題名:

「マクベス」

観劇日:

02/10/22       

劇場:

シアターコクーン   

主催:

ホリプロ    

期間:

2002/10/9〜24     

作:

ウイリアム・シェークスピア       

翻訳:

松岡和子      

演出:

蜷川幸雄          

美術:

中越司             

照明:

原田保           

衣装:

小峰リリー          

音楽:

井上正宏 
出演者:
唐沢寿明 勝村政信 六平直政  大石継太 神保共子 立石涼子   梅沢昌代 大川浩樹 妹尾正文  梅津栄  山崎美貴  他

 

「マクベス」

鏡の効果は絶大であった。軍勢を二倍三倍に見せ、極彩色の光を無限に灯し、さらには観客自らに客席の姿を見せつけることで、舞台との距離を心理的に調整することができた。この鏡の装置〈中越司〉に思い至ったところから、新しい「マクベス」の全体構想ができたのではないかと思われる。

鏡の間は、無限に映りこむ効果を出すためにある程度狭くつくり、しかも、すき間なく鏡を貼る必要がある。舞台一杯をダイナミックに使うのが蜷川演出の真骨頂であるが、これは中央に狭く閉塞した空間をつくり、パースペクティブを深く感じさせることで、時間感覚に奥行きを出すという効果を採用したのだろう。しかし、この取引は、物語をやや単調にしてしまったきらいがあって、得をしたかどうかは不明である。

「オープニングの枯れた蓮の葉の荒野を鏡の部屋につくったときから、戦禍の中、血と闘争の渦の中で魔女に出会う必然は準備されたと思います。魔女に出会うには殺戮の興奮がなければ出会えないのです。オープニングで劇のシチュエーションを信じてもらえないとこの劇は成立しないんです。・・・」〈パンフレットから〉

いう通り、血と闘争の渦をエンジンにして、殺戮の興奮というアクセルを目一杯に踏み込み、電子打楽器のクラクションをうち鳴らして、悲劇の終末へと駆け抜けた「マクベス」であった。いや悲劇であったかどうかさえ、気づく間もなく血塗られた物語は激しく進行し、そして幕を、いや鏡を閉じていた。 蜷川幸雄の意図は明白である。魔女は、どこか外の世界からやって来て人を惑わすもの、あるいは人の心の不安が対象化し、幻になったもの、と考えるのは俗流だといっているのだ。ずばり、魔女は最初からマクベスの内側に巣くっており、野心を増幅させ、実行をけしかける役割を果たしていたのである。そのために、このマクベスは、魔女の予言に疑いを持たない〈ように見える〉。悩み惑うことは、ある意味で停滞することだ。嘆き悲しみ、怒りに身を震わせることも程々にして、ひたすら魔女が予言した通りの物語を信じて前へ前へと突き進む。これは、場面転換の末尾をはしょるように繋いでいく演出よって強く印象づけられる。

テキストについても可能なかぎり刈り込んでいるように見えた。たとえば、「女から生まれたものにマクベスは倒せない。」というせりふは、通常「女のまたから・・・」であるが、マグダフが月足らずで、母親の腹を割いて生まれたという、どんでん返しの重要な伏線になっているというのに、そういう矛盾は、瑕疵にすぎないと言わんばかりである。(・・・なぜそんなにもいらだっているのだろうか?) このような演出のもとでは役者はあまり芝居をしてはいけない。だから、役者についてあれこれいってもしようがないのだが、唐沢寿明のマクベスだけは元気よく駆け回って、声も出ていた。その声が問題で、のどを絞り上げるような発声は持ち味かもしれないが、作り物すぎて聞きづらい。もともと線の細い印象の役者だからマクベス将軍としては少々たよりないのだが、蜷川がほとんどいじっていないのをみると、今度のマクベスはそれでいいとしたのだろう

。僕としては、この役者は10年後に、機会が会ったらもう一度見てみたいという気がした。 マクベス夫人は、少し影が薄かった。大竹しのぶには大いに期待していたが、小娘みたいなマクベス夫人を見てしまった。狂気を演じると、あの小柄な体が何倍にも大きく見えて、鬼気迫る思いをするのだが、今度のは、すっかり抑制されていた。 マグダフ〈勝村政信〉はなかなか存在感があって、随所でいいところを見せていた。妻子が殺された知らせを受けて嘆く場面では、役者としてもう少し演じたいところだったろうが、一ヶ所にとどまって短く心情をよく表現していた。感情移入を拒否する演出方針だからあれで十分だったのだろう。

マグダフ夫人〈山崎美貴〉は、母親らしさを見せることはできたが、武人の妻の側面はあまり出ていなかったと思う。演出なのか、役者の力量不足なのかよくわからない。 ことほどさように、役者に言及しようとしても、いいようがなくなってしまう程、演出の個性が強く出た芝居だといえる。

初演の時に「これはマクベスではない。」という人がいたらしいが、その人の言い分もわからないわけではない。「マクベス」は血塗られた惨劇というよりは、むしろ人間の心に生まれてくる「不安」が主旋律をなしている芝居と思うのが普通の感覚だと思う。おそらく、このマクベスには「不安」がない、つまり、魔女の予言に対する疑い、主人殺しの大罪を実行するまでの逡巡、友人を裏切るときの惑いなど、狂おしいばかりの「不安」があっさりとそぎ落とされて、物語の合理性を感じることができないといいたいのだろう。そういう意味では、僕も同感である。第一印象は、「こんな予定調和のマクベスでは、そもそも物語として成立しない。魔女の予言を頭から信じて、その通り実行して仕舞には殺された男の話が面白いかね。」という調子である。

しかし、これもまた「マクベス」なのだ。 世の中にシェークスピア信奉者は、大勢いる。その作品だけをやる劇団もあるくらいだ。こういう人たちにとっては、逸脱は許しがたい「改ざん」になるのだろう。 そういう思いもあっていいが、考えてみれば、日本でいうと近松や西鶴と同じような時代につくられた芝居で、しかも今や世界的な文化的資産なのである。もうすっかりもとはとれているだろうから、資産はどんどん活用して新しい財産を生み出したらいい、と僕は思う。木戸銭を払ってくれる客がいる限り。

それにつけても、蜷川幸雄はいらだっている。 ベルリンの壁が壊れ、ソ連が崩壊して以来、人は進歩することをやめてしまった、ようにみえる。かといってどこへ向かうでもない。何が正義か、何が善か、本当のところは何も見えなくなってしまった。長い停滞の時代に入ったという感覚は世界に共通の気分といえるのではないだろうか。とりわけ日本は、いま「失われた10年」からなお続く、出口の見えない深刻な閉塞感に覆われている。 表現者としての蜷川幸雄の上にも、それは重くのし掛かっているにちがいない。その心のありようをこの「マクベス」を通して垣間見たような気がするのだが・・・


新国立劇場