<%@LANGUAGE="JAVASCRIPT" CODEPAGE="932"%> 新私の演劇時評
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題名: まほろば
観劇日: 2008/07/18
劇場: 新国立劇場
主催: 新国立劇場
期間: 2008年7月14日〜21日 
作:  蓬莱竜太
演出: 栗山民也
美術: 松井るみ
照明: 服部 基
衣装: 宇野善子
音楽・音響: 秦 大介
出演者:秋山菜津子 中村たつ 魏 涼子
    前田亜季 黒沢ともよ 三田和代
 
 

「まほろば」

 久しぶりに大いに笑った。いや、当事者にしてみれば深刻な問題なのだから、不謹慎といわれそうで声に出すのは我慢した。
 四十才をすぎたばかりのキャリアウーマン、ミドリ(秋山奈津子)が休暇で帰郷して母親ヒロコ(三田和代)にいうことには、自分は生理がないから早めの閉経期を迎えたらしい。母親はびっくり仰天。土地の旧家、藤木家の嫁として、娘二人のうちどちらでもいいから婿をとって跡継ぎを生んでもらわねば家は途絶える。そんなことになってはご先祖様に申し訳が立たない、死んでも死にきれない。下の娘、二女のキョウコ(魏涼子)は十代で相手のはっきりしない女の子ユリア(前田亜希)を生んだが、その子もとうに二十歳、世間を狭くしてまともな結婚など望めそうもない。一人ミドリに賭けていたが、それがなんと、子種はともかく畑が枯れた?!万事休すか?

 シリーズ『同時代』の第三弾は、蓬莱竜太の書き下ろしを栗山民也が演出。むろん僕としては、蓬莱竜太についての知見は何もなかった。76年生まれの三十二才というから若い。若いに似合わずキャリアは長いようだ。こういう骨格がしっかりしていて、ディテールまで行き届いたおもしろいものを書ける才能を高く評価したい。

 全編長崎弁で通す、女性だけ六人の芝居。長崎のどこかにある田舎町、そこの旧家の座敷が舞台。障子が開け放たれ、縁側の向こうには植栽の緑が濃い庭が見える。縁先に大きな祭り提灯が下がって、遠くから太鼓や笛の音がかすかに聞こえてくるところを見るとどうやら町は祭礼の日らしい。
 舞台には、十二三才くらいの女の子と老婦人。女の子は漫画でも読んでいるのか腹這いになって足をあげてぶらぶらさせている。老婦人はこの家の隠居タマエ(中村たつ)。縁先を眺めていると、遠くから祭りの喧噪が伝わってくるのに、女の子がタマエに「この村の神輿はなんで女が担いだらだめなの」と聞く。この辺は大事な伏線になっているのだが、その答えが返ってくる前にヒロコが現れて、「あんた、誰?」。なんと、この家の家族ではなかったのだ。
 女の子は本吉マオ(黒沢ともよ)。どうやら二女のキョウコがつれてきたらしい。マオは父親とキョウコが一緒になるというのだが、キョウコは家族の前では懸命にそれを否定する。十代で私生児を産みさんざん迷惑をかけたうえに、いままた分けのわからない相手と関係しているというのは肯定しにくい。
 二日酔いで頭痛がすると言って、髪を振り乱したミドリがだるそうな態度で現れる。夕べ飛行機の中でさんざん飲んだあげく、空港でタクシーに乗ったのはいいが、家の玄関をがたがた踏みつけたこと以外どうやって帰ったのかまったく覚えていない。四十すぎて酒に弱くなった。近頃では会社の連中と飲んでも記憶がすっかり抜け落ちていることがある、と母親に愚痴をこぼす。これもまた重要な伏線になっている。
 ミドリは会社でも当てにされている存在らしく、仕事の電話がかかってきたり休暇と言っても忙しい。母親は、つきあっている清水とはいつ結婚するのかと迫るのだが、ミドリはあっさりと別れたという。それは冗談だろうとすがるように復縁を願うのだが、相手は外国へ行ってしまうらしい。長過ぎた春だったのだ。
 祭りの日には藤木家で親類縁者の男衆をもてなす習わしになっていたが、家にヒロコしかいなくなって、今では親類のものが料理の面倒を見ている。ヒロコとしては、ミドリが婿を連れて帰ってくれたら、そして子供を産んでくれたら藤木家も本家らしい体裁が整って、そんないいことはないと思っているのに、別れたとはがっかりである。
 ミドリは母親の勝手な言い分に腹を立て、思わず「それに私、もう子供生めない。生理がなくなったの、閉経期なのよ!」と宣言してしまう。それは何かの間違いで妊娠しているのではないか、お腹の中に清水の子がいるに違いないというと、ミドリは「それは絶対にない!」と断言する。自信満々な態度に、そんなことならばもう跡継ぎが生まれる可能性がなくなる。男を生まなかった自分の責任ではないかと半信半疑ながら呆然の態である。
 キョウコも早すぎるのではないかというと、ミドリは若いときから勝手なことばかりやって、あんたこそ男の子を産むべきではないかと逆襲。しかしそれは、世間体があってヒロコが承知しない。とにかく私に期待してももう無理、ミドリは証拠といって手帳を取り出して見せる。ドクロのマークが規則正しくあったらしい。確かに最近途切れている。あれはドクロなのか。ヒロコは「家庭の医学」を持ち出して『閉経期』の項を読み上げる。
 そこへ玄関に人の気配。前触れもなく、キョウコの娘ユリアが帰ってきたのであった。母親を嫌ったユリアは十八才になるとさっさと家を出て、東京で就職してしまった。折り合いの悪かった娘の突然の帰郷に、本吉のこともあってキョウコはうろたえる。ユリアはブランドものの洋服を身に着けてすっかりあか抜けた様子であった。あっさりと祭りを見たくなったというが、他に何か事情がありそうにも見える。
 こうして登場人物全員が出そろうことになった。親子四代に渡る女同士の会話は、歯に衣着せぬ本音トークのバトルが続いてその真剣さが実におかしい。
 タマエだけは、隠居の身で出しゃばることもないと我関せずの態度なのだが、家族のことはよく見ていて、 時々口を挟むとぼけた味わいが面白い。孫が生まれるときには「ここはあれが近かったから心配した」と被爆のことをさりげなく会話に挟む。藤木家の跡継ぎにしても恬淡としたもので、何とかなるものだと思っているらしい。自分も祭りの夜に有無を言わさず連れ込まれてそのまま居着いたようなものと、しゃかりきになっている嫁の態度をやんわりと批判、思った通りに生きるのが一番と達観しているようだ。
 『閉経期』の記述に多少の疑問を抱いたミドリは、最近そういうことをやった記憶はないが、ひょっとしたら自分が覚えていないだけかもと動揺し始めた。 そういえば、酔っぱらって正体を失い上司の新田に家まで送ってもらったことがあった。あのとき新田とのあいだにそういうことがあったのか?あの新田と?よりによってあの……。 妊娠検査薬で確かめたらわかるではないかというキョウコに、本音のところでは知りたくないのか、それなら買ってきてほしいと頼む。
 一方、着替えてきたユリアが祖母のヒロコに、しばらくこの家においてくれという。問いただすと、実は自分はいま妊娠しているというのだ。一同びっくり仰天。さすがはキョウコの娘だ、と思っている。ユリアによると、最初は今時らしく『出会い系』で相手と知り合った。付き合ううちに金を受け取ったり、洋服やらなにやら色々買ってもらったらしい。それでは援助交際ではないかというと、ユリアによれば互いに好きになったのだから援交とは違うらしい。それなら子供を産んでも問題ないではないか。相手は子供ができたことを知っているのだろうと聞くと、黙って帰ってきたという。相手には妻子がいて、ユリアには向こうの家庭を壊す気はない。一同はそれなら一も二もなく堕すべきだと説得にかかる。ユリアは、どうすべきか迷っている。だから、故郷の家に戻ってしばらく産もうかどうか考えたいというのであった。この騒ぎを遠巻きに聞いていたタマエがふらふら出てきて、縁側の方へ向かう通りすがりにさりげなく「産んだらいいじゃない」とつぶやいていく。
 キョウコが妊娠検査薬を素性がばれない店を探してようやく買ってきた。なんだかんだいいながらミドリは検査などしたくない。しかし、もう四ヶ月も生理がないのだからと言われてやむなく試薬を使いに消える。
 戻ってきたミドリの体から力が抜けている。どうやら陽性反応が出たらしい。こんな一本八百円位のもので人生が判定されるなんて信じたくない、というが事実は「閉経」ではなくどうやら「妊娠」のようである。ミドリにしてみれば青天の霹靂、人生を左右する重大事が突然目の前に現れたのである。キャリアウーマン、最後のチャンス、高年出産、相手とのやりとり、それらのことが渦巻いて苦悶するミドリ。ちょうどそのとき、神輿が近づいて男たちのかけ声が聞こえる。男って、なんて気楽なものなんだろうとみどり。
 ヒロコは、ミドリの妊娠でひとまずホッとしたようだ。藤木の家が絶えずにすむかもしれないからだ。それをタマエがからかって、さっきはそれで大騒ぎをしたあげく藤木の家が途絶えようと仕方がないと覚悟したくせに、いや、たとえそうなったからと言って誰もヒロコを責めないよという。この家はヒロコがやかましく仕切っているのだと思っていたが、ここに来て本当の家刀自はタマエだったと気づかされた。
神輿の音が近づいてくるのを聞いて、ユリアがタマエに何故この土地の神輿は男しか担いじゃだめなのかと訊ねる。タマエが言うには、この土地は昔から肥えた土地で、水がよくて子供がたくさん産める、女が生きやすい土地だった。この土地の神様は女で、だからここでは男だけが神輿を担いで神様を喜ばせるのだという。
 その祭りの日に、妊婦が二人もやってきたのは神様の思し召しとヒロコ。キョウコが妊娠検査薬を箱を持って「私も妊娠してないかな」というのでヒロコがあわてる。「冗談、冗談」というキョウコに「あんたが言うと冗談にならないのよ」とヒロコ。「なによ、それ!」とキョウコがふくれる。
 再び大音響とともに神輿が近づいて、その音がまるで家を包み込むようにしばらく続いたあげくやがて急速に遠ざかっていく。
 トイレに行っていたマオが戻ってきて「あのー」と言い出しにくそうにしている。「あのー、生理用品貸してくれないかな?」
 二人の妊婦がやってきたその日、一人の少女が初潮を迎えた。一同戸惑いながら「おめでとう」の声とともに溶暗。

 閉経だと思っていたら妊娠だったというドタバタは端で見ている限りおかしくて大いに笑った。しかし、ミドリにしてみれば仕事のことやら相手とのこと、丸高出産の心配やらなにやらが怒濤のように押し寄せてきて問題はむしろこれからである。しかも、その因となった行為に記憶がない。ユリアにしても妊娠を相手に告げないということは、一人で産み育てようか考えているのである。
 故郷とはいいものだ。どんな問題に遭遇しようと悩みを抱えようとそこに戻ってくれば何とかなる。相談に乗ってくれるものがいる。タマエも大らかに産めばいいとつぶやいた。キョウコが誰の子かわからないユリアを産んでもこの家が一人前に育ててくれたではないか。すでに先駆者がいるのだ。非嫡出子なんて後ろ指さされてもそれがどうしたとばかりに守ってくれる。まさにこの場所こそ「まほろば」というべきだろう。

 ということなのだが、ここでなんだか奇妙なことに気づくのである。どうも、ここでは一貫して男の影が薄いのだ。ミドリの上司、あの新田は呼び捨て、恋愛の対象どころか普段から男として認められているのかどうかもあやしい。ユリアの相手は妻子持ちのくせに携帯サイトで援交するような脳みそも尻も軽い男のようである。それにユリアの父親と来たら、この村の男のうちの誰であってもおかしくないというから逆に言えば、男なんて十束一絡げなのである。
 この際、男の人格はあまり問われない、どころか尊敬されもしなければ当てにもされていないのである。一体男とは何だ!と怒ってみてもしょうがない。タマエによると、この土地は肥えていて女がたくさん子が産めるから女がえらい。だから神様も女なのだ。そこで男どもは女の神様を喜ばすために神輿に担いで練り歩くというのである。
 うーむ。そういう土地があるかもしれないが、よゐこには、神輿の話にかこつけてそのような説明はどうかしら?歴史的な根拠が希薄で、行き過ぎたフェミニズムのような気がする。 蓬莱竜太がそう思っているのなら仕方がないか?
 日本の神道は「道」と言って、さも体系的であるかのような印象なのだが、その割には実にアバウトで、ご神体は天照から菅原道真、山や大木単なる洞窟とかいろんな動物、新しいところで東郷平八郎、乃木希典というのもある。基準などないところはたいへん結構だと思っているところだが、ご婦人がご神体というのは江ノ島の弁天様ぐらいしか思い出せない。あれはまた別の欲が働いているものだから違うね。ただし、神話よりももっと前(というのも変か?)の古代では豊穣の神といえば女性だったのだから、この長崎のどこか田舎ではそれが残っていたかあるいはどっかで本卦還りになったかしているのだろう。(しかし、ちょっと曲学?阿世の気配がするなあ)

 四代に渡る女性たちが血の道の話をしている最中に何度か男どもの神輿が家に近づき、しかし姿を見せることなく立ち去っていく。あれは勇壮な荒ぶる男の性を表現したつもりだろうが、「ちょっと君たちには関係のないことで取り込み中」と追い払われたような恰好である。僕である男としては、そんなひどい仕打ちにあってどうした弾みか、一つの卵子に向かって競争しながら泳いでいる無数の精子のイメージがわいて、なんだか惨めな思いに駆られたのであった。
 そういえば、今度のシリーズ『同時代』の三つの芝居は皆若い作家の作品であったが、どれも男の存在感が全く希薄であった。『鳥瞰図』(早船聡)は東京近郊の下町を舞台にした変わりゆく自然と人情の物語だったが、ひとりの女の生き方とその孫娘の関係が軸になっていた。男の人生は言わば添え物である。『混じりあうこと、消えること』(前田司郎)では、「父親という存在」であるかどうかも疑わしい男が女の体の中で混じりあい、なんと消されてしまう(僕の勝手な解釈)のだ。そして、シリーズ最後を飾るこの芝居には、とうとう男は一人も登場しない。それどころか「男の人格を否定するような動きがあった」というか、早い話が男は精子の一しずくに還元されてしまったのである。
 お立ち会いの諸君に申し上げますが、これが『同時代』つまり僕らが生きている時代なのだと若者たちは言っておるのです。
四十年前、中ピ連が猛威を振るい、男もスカートをはけと怒鳴られ、酔った女三人に男だからという理由だけで脳天を思いっきり殴られて以来、いつかはこんな日が来るに違いないと思っていたが、なんと生きているうちに来てしまった。
僕としては、どうしてこうなったのかと考えざるを得ない。そしてこの『同時代』がどこへ向かおうとしているのか、僕らとしてはどう対処したらいいのだろうかと思案しなければならない、のではないかと思っている。

 そんなことで、この間図書館で借りた本の中に参考になりそうなことが書いてあったので、芝居の感想ついでに、それについて少しだけ考えてみようと思う。
 あまり偉そうなことを言える立場ではないから控えめにするが、日本の人文系論壇というのは十本の指で足りるくらい大変狭い。早い話がマーケットが小さいからだ。 その中でも最近売り出し中の仲正昌樹という先生がいる。63年生まれ、金沢大学教授。東大の地域文化研究専攻博士課程修了の学術博士(こういう博士があるとは知らなかった)である。日本近現代思想史を講じたりポストモダンに関係するものを書いているが、どちらかと言えば最近「はやらない」哲学よりも分かりやすい社会学寄りの立場にいるのだろうと思われる。というのも社会学というのは分析はよくするが判断はしないという傾向があって、仲正先生を見ているとなるほどと思える節があるからだ。
 演劇ファンに分かりやすく言うと、山崎哲は実際に起こった事件の社会的背景について考えて作品を書き、ワイドショーなどで発言してきた。しかし、今はこれがいけないということになって、山崎あるいはその種の発言をしそうなコメンテーターはTVから閉め出されてしまっている。話を単純にすると、事件を通じて社会批判をするのは、かえって犯人を擁護しているように聞こえるのでまずい。TVとしても具合が悪いから控えようという空気が蔓延しているのである。「アキバの加藤」の事件は、非正規雇用や日雇い派遣の問題が背景にあると誰かが言い出すと、殺されたものの身になってみろ、それで加藤は免罪されるのかという声が大きくなって、いつの間にか『社会の問題』は単なる『個人的な事情』になってしまうのだ。その結果、第二第三の加藤が出現するに違いないという確信だけが、ただ不気味にその辺にただようことになっている。
 それとよく似た論理で、社会分析をしても批判や行動規範を追求するのは、逆に自分が批判にさらされる立場になる危険があるからやめておこうというのが(僕にいわせれば)社会学者的立場なのである。そのくせ、山崎などの社会批判派を、ついでに全共闘派?もひっくるめて「左」などとレッテルを貼り敬遠する。「左」があるから「右」もあるようで、かくいう自分はニュートラルという勝手に作った安全な場所にとどまるのである。まあ、学者なんてそんなものだ。
 ついでにいうと、近頃鳴りを潜めているが、宮台慎司もブルセラのフィールドワークを盛んにしていた時期があった。その分析と構築された論理には舌を巻いたが、それがどうしたというと、売春している少女をぶん殴るわけでも賞賛するわけでもない、ただそれだけという態度で、実に見事な社会学者ぶりであった。
 前置きが長くなった。「前略仲正先生ご相談があります」(2007年イプシロン出版企画、『ダ・カーポ』に連載された記事をまとめたもの)という軽い読み物を発見してぱらぱらやっていたら、面白い記述に出会った。この本は、仲正先生は何でもよくご存知ということで、世の中の事件、出来事をとりあげてライターが一問一答する形式で書かれている。
 ある事件についての回答の中から引用。
「…の事件で直感的に感じたのは、エディプス三角形の話。資本主義の解体はエディプス三角形の崩壊から始まっているということ。
精神分析でよく出てくる話なんですが、母親と子供の間に父親が文化・社会の代表者として入ってきて、母親と子が密室的に結びつくのを禁じる。そして、密室から外に出された子供に対して、父親は自分のようにならなきゃいけないとモデルとして振る舞うという…
 このエディプス三角形は、資本主義が核家族を中心として成り立っているという話とうまく結びつくんですね。つまり、核家族は労働力を再生産する場であると。勤め人男が結婚して子供を作って、その子供がまた新しい労働力になっていく。で、これはドゥルーズ=ガタリがいってたことですが、エディプス三角形が”再生産・生殖”という目標を達成し、資本主義がある一定の段階に進むと、自己崩壊を起こしていくんです。
 高度成長期には、まず父親が追いつき追い越せだったし、子供も父親にならって追いつけ追い越せでやっていけた。でも、高度成長が終わったら、そういう追いつけ追い越せは当然止まるはずなんですね。後期資本主義になったら、それ以上の富の拡大は起こらないし、人間がもっと楽になっていくこともあり得ない。
高度成長期には、父親より息子の方が豊かになるのもあり得たけれど、もう天井に達してしまったし、金持ちっていっても、そんなにたいしたことがないのが見えてしまう。目指すモデルがなくなると、エディプス三角形の再生産は基本的には崩れていくんです。」

なるほど「アンチオイディップス」。あれは一夜漬けの重しにはいいが、枕にするには低すぎた。おおよそそんなことが書いてあったのだね、仲正先生。しかし、そんなことならわざわざあんなにまでして紙数を費やすこともなかった。何しろフランス人は数字の読みが長くて複雑だから計算に弱いなどと東京都知事にからかわれたことがあるくらいだから、考えることも複雑なのだろう。それにしても、ずいぶんと長いおしゃべりをしたものだ。ただ、だからどうしようと言うところまで彼らは考えたはずだが、仲正先生としてはそこまで言うのは学者の領域を越えると思っているのだろう。
いや、きりがないからこの辺で終わりにしようと思うが、この芝居との関連でいうと、父親つまり男は、後期資本主義の現代においてはその役目を終えて……終えて……果たしてどこへ行くのだろう?再生産もままならず、ひょっとしたら女になるか。
おそらく、このシリーズを書いた三人の若者は、仲正先生に習わなくても直感的にこの時代の空気を読んだのだろう。芸術家とはそうでなければならない。
それにしても、どこの劇場にいってもそうだが、ご婦人のトイレの長蛇の列を眺めるとエディプス三角形の崩壊というのはあながち迷信とも思えなくなるなあ。

俳優のアンサンブルは上出来。それには栗山民也の演出の絶妙の力加減が効いていた。ああいうものを喜劇に持っていける巧みの技、蜷川幸雄にはできないだろうな。

 

 

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