題名: 組曲虐殺
観劇日: 2010/07/07
劇場: 天王洲銀河劇場(劇場中継録画)
主催: ホリプロ、こまつ座
期間: 2009年10月3日〜10月25日
作: 井上ひさし
演出: 栗山民也
美術: 伊藤雅子
照明: 服部基
衣装: 前田宣子
音楽・音響: 山本浩一
音楽・演奏: 小曽根真
出演者: 井上芳雄、石原さとみ、高畑淳子、山崎一、神野三鈴、山本龍二


「組曲虐殺」

このところ劇場に足を運んでいない。この劇は、いつだったかNHKで放送されたものを録画しておいたので、暇を見つけて最近見たものだ。
例によって、コーラスというか唄というかつまり音楽によってつなぎ合わせていく評伝劇で、井上ひさしの常套手法だが、中でも構成上最も近いのは「太鼓たたいて笛ふいて」(林芙美子の評伝劇=2002年7月初演)かもしれない。あのときは、何でいまさら林芙美子か?と思ったが、この芝居の小林多喜二はそれなりの説得力があった。
確かこの直前に、自動車会社やシャープ、キャノンなどの電機メーカーにおける非正規社員の大量馘首があって多くの若者が働く場所を失って路頭に迷うという状況があった。その中で突然、文庫本「蟹工船」が売れ始めて、あれよあれよという間に嘘か誠か四百万部もでてしまったというので、あの小説は後半になるとほとんどアジ演説に近いからこのままいったら、若者が棍棒でも持って街頭に現れて一暴れするのではないかと密かに期待したものだった。
もちろん、街頭では何事も起きず、正月を越せない失業者のために政治家がいい顔を見せようと奔走して何とか寝る場所を確保するという騒ぎがあったくらいのものだった。一昔前には考えられない光景だった。とはいえ、歴史の中に埋もれていた小林多喜二がここへきてにわかに話題になったということを考えれば、誠に時宜を得た評伝劇というべきであろう。
多喜二の半生は必ずしもよく知られていないし、書いたものも労働運動や党活動に直接的に関係していて、どことなく陰惨なイメージがつきまとう。それもそのはず、小林多喜二が北海道拓殖銀行を諭旨免職されたあと、特高に付け狙われて東京や大阪を逃げ回り、その間にも投獄されて、まともな形で生活したことなどほとんどない、挙げ句の果てにはあっさり拷問死してしまうという話なのだからどう転んでも明るくなるはずもない。
ところが、井上ひさしの手に掛かると明るくて話し好きという多喜二の陽性の性格と、思いついたものをたたきつけるようにして書かれた文体を肯定的にとらえ、思想と言うよりは目の前で起きている理不尽や不平等という現実に対する怒りに殉じた純粋な魂として描かれ,結局それは多喜二への鎮魂歌になっていると同時に一つのユニークな多喜二論として成立している。井上ひさしの音楽評伝劇としても、対象の一側面を照らし出して批評を試みた「太鼓たたいて笛ふいて」の完成度を凌駕していると言っても過言ではない。

最初のコーラスからして内容は、秋田の片田舎から小樽で成功した叔父を頼って一家で身を寄せるものの,幼くしてこき使われるという話である。この父親の長兄に当たる叔父は小樽一番のパン屋として、当時は珍しかったトラックを使って小売店にパンを配達するという才覚の持ち主で(劇中にそうある)、成功の陰には身内も労働力とみなすある意味では酷薄な一面もあったのだろう。
小林三つ星堂パン店の代用パン(甘く煮付けた赤豆をぱらぱら散らしたコッペパン)は安いけれども何故か売れ残る。貧乏人にも買えるはずなのに何故なんだ。叔父に学資を出して貰って小樽商業に通っている多喜二少年( 井上芳雄 )は、誰かが貧乏人からカネをくすねているからだと気がつく。小林三つ星堂パン店は、こうして「汗と涙で、お味をつけて、ホンモノの作家を焼き上げる」ことになったのだとプロローグは歌いあげる。

昭和五年(1930年)五月下旬、大阪の島之内警察署の取調室で、古橋鉄雄特高刑事(山本龍二)と山本正特高刑事(山崎一)が一人の男を調べている。雑誌「戦旗」が主催した演説会でとらえた弁士が作家の小林多喜二だとにらんで、地下組織すなわち日本共産党にカンパしたこと、その相手の名前を自白させようとしている。 小林多喜二の作品は主に「戦旗」に掲載されていた。
ここで、古橋刑事の口から、多喜二の経歴が簡単に説明される。
秋田で食い詰めていた弟一家を呼び寄せて面倒を見た叔父のことは美談に仕立て上げられている。小学校の六年間は無欠席で、しかもずば抜けて成績が良かった。おじさんはそこを見込んで、小樽商業に入れ、さらにその上の小樽高等商業(現在の小樽商科大学)で学ぶ学資を出してやった。
「戦旗」は発売と同時に発禁になるという危険な雑誌だが、どうも秘密販売員がいるらしく二万部の余は売れていると思われている。多喜二の三歳上の姉チマは、小樽の小さな銀行の銀行員と結婚して佐藤姓になっているが、これが雑誌を持って回っているのではないかと小樽署がにらんでいると特高刑事は説明する。ここで多喜二らしき若い男は、「姉はそんなことまでしてくれているのか」と感動した様子。
さて、小樽高商をでて、北海道拓殖銀行小樽支店に就職してまもなく、市内の小料理屋で酌婦として働いていた五つ年下の田口瀧子を見初め、その借金五百円を叔父に払ってもらって身請けし、自宅に住まわせた。
そこまで聞くと、思わず若い男は「それは違う」と叫んでしまい、しまったという顔をする。「自分の給料と同僚に借りて作った金で、決して叔父に借りたのではない」といって自分がその小林多喜二だと白状するのである。
警察では美談にされているらしいが、叔父は本物の吝嗇家で、自分は幼い頃からこづき回され、いいように使われてきた。父親も能がないと思われて、つらい仕打ちを受けてきた。原稿用紙に向かうとその光景がスクリーンと化した紙の上に浮かんでくる。叔父は評判通りの男ではないと多喜二は強調する。
身の上話につられて、古橋刑事もまた二十六年前の光景が浮かんでくるという。日露戦役の戦死者の中に、東京谷中の若い大工がいた。あとに残されたのは、病弱な妻と五歳の男の子だ。彼女は大阪で大工の棟梁をしている実の兄を頼ることにした。無類の酒好きだった兄は、まもなく、酔いを残した足を滑らせて屋根から落ちた。兄をおうように彼女もはかなくなったが、男の子には、母親の最後の言葉が忘れられない。これからは一人で大変だけど、でも、酒だけはおよしよ。・・・いまでも酒は苦手だよ。
すると、山本刑事も「玄関口」がスクリーンに浮かんでくるという。
七年前の震災で神田猿楽町にあった自分の家も焼けてしまった。ちょうど中学の時で山岳部の合宿で蔵王に行っていたから助かった。野宿しながら大阪の遠縁を頼ってようやくたどり着いて玄関先に立つと、とんだ厄介者がやってきたといわんばかりの目がいくつもにらんでいて、たじろいでしまったというのである。
どうしてそのような普通の人々の普通の暮らしを書かないのか、小樽で細々とパンを商う母親の髪にも白いものが混じってきたというのに、と問われると、多喜二はわたしはこう書いたに過ぎないと抗弁する。
「いままでのどの戦争も、本当は皆、一握りの大金持ちの指図で、動機だけはいろいろにこじつけて、起こされたものなんだよ」
すると、だまれ黙れの大声。かまわず「そうしてこの大金持ちのご用を承っているのが、銀行と官庁と大会社で、これを守るために天皇の、陸軍と警察がいる」伏せ字でしゃべれ!と刑事は怒鳴るが、やがてこれは「伏せ字ソング」というコーラスに変わっていく。例によって、このかわり目の絶妙のタイミングは栗山民也ならではの演出である。「だれだ。パンを盗むのは。そう書くだけで××・・・」しかし、ロープが床を打つ音が不気味に響いて、拷問を暗示する。
この大阪での逮捕はひどい暴力を受けたが嫌疑不十分となって釈放され、多喜二は傷ついて東京へ帰ってきた。
それから一ヶ月後、杉並成宗にある作家仲間の立野信之の借家に伊藤ふじ子(神野三鈴)が一人留守を守っているところへ二人の女が訪ねてくる。多喜二の姉の佐藤チマ(高畑淳子)と田口瀧子(石原さとみ)であった。
伊藤フジ子は、立野信之の劇団にいた女優で、プロレタリア演劇同盟の活動家であり、多喜二の姉チマのことは初期の作品「姉との記憶」に登場するので周知であった。また、田口瀧子のことも酌婦の身から多喜二が救って一緒に住んでいたことを知っていた。瀧子は、家出を繰り返していたが、いまは東京で働きながら美容学校でパーマの勉強をしている。チマは瀧子と多喜二との仲が許嫁とも妹ともなんともいえない関係にあることを心配しているが、姉としては瀧子を身内と思っている。
瀧子にしてみれば、多喜二が自分に指一本触れないことを歯がゆく思い、そのたびに家出をしたというが、伊藤ふじ子の存在を知って、心中穏やかではない。それにたいしてふじ子は、革命家はあえて親しいものをつくらないという原則に従って、多喜二が瀧子を守ろうとしているのだと説得する。
ふじ子自身は、山梨から絵の勉強をしようと東京に出てきて、アルバイトに劇団の背景幕などを描いていたところ、ある日作家の立野信之に女優が足りないから君にお願いしたいといわれて、その後は女優になってしまった。けれども、警視庁から台詞禁止を食らうような劇ばかりだったので劇団はつぶれてしまい、いまでは派遣会社の指図に従っていろいろなしごとをしているとこれまでのいきさつを語る。
外を見ると月が低いところに昇ってきた。それを見た瀧子が「豊多摩の低い月」を歌い出す。「にんげんのいとなみを、見ているの、見ていないの、ぼんやりとあらわれた、豊多摩の低い月」幸せだった頃の光景をぼんやりと薄明かりの中に照らし出す月。一体どんな未来が待っているというの?不安な心が背景にある。というのも、豊多摩の月とはこのあと多喜二が未決囚として収監される監獄だからである。
三人が歌っている間に二人の男の影が忍び寄る。
大阪の島之内警察署の古橋鉄雄特高刑事(山本龍二)と山本正特高刑事(山崎一)の二人が大阪での実績を買われて東京警視庁に引き抜かれてきたというのである。この二人が家の中をかぎ回っているうちに食パンの固まりの中からレポの紙切れを見つけ出す。立野から多喜二への連絡で、新しいアジトを探しているが、今度は中村屋のジャムパンで連絡するというものであった。逮捕を暗示する話である。
二人の訪問は取りあえず挨拶というものだったが、もうひとつ奇妙な依頼を携えていた。月刊警察之友は、発行部数十万部を誇る全国警察官の家庭における愛読誌だが、内容は実につまらない訓辞や挨拶ばかりで、便所の落とし紙としては重宝しているが、まともに読んでいる者などいない、税金の無駄遣い以外の何ものでもないというしろものである。なんだかいまもありそうな話である。そこで、「戦旗」で活躍する小林多喜二先生に小説、それも格別の捕物帖など娯楽作品を寄稿いただき十万読者を楽しませて欲しい、ついては原稿料も一枚五円の一回五十枚都合二百五十円という破格の申し出であった。警視庁は、多喜二を転向させようとしている。
それから半年、多喜二は豊多摩刑務所の独房にいた。「独房からのラブソング」は、虐げられたものたちのために何かをしなければと焦る多喜二の心情を歌ったものである。「しかし、片方だけの・・・ではなにもできない」ととらわれの身であることをなげいて鉄格子の向こうから手をさしのべる。
七ヶ月後の昭和六年(1931年)夏、多喜二はすでに豊多摩刑務所をでて、杉並馬橋の借家住まいである。そこには何故か警視庁の山本刑事がいる。警視庁管内を百メートル四方の碁盤の目にして一万個のマス目をつくり、その一区画に一人警視庁の刑事を住まわせて、赤の監視をしているのだという。山本、古橋の両刑事は願い出て多喜二の動向を見張っているのだ。
ところが、多喜二は、都新聞に「新女性気質」などというどっちつかずの連載を始めるなど、目立った動きをしないので、両刑事とも手持ちぶさたである。そこヘ久しぶりにチマがやってきて、近く多喜二の母親が上京してこの家へ同居することになるらしいことを告げる。そのうちに、阿佐ヶ谷駅でばったり会ったという瀧子とふじ子があらわれ、台所はにわかに賑やかになる。
そうした中、届いた郵便物の中に、ファンと称する何ものかが目を通してくれといって原稿の束を送ってきたものがある。実は、山本刑事が書いたもので、事業がわかった一同が蝦蟇口からいくらかカンパしようと申し出る一幕がある。
「銅貨も硬貨も休んでお行き、どうか一日泊まってお行き・・・蝦蟇口は、ただの通り道、悲しみばかりが居残っている。」と歌う「蝦蟇口ソング」は庶民の悲哀を歌ったもの。
昭和七年(1932年)五月、古橋、山本の両刑事は小林多喜二の担当を外されている。多喜二は、正式に日本共産党の党員になり、地下活動に入ってしまって報奨金も復活した。多喜二を専門に狙う特高新撰組なるものが結成されたらしい。また、麻布連隊の右翼将校団、そして東京憲兵隊麹町分隊、この二つが多喜二をやっちまえと言って動き出したという噂である。東京憲兵隊麹町分隊は、大正十二年の関東大震災のあと大杉栄、伊藤野枝を惨殺した甘粕大尉がいた組織である。当時は麻布連隊も関与したという情報が飛び交ったが真相は不明。軍もまた左翼運動を憎んでいた。(大杉、伊藤を拷問の上殺したとなっているが、約一ヶ月後に出てきた死体の所見は扼殺であった。しかし、真相は軍法会議の霧の向こうにかすんでしまっている。)担当を外れた両刑事とも、特高の本能にかられて、やはり多喜二を追いかけている。二人の歌う「パブロフの犬」が追い詰めるものの高揚感と追われるものの焦燥感をいっそうかき立てる。
そうした中、昭和七年の九月、多喜二とふじ子が数日だけ潜んでいた「麻布アパート」の一室に、ふじ子がチマと瀧子をともなって戻ってくる。瀧子は、一つの寝台に少なからずショックを受ける。多喜二とふじ子はそういう関係だったのだ。カンパをおいてすぐに帰ろうとするが、 チマはその地下活動の見込みのなさを嘆いて,それには反対だと意見する。多喜二たちは当局のスパイによって活動資金の入る道を断ち切られて困窮していた。
姉に対して多喜二は、五反田駅近くの電線会社の例を引いて、大企業と政府が結託して労働者を弾圧すると同時に国のカネをかすめ取っている実体を説明する。
この会社は昨年防毒面の注文を受けたが、これには莫大な政府補助金がついていた。その半分は、計画を立てた軍の幹部の懐や、口利きをした政治家の銀行口座に入った。会社はこれをうんと安い賃金で臨時雇いの工員をこき使ってつくらせた。ところが満州事変でこれを使おうと思ったら、国際法で毒ガスは使用禁止になっていた。そんなことは軍も官僚も政治家も誰も知らなかった。いま、会社は雇った工員の首切りで、大いにもめているというのだ。(「党生活者」の中に登場する「倉田工業」のことだが、実際には藤倉工業=現在の株式会社フジクラである。)
多喜二は、ガリ版に刻んだ文字を読む。
「政治家の見通しはいつも杜撰である。軍幹部は威張っている割にはいつも勉強不足である。資本家はいつも銀行口座の残高しか考えていない。補助金はたいていいい加減である。そして、こういった欲の皮を突っ張らせた連中をいつもお守りしているのが、官僚という名の高級役人であり、警察という名の番犬である。」
これを聞いたチマと瀧子は拍手、彼らの活動に納得がいったようである。しかし、瀧子にとっては多喜二とふじ子が一緒にいることがどうにもがまんだならない。チマは、おまえには一家七人がついている、一緒に地下に潜るわけにはいかないではないか。ふじ子も、瀧子さんは多喜二がさんが最初に好きになったひと、いまでも思っている大事な人です。このような状況ではわたしのようなものがそばにいてあげる方がいいのです。と、瀧子の立場を認めるのである。
二人は多喜二をふじ子に託して帰っていく。ふじ子も麻布十番まで送りにでたあと、多喜二は「・・・あとに続くものを信じて走れ」と歌って自分を励ます。
ふじ子が帰ってくると同時に古橋、山本両刑事が部屋に飛び込んでくる。すんでの所で、二人はトランク二つ抱えて部屋から逃れることができた。
それから二ヶ月後の昭和七年十一月、ふじ子と瀧子は、麻布十番の果物屋の二階にあるフルーツパーラーで働いている。そこへ、盲人に変装したチマがあらわれる。多喜二とここで落ち合う予定だ。そこへ、やはり変装した古橋、山本両刑事が登場、彼らを見張っている。やがてチャップリンの扮装であらわれた多喜二。チマは多喜二が子供の頃チャップリンのまねがうまかったことを思い出していた。多喜二はチマに原稿とノートを包んだ風呂敷包みを渡して江口渙に渡すように頼む。
チマは、相変わらず地下活動を心配して、大森の銀行にアカが押し入って強盗を働いたことを問いただすと、警察のスパイが引き起こした事件だから何も心配はないと多喜二。チマのカンパで、多喜二が階下の果物屋にミカンを買いに行っている間に、山本刑事が、チマに見つかってしまう。思わず旧知の間柄に取り込まれて話しているところへ古橋刑事が現れ、階下で電話を借りて麻布署に連絡しろと命令。ところがまもなく帰ってくると、電話は使用中で連絡が取れずという報告。それどころではないという面持ちで、山本刑事は「今度多喜二先生にあったら、自分の書いた小説を是非添削して貰おうと思っていた。いい機会だからお願いしたい。」というのである。
古橋刑事は、それなら俺が連絡を、と階下に降りようとすると、ふじ子がピストルをとりだしてそれを制止する。人の命を大事にしない思想は価値がないとふじ子を止める多喜二。空気が張り詰める中思わずふじ子が引き金を引くとポンという音とともに、筒先から花束が飛び出した。がっくりと、両刑事。そうなるともう逮捕も何もなくなって山本刑事の原稿に目を通すことに。
「世の中にものを書く人はたくさんいるが、たいていは手の先か身体のどこか一部分で書いている。身体だけはちゃんと大事にしまっておいて、頭だけちょっと突っ込んで書く。それではいけない。体全体でぶつかっていかなきゃねえ。」そうすると、胸のあたりにある映写機がカタカタと動き出して、その人にとってかけがえのない光景を原稿用紙に書き付けていく、そんな風にしか自分には書けないと多喜二はいう。
一同はそれぞれのかけがえのない光景を思い浮かべ、それなら理解し合えるのではないかという暖かな気持ちになる。そこへ多喜二の唄「胸の映写機」が「・・・僕の命がある限りカタカタ回る 胸の映写機」と重なり、一同が「カタカタまわる 胸の映写機 ひとの景色を 写し出す たとえばーー 一杯機嫌の さくらのはるを パラソルゆれる 海辺のなつを 黄金の波の 稲田のあきを 布団も凍る 吹雪のふゆを ひとにいのちがあるかぎり カタカタまわる 胸の映写機 カタカタカタ  カタカタカタ カタカタカタ/」と歌ったところで、すべてが断ち切られるピアノの音。

エピローグでは、チマが母親を小樽に連れて帰ろうとしている。上野へ送ろうという瀧子の口から、多喜二が捕まる一ヶ月前、ふじ子が拷問されて足を折り、いまは山梨のうちで養生しているが、痛んだ足は元には戻らないそうだと告げられる。
物陰から、山本刑事が現れる。いまは格下げになって、四谷交番に勤務する巡査である。多喜二逮捕の状況を報告するのが自分の義務だと考え、この日を待っていたという。
それによると、昭和八年(1933年)2月20日昼過ぎ、若きプロレタリア詩人今村恒夫が同志三船留吉を多喜二に紹介しようとして赤坂見附で待ち合わせていた。ところが三船とは特高が組織に潜り込ませていたスパイで、当日はあたり一帯が張り込みの刑事で一杯だった。それを察知した今村と多喜二は逃げた。しかし、午後三時過ぎ、溜池福吉町あたりでとうとう見つかって二人とも築地署に送られた。
警視庁新撰組は、小林多喜二は国賊、殺してもかまわぬと考えていたようだ。拷問の末、たった四時間後に被疑者は死んでいた。これでは殺すために逮捕に及んだものといっていい。わずか二十九歳四ヶ月の生涯であった。
古橋刑事があらわれ、山本を捜しているという。山本巡査が巡査の組合を作るのだといってビラをまいているのを止めようとしていた。古橋が山本の後を追って暗闇に消えていく。
やがてその闇の中から六人のコーラスによる「胸の映写機」の第三番が聞こえてくる。
「カタカタまわる 胸の映写機 かれのすがたを 写し出す たとえば 本を読み読み 歩くすがたを 人さし指の 固いペンダコを 駆け去るかれの うしろすがたを とむらうひとの 涙のつぶを 本棚にかれが いるかぎり カタカタまわる 胸の映写機 カタカタカタ  カタカタカタ カタカタカタ・・・」

感受性が人一倍強かった少年時代、貧しい少女を見初めて救いの手をさしのべる優しさ、虐げられる人々への同情、横暴な権力に対する怒り、司馬遼太郎風にいえば、いかにも感情の量が多そうだった短い人生を この劇で多喜二自身によるチャップリンの後ろ姿が遠ざかっていく映像でまとめてみせたのは秀逸だった。カタカタまわる胸の映写機のまぶしい光の中をおどけた姿で多喜二が遠ざかっていく。
井上ひさしが造形した平成の時代の新しい小林多喜二像である。

こまつ座がメジャーなプロダクションと組んだのはこれがはじめてではない。観客の動員力が格段に違うのと収益力が魅力だったのだろう。今度のキャスティングは、こまつ座常連の神野三鈴、山本龍二はいうまでもないが、井上芳雄、石原さとみ,高畑淳子、山崎一ともそれぞれ適役だったことで興行中心という感じがしなかったのは幸いだった。むろん栗山民也の演出によるところが最も大きい。音楽を担当した小曽根真もはじめてのことだったようだが、うまくはまっていた。神野三鈴と実際の夫婦であることも、一つの話題づくりだったかもしれない。ホリプロのマーケーティングのしたたかさを思わせる。(一部にチケットが高いという意見もあったようだが)相変わらず本は遅かったようだが、この芝居は各役柄の絡み合いというよりは情感に訴えるところが多く、その分アンサンブルが崩れるということはなかった。達者な役者の中でも、石原さとみがけなげにがんばっているところが印象的だった。

それにしても、この劇でもしばしば呼びかけられたのであったが、小樽高商をでて北海道拓殖銀行に職を得たエリート銀行員にもかかわらず、何故ふつうの生活に戻らなかったのか。山本刑事は、文学上の隠れファンとして捕物帖でも書いて平穏に生きて欲しいと願っていた。それは井上ひさしのひそかな願いでもあったかもしれない。一方で、三歳年上の姉チマと内縁の瀧子は多喜二の活動に同調しカンパまでして常に支えている。多喜二の運動の正しさを作家も認めていたということである。

あらためて考えてみれば、多喜二が小説を書くきっかけになったのは、小樽商業から高等商業にいたる少年時代に、文芸誌の編集に関わったり、創作活動を始めたことにある。志賀直哉に傾倒して,しばしば作品の掲載誌を送って講評を頼んでいた。 志賀直哉らが行っていた自然主義文学を標榜していたつもりと思われる。詳細はわからないが、この当時の作品にはかなり厳しい批評がかえってきたらしい。小樽高商では赴任したばかりの歌人でもあり教師である大熊信行と教室でよく話し込んでいたことを目撃したと一年後輩の伊藤整(翻訳したD・H・ロレンスの「チャタレー夫人の恋人」が、猥褻とされ長く裁判が続いたことでよく知られている)が証言している。自身の家の困窮した状態や、折からの不況で、労働者や農民の窮迫した生活を見るにつけ、社会思想にも目覚めていったものと思われる。
しかし、実際に政治的な運動に参加したのは昭和三年(1928年)多喜二、二十五歳の時である。この年の第一回普通選挙に北海道一区から立候補した山本懸藏の応援に参加して羊蹄山の麓の村で応援演説を行ったのが、いわば世に出た最初の出来事である。この年の三月に起きた左翼の一斉検挙(全国で約千六百人が対象)を題材に書いた小説「一九二八年三月十五日」を雑誌「戦旗」に発表、これが実質的には多喜二のデビュー作となった。
これには、検挙のあとの取調の様子が生々しく描かれており(伏せ字だらけだが、ひどい拷問が繰り返されたことは明らかにわかる)、このような形で公表されたことが特別高等警察の憤激を買ったといわれている。
翌、昭和四年には、やはり「戦旗」に「蟹工船」を発表、早速「新築地劇団」が舞台化して多喜二は一躍プロレタリア文学の若き旗手として世に躍り出る。続いて「中央公論」に発表した「不在地主」は、勤務先である北海道拓殖銀行を実名で批難したこともあって、銀行を諭旨免職されることになる。
その翌年、昭和五年の春には東京へ転居し、日本プロレタリア作家同盟の書記長に就任している。
この劇は、上京して作家同盟の仕事をし始めた頃から始まっているが、山本刑事の尊敬ぶりから見るとデビュー二年目にしてすでに大家先生の趣であった。大阪から帰ってすぐに逮捕起訴され、昭和六年一月仮釈放されるまで豊多摩刑務所に入れられていたことは劇に描かれている。それからまもなくできたばかりの日本共産党に参加し,特高に付け狙われることになる。昭和七年春の左翼取り締まり強化を機に地下活動に入ったことは、劇中の麻布十番のフルーツパーラーの場にあるとおりである。このときの五反田の電線会社の争議は、八月に発表した「党生活者」の中に登場するエピソードで、結局これが多喜二の最後の作品となった。
こうして見ると、多喜二には我が国ではじめて「普通選挙」が行われるという年に、満を持して立ち上がったという観がある。そこからわずか五年の間にプロレタリア文学に大きな足跡を残して彗星のように駆け抜けていった青春であった。
さりながら、今となっては二つのことをいっておかねばならない。
一つは、その文学のことである。
僕が「蟹工船」を読んだのは確か高校生の頃だった。プロレタリア文学と称するもので面白いものはないと知っていたが、この頃自然主義文学をというものを半ば義務的に読んでいて、「いつまで続く泥濘ぞ!」といった趣のあるフランス小説と延々つきあっていたあとでこれを読むと、あっけなく終わってしまって、あとには何にも残らなかったと記憶している。
だから、加藤弘一(文芸評論家)の次のような書評に出会ってもあまり文句を言う気にはならない。
「書評:小林多喜二 『蟹工船 一九二八・三・一五』 岩波文庫
『蟹工船』はカムチャッカ沖で操業する工場船の極悪な労働環境を描いた作品で、プロレタリア文学の代表作ということになっている。「作家事典」で小林多喜二をとりあげる必要から読んだが、あまりにもお粗末で唖然とした。擬音とドギツイ表現の多い文体は劇画的で、小林よしのりの誇張したタッチを思わせる。後半は階級闘争図式そのまま。小説というより粗筋であって、小説を読んだという気がしない。蟹工船という題材は面白いのだから、筆力のある作家が書いていれば『ジェルミナール』のような本格的長編小説になっていたかもしれない。
『1928・3・15』は小林の処女作である。治安維持法による1928年3月15日の一斉検挙を小樽にしぼって描いた作品で、主人公を設けない群衆劇的な書き方は『蟹工船』につながる。インテリ崩れからたたき上げの活動家、おっちょこちょいの跳ね上がりと、いろいろなタイプを登場させているが、類型的で素人の落書きである。プロレタリア文学は下手だとは聞いていたが、ここまでひどいとは思わなかった。いくら脳の腐った左翼でもこんなゴミを本気で持ちあげているのだろうか。特高警察に殺されていなかったなら、小林多喜二の名前が文学史に残ることはなかっただろう。」
「文学史に名前は残らなかったであろう」というのはあきらかに言い過ぎだが、批評は当たっている。今時のケータイ小説の方がよほど読ませるのかもしれないが、この当時のプロレタリア文学の水準とはこんなものである。読む価値もないと切り捨てる必要もなかろうと思うのは、素人に毛の生えたような作品でも数万部の余も読まれたのは時代のせいであり、我が国がそのような時代を歴史のうちに抱えていることを、虐殺の歴史とともに記憶しておくことは,まともな人間なら当然のことだと思うからである。
もう一つは、何故弾圧され、言論を封じられて手も足も出なくなると承知しながら、あれだけ権力を挑発し、伏せ字だろうが何だろうが書き続けてしまったのかという疑問である。
多喜二の葬儀にやってきたものは、一網打尽に検挙されてしまった。何という不用意であったことか。多喜二は、報奨金が掛かった日本共産党の地下活動家であった。それと親しいものに関心を寄せる権力の態度を甘く見たというしかない。一体に、この時期の左翼の理論家は直情径行型ばかりで、気がつくとそのほとんどが獄につながれ、言論活動そのものが根絶やしになってしまっている。それ自身は、ひとりひとりに獄中転向(非転向)という深刻な精神状態をもたらして、戦後も長く知識人の間で議論になった。
それに対して、全く違う角度から「それでは知識人として無責任ではなかったか?」という基本的な疑問が提示されるのは、戦後も 随分と後になった90年代にはいって、団塊世代の加藤典洋の登場まで待たねばならなかった。
「軍国主義下の日本。ほとんどすべてのメディア、圧倒的な数の民衆、国民が、対米英の総力戦を玉砕覚悟で支持した。こういう場合、批評・評論はどういう身の動きを示すのだろうか。
戦時下の抵抗、という言葉がある。
言論統制下に、勇気を持って言論でもって反論を唱えた、と言うような意味だ。
しかし、これは英雄的な行為ではあるだろうが、これだけをとるとあまり実際的には意味をなさない行為であることがわかる。一度そういう英雄的(?)なことを書いた人士は,速やかに逮捕、拘留(ときには惨殺)されてしまい、以後書き手としては現れなくなるからだ。抵抗の内実とは、戦争が始まる前であれば理由を挙げてその戦争の開戦に反対であることを言論人として述べることだろうし、戦争が始まった上は理由を挙げてその戦争に反対であることを述べ、その戦争を一刻も早く終えさせるべく、一般公衆ないし読者層に働きかけることだろう。しかしそれを、言論統制の規制に引っかからない形で持続的に行うのでなければあまり意味はないことになる。」(加藤典洋「僕が批評家になったわけ」岩波書店 2005年)
それに対して戦時下の抵抗という意味では、石橋湛山がいると加藤は言う。
当時東洋経済の主筆であった石橋湛山は、「一貫して自由主義者の立場から」一つ一つの時事問題に取り組んだ。「治安維持法」については、政府が一方的に国民を統制支配するのは「国家を危うくする」という理由で反対を唱えた。また、共産主義についても、それとしっかり議論をし、その善し悪しを吟味すべきであり、問答無用に取り締まるのは江戸末期の封建的政治に等しいと批判した。
軍も、警察も不快であったが、こうした冷静な議論をされると封殺する理由を失って、これを取り締まろうにもできなかった。加藤典洋は、このような戦時下の抵抗が存在したではないかというのである。
英雄的行為で惨殺されてしまった典型的な事例に小林多喜二を思い浮かべるのは自然である。まるで犬死にだったのではないかといわんばかりの言い方にあきれてしまうかもしれないが、いずれにしても(加藤弘一にしても加藤典洋にしても)いまとなって言えること、としかいいようがない。
あの当時の知識人の中には、明らかに自分たちは前衛であり、大衆の指導者であり歴史的必然を当然のものとして英雄的に振る舞うという傾向がなきにしもあらずであった。できたばかりの日本共産党にかなりの数のスパイが入り込み、いいように操られていたという事実は,いまとなってはある種の甘さがあったというよりほかない。
林達夫は、妹とその連れ合いが特高に追われていることを知っていたが、一切家に近づけようとしなかったし、これと関わろうとしなかった。妹には妹なりの考えに殉じるべきで、自分はそれに同調しないと決めていた。特高の陰を感じることはあったが、彼らが鵠沼を訪ねてきたことは一度もなかった。このことをあの辛辣ともいうべき追悼文「三木清の思い出」に書いて、当時左翼運動などと直接何の関わりもなかった三木が捕らえられたことを、知識人の甘さ,脆弱な思想として批判している。

小林多喜二は、英雄的に殺されたのか?多分にその気配はあるが、本人にその気はなかっただろう。しかし、虐殺の五年前に回り出した歯車は、その終焉に向かって止めようもなく回っていったのだ。
多喜二が生まれた、秋田の下川沿駅前に立派な銅像が建っている。秋田から北上する奥羽本線が東能代で方向を東に変えて米代川に沿って大館に向かう。その少し手前の小さな駅だ。一家は、多喜二が四歳の時に父親の兄を頼ってこの土地をあとにしている。四歳で小樽に渡ったとはいえ、一家の紐帯は秋田の下川沿の小さな村にあり、秋田県人気質は一家が話す言葉の中にそして多喜二のなかにも濃厚に残っている。
秋田は、戊辰戦争当時奥羽越列藩同盟にいったん加盟するとしながら、尊王論の平田篤胤の影響下にあった若い勢力が実権を掌握、支藩である横手城に待機していた仙台藩、南部藩の使者十人ばかりを斬殺して、東北のすべての藩を敵に回す。十和田あたりから侵攻した南部藩に責め立てられて、大館城が陥落、下川沿の村を通り越して二ツ井きみまち坂あたりまできたところで、薩長軍の新兵器に助けられて国境付近まで押し戻すことができた。
秋田モンロー主義とはこのことが遠因になっている。「尊王論の平田篤胤」つまり、よって立つところの思想が正しいと思えば、幾千万の敵を向かえても妥協を知らず戦い続ける。敵が去っても幸い国土は急峻な山岳によって囲まれている。三本の大河の河口はこめどころであり、木材や鉱物資源に事欠かない。独立自尊でやっていけるという意地のようなものが、他国を拒否し、他国に関わることもしないという理屈っぽく頑固な気風を生んだ。それが,誰が言い出したのか秋田モンロー主義である。
多喜二の文章には、いかにも正義感が強く怒りによってペン先がつんのめっているような感じがある。加藤弘一が言うようなまるで梗概かと思わせる文章は、技巧も何もない思いのたけをストレートにぶっつけただけのものである。小説好きの高校生が書いたと言っても、おかしくない。井上ひさしが、山本刑事にファンです、添削してくださいと言わしめたのはお愛嬌というものだ。
しかし、すでに歯車はまわっている。後戻りなどつゆほども浮かばない。自分は正しいことやっているという鬼のように燃えあがる志は、捕らえられて痛めつけられ、おそらく自分が殺されたことにも気がつかなかったほどであった。それが幸か不幸か秋田人気質というものである。

田口瀧子が、最近百才を超えてなくなったという記事がでた。多喜二が殺されたあと、縁あって結婚し子供もできた。澤地久枝が発見して、世に出そうとしたが、瀧子は自分のようなものがのこのこ出て行って、小林多喜二の名を汚してはならないと思うので,お会いするのはお断りするという反応であった。澤地は再三会見を要請したが、途中であきらめてしまった、ただし、文通は続いていたという。瀧子の態度も見上げたものである。

夭折したものの物語は、実際よりも大きく捉えられた業績と、かすかに生きていたらという期待で風船のようにふくらんでいる。多喜二には虐殺という陰惨なイメージの圧力が掛かってゆがんでいるが、この劇によって、そのゆがみがとれ、結局その生涯は少年のような明るさと純粋な魂に彩られていたのだということが明らかにされた。小林多喜二という生き方は、彼自身の青春そのものだったという理解によって僕らの心は多少とも軽くなった。井上ひさしの円熟が、これはそのような物語として語るべきだと自らを導いたのであろう。

劇評としてはそれで満足であるが、ここで少し困ったことがある。加藤典洋のいう「言論統制の規制に引っかからない形で持続的に行うのでなければあまり意味はない。」という言葉には十二分に賛同しながら、一つの心配事があるのだ。
それは僕自身が、下川沿から五十キロも離れていない海辺のまちで生まれていると言うことである。


 

 


新国立劇場

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