貫してモサドの一員=スパイだったのだ!」と気づく始末で、なんとも主役の影が薄い芝居だった。田中実には、あの、せっかくの容姿なのだから、もっと考えて的確に表現する技術を磨いて欲しい。
ところで、善への希求ということであるが、この芝居でそれをいうのは、安易ではないかと考えている。(作者は必ずしも、それをいっていない。) 僕が中学生だったと思うが、新聞で見たアイヒマンは、防弾ガラスに囲まれた被告席に立っていた。額のはげ上がった気弱そうな顔に、黒縁の眼鏡をかけ、痩せて長身の小官吏という風采で、これが何十万人も殺した極悪人には見えなかった。誰もが、おそらく世界中がその姿にいらだった。極く平凡な中年男だったことで、誰でもアイヒマンになりうることを示したからだ。 良識は、我々に等しく備わっていると信じたいが、現実を生きている僕たちには到底容認できない。とはいえ、アイヒマンは「仕事として、命令にしたがって、大量殺人を行った」ことを非人間的な行為として反省し悔い改めるという意味で、ほんとうに善に目覚めたのかもしれない。それならば、めでたし、めでたしである。
しかし、僕はその説を疑っている。 ではなぜ、アイヒマンはイスラエル送還に同意したのであろうか? それは自分の行った行為が、法に触れるということを認めざるを得なかったからだと僕は考える。
法は「言葉」によってのみ成り立っている。言葉は善も悪も判断しない。ブエノスアイレス市民としての権利を主張しても、それを越えた法によって自分は有罪なのかもしれないと思ったのではないだろうか。アイヒマンに、言葉によって裁かれるならば、致し方ないと思う瞬間があった。善というあいまいでロマンティックなものではなく、言葉という文明の勝利、と僕は考えているが、どうだろう。