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題名: 教会の見える川辺で
観劇日: 2009年11月2日(月)
劇場: 下北沢シアター711
主催: 海市工房
期間: 2009年10月28日〜11月4日
作: しゅう史奈
演出: 小松幸作
美術: 吉野章弘
照明: 村上秀樹
衣装:
音楽・音響: 熊野大輔
出演者: 境ゆうこ 松岡洋子 ながえき三和
鶴岡悦子 通地優子 橋本拓也 鈴木達也
柳沢麻杜花 政修二郎 小松幸作
「教会の見える川辺で」
急逝した父親が残した小さなホテルを、二人の姉妹のうち妹の麻衣子( 境ゆうこ )が引き継いでいる。舞台はそのホテルのロビー。上手にソファと電話台、下手手前には狭いフロントがある。
三年ほど前の雨の日に、ふらりと現れた北村と名のる男(小松幸作)がそのまま居着いて雑用をこなしている。妹がこの男に惚れたのだ。他にアルバイトの子を傭って十分やっていける程度のホテルである。
近所のスーパーの息子(鈴木達也)が写真好きで、このホテルの日常を撮った作品を雑誌に投稿したところ入選して掲載された。それからホテルに無言電話がかかってくるようになる。
一方、姉、環(松岡洋子)の方は子供のいる男に嫁いで何年かになるが、その女の子がもう高校生だというのに若い男(橋本拓也)と浮気をしている。その相手というのが、妹の高校時代のあこがれの的だった。姉はそれを知っていて男を誘った節がある。
若い男は、水槽+熱帯魚のセールスが仕事で定期的に町にやって来る。ホテルを定宿にし、ついでにここを逢引の場所にしていた。
長逗留している客の若い女( 柳沢麻杜花)は、作曲家と称している。ただし、明らかに他人の曲を自分が作ったといってあっけらかんとしているところをみると少し精神を病んでいるのではないかと思える。両親と死別して祖母に育てられ、病気がちな少女時代をおくったなど不幸な生い立ちを語るのも作り話かも知れない。多少物語に酔っているところがみえる。
無言電話が来るようになって、まもなく見覚えのない若い男が様子を窺っているのが目撃される。
実は、この男は北村の元同僚で、町工場で働いていたときに金庫から有り金を奪って逃走した共犯であった。震災のどさくさでうまく逃げおうせたのだが、金を山分けしたあと二度と会わない約束だった。それが、雑誌に載ったホテルの写真に北村が写っているのを見て、金をせびりにやってきたのだ。
泥棒など出来そうに見えないきゃしゃな体つきの北村だが、小金を与えると二度と来るなとすごんで見せる。それから、謎だった彼の過去が次第に明らかになっていく。この男は愛人と心中事件を起こして相手を死なせている。
やはり雑誌に載った写真を見て、死んだ心中相手の妹がホテルに訪ねてきてそれがわかる。この妹の言うことには、始めから金を取るつもりで心中を偽装したのだという。他にも血なまぐさい事件を起こしているらしい。
すべてが麻衣子に知られてしまい、北村は精神的に追いつめられていく。
一方、長逗留の頭がややおかしい女の方の過去も明らかになる。ホストに入れあげ、そのホストが憎む社長を殺してしまったのだ。女の留守中に部屋を掃除していたら、引き出しの中から拳銃がでてくる。
おふくろが言ったという言葉、100万回生きた猫のように、「死んでも死んでもまた生き返るから、この世の一つ一つは大した事ない。」 ということを信じていたのか、結局、北村はこの拳銃を使って近所の川原で頭を打ち抜いて死んでしまう。
最後は、長逗留の狂った若い女が「欲望という名の電車」のブランチよろしく、車に乗せられ去っていく。残された麻衣子が「私、こうなることは分かっていたわ・・・」とチェーホフばり(「三人姉妹」のイリーナ)のせりふで幕が下りる。
なんともおどろおどろした話で、しゅう史奈の從來の作風とはかけ離れた印象の作品だった。
從來の作風というのは、同じ殺人事件を扱うにしても登場人物の内面を深くえぐりだし、その社会的背景についての緻密な分析があった。むしろ、社会的な問題意識が動因となって劇を進行させる傾向が強かった。そうしたものを扱う手つきの独特の「やはらかさ」が、しゅう史奈の個性であり魅力であった。
この作品は、北村という男の血塗られた過去があばかれる過程を描いたものである。事件そのものよりは、犯罪者が罪の意識にさいなまれて自らを裁き、自ら死を選ぶという物語になっている。それはそれだけで完結しているといっていいが、そのことに一体どれだけの意味があるのだろう。
ひょっとしたら、題名に「教会」とあるのは、北村の死に宗教的な何かを込めようとしたのかもしれない。 確かに内面の葛藤を描いてはいるが、 しかしそれにしても、自死という選択に到るまでの苦悩というにはあまりにも説得力がなかった。
その原因は、北村が何故に何度も犯罪を繰り返したのか動機がよく描かれていないからである。盗みや、心中未遂などに金がからんでいるところを見ると動機は金が欲しかったということだろうが、何故そんなに金に執着したのだろう。
また、転がり込んだホテルの雑用係として何事もなく三年も過ごしているのは妙なものである。零細企業の金庫破りという手口から見ても、適当な時期に金を盗んで消えてもよさそうな気もするのだ。様々な疑問が起こるのはやはり、北村の生い立ちや犯罪に走った動機がよく分からないところに起因している。
そもそも、発端からどうにも納得のいかない設定であった。
素人が応募する写真雑誌にホテルと北村の映像が掲載されたことによって、北村の過去を知っている者たちが現れる。このことがなければ、何事も起きなかった。
この設定は、推理小説の古典的な手法でさほどめずらしくない。水上勉の「飢餓海峡」は、新聞で古い知りあいの善行が写真入りで紹介されたのを偶然目にして訪ねていくという話であった。あの小説も設定にいくつか無理があると指摘されたものだが、とりあえず何百万部も発行されている新聞(しかも顔写真)のことだから、そういうことがあっても不思議ではない。
ところが、この劇では新聞ではなくて写真雑誌ということになっている。こんにち写真雑誌、それも素人の応募作品を載せる類いの雑誌がいくつあるか知らないが、発行部数はどう考えても合わせて数万部ぐらいのものだろう。全国にぱらぱらとまかれた数万部の写真マニアが手に取る雑誌の、ホテルを主題にした写真の中に写っている人物と格別の関係にあるものが、二人もそれを目にしたということである。こういう偶然が起きる確率の計算方法を誰かに教えてもらいたいものだ。
その前に、過去を隠して生きているどころか窃盗犯であり心中事件の片割れである北村は写真に敏感でなければならない。
先日、指名手配を二年半も逃れて捕まった男が、同僚との集合写真では巧みに陰に隠れて写っていた。
北村は、スーパーの息子がうろうろ写真を撮っていたことには気付いていたはずである。何故やすやすと写真に撮られるという馬鹿なことをしたのか?しかも、顔がかなりはっきり写っていなければ人物を同定することなど出来ないはずなのに、無防備にさらしてしまったのだ。説明が必要なところである。
心中事件にしても、相手が死んでしまった現場から金の入ったかばんを持っていなくなったことになっているが、日本の警察はこういうことを見逃す程ドジだとは知らなかった。窃盗事件も似たようなものだ。金を山分けして逃げたのだが、明らかに指名手配されているはずの事件である。
あとで、スーパーに来た車いすの老人が、飾ってあった入選作の写真を見つけて騒ぎだしたという挿話があったが、あれは金を盗まれた零細企業の経営者だというつもりなのだろう。しかし、これも確率を計算したくなる逸話である。
また、若い男と浮気をしている姉のエピソードが主筋とどう関係しているのかも判然としない。
女子高生の娘が継母の浮気現場のホテルに現れて、家に帰ってくれと無言で迫るところなど、崩壊しつつある家庭を何とか修復しようと願う子供のけなげさが、なんともあわれである。その前で、年下の男にしなだれかかり、甘えて見せる環の態度に凄涼たる家族関係が見えてくるのだ。
だがしかし、これにもまた何故という思いが残る。
環とその夫はどんないきさつで一緒になったか、必ずしもはっきりとは描かれていない。さらに、この夫との間にどんないさかいがあって、環が浮気をはじめたのかも判然としていないのである。そのために、①義理の娘との折り合いが悪い。②夫の仕事が忙しくて相手にされない。③夫に愛人がいる。④夫に性的な或は他の不満がある。などと原因をあれこれ想像しながら見るはめになった。
確かにこの家族の人間関係には胸が塞がれる思いがする。そのような感情に駆られたのは事実だが、冷静に考えるとこのエピソードを物語の中のどこに位置づけたらいいのかとまどうのである。
きわめつきは、長逗留の女が拳銃を持っていたことである。グランドホテル形式という劇作の方法があって、あれはいろいろな泊まり客が登場してそれぞれの人生を面白おかしく描くという趣向だが、中に拳銃を持っていてもおかしくない人物が交じっていることはあるだろう。
しかし、たった一人の若い女の泊まり客が拳銃を持っていたとするなら、どこでそれを手に入れたのか?何故、何のために持っているのか?説明が必要なところである。そもそも、この素性がはっきりしない女の存在も劇の主筋にどう関係しているのかあいまいである。うがった見方をすれば、最後に北村が拳銃自殺をするために便宜上登場させた人物だったということもできるのではないか。
そのようなご都合主義が随所に見られて、これまでの作品に比べるときわめて粗っぽい構成になっていると感じた次第である。
これについては「私・・・こうなることは分かっていたわ・・・・・・」と僕も言いたい。
実は、この劇団はYがひいきにしているところがあって昨年の「愛しい髪、やさしい右手」も見ている。作風が少し変わったと思ったのはこの作品からで、しゅう史奈には何か心境の変化があったのだろうと感じた。というのも最初にも書いたが、これまでは事件を描いてもその背景や社会的な問題に関心が向けられていたのに、「愛しい髪・・・」のテーマは「芸術家の才能」であった。ずいぶんな変わりようである。
自分には才能がないのではないか?という思いは芸術家に絶えずつきまとう不安である。また、他人の才能をうらやむ気持ちも芸術家を悩ませる心の葛藤である。
山崎正和にはそうしたテーマの戯曲がいくつかあるが、中でも「 芝居〜朱鷺雄の城 〜」は三島由紀夫への少し屈折したオマージュであった。しゅう史奈にもこうしたテーマを書きたくなる事情が生まれたのだろうと推測したのである。
このときパンフレットか何かに、テレビドラマの脚本を書いてオンエアされるというようなことが書いてあったので(いま確かめたらどこにもなかったので記憶違いかも知れない)なるほどそれかと思った。シナリオライターで食っていけるかどうかはともかく、名声は得られるだろう。それが持続できれば、小劇場で汲々としていることも無くなるはずだ。よかった、よかったとその時は思った。
「愛しい髪・・・」は、実話をもとにしたというだけあって、この芝居のようなご都合主義というのは見られなかった。
劇評を書こうと思って、ディテールを説明するのに少し自信がなかったので、上演台本を譲って欲しいというメールを打った。ところがいつまで待ってもなんの連絡もなかったので、とうとう書かずじまいになってしまった。
それから一年たった。今年は事情があって観劇を控えていたが、Yがこの劇団だけは見ようといって切符を用意した。
下北沢/シアター711という劇場は、どちらかといえばマイナーな映画やドキュメンタリーを上映する小さな映画館である。だから客席は映画用のゆったりしたシート席になっている。
会場に入って驚いた。シート席の廻りに粗末なストールを補って座席を増やしているのはいいが、立派なシート席のほぼ半分に「招待席」「関係者席」の白い紙がべったりと貼られていたのだ。少し早めに行ったから僕はシート席に座れたが、金を払ってみるものが端に追いやられるのはなんとも理不尽ではないかと思った。座席が立派なのと粗末なのと落差があまりに激しいのでそう感じたのかも知れないが、背もたれ一杯に客を拒絶するように貼ってあるのを見て、まったくデリカシーに欠ける連中だと腹が立った。
あとからその席に座ったのは、何となくテレビ関係者のような気がしたがどうであったか。僕の邪推かも知れないが、この芝居の雑さ加減はちょうどテレビドラマのようなものではないのか?
僕はテレビドラマをあまり見ないが、その理由はいつもそのリアリティのなさにがっかりするからだ。結末にたどり着くためにはどんなご都合主義でも許される。感情移入させる部分は豊富に挿入されるから、筋立てなどごまかされてしまう。消費されるーつまり見たら次から次消えてしまう物語だから無責任でも済まされるのである。
しゅう史奈がテレビドラマに進出するのはいいことだが、その世界に引き込まれて消費されるだけの物語を書くようになってはいけない。この芝居がその兆候だとしたらその才能を惜しむものである。