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「枕草子が好き」

中目黒の山手通りから一本入ると平行して長い商店街があった。駅の後背地は住宅街だからああいう個人商店の集合体がいまだに成立している。地方ではめったに見られなくなった光景である。車で行ったから止めるところがなくて閉口した。あてずっぽうで再開発らしい超高層ビルの地下に停めたら、幸いそのすぐそばに劇場があった。近ごろではどういう加減か、東京中のあっちこっちに劇場ができて、結構なことだがなにをやっているのやら。新聞やTVの文化部も金をかけた芝居の記者発表とやらにはほいほい出かけて愚にも付かない提灯記事を書くのに、マイナーな劇場の取材なぞする気も無いのだろう。何が起きているのかさっぱりである。
大新聞もTVも自分の嗅覚を働かせて取材する記者などいないらしい。若者が「動物化」なら大企業の社員は皆「官僚化」、言い訳ばかり探して仕事は下請け任せ、自分じゃ何もしようとしないし、できもしない。どうなってんだ我が国は!まったくマスコミにしてからが、偉そうな顔して踏反り返っているが、何も知ろうとはしない、あれこそ文化果つるところだね。とまあ、いいたいことはまだあるが、とりあえず古老の気分で愚痴をこぼしてみる。

そんなこといってる場合じゃなかった。芝居のことである。
なんとも奇妙な公演であった。開幕は、騒々しいロックの響きとホリゾントに映し出される激しい動きの映像である。ところがホリ換りの御簾の奥に数人の人影?あれはなんだ。とりあえず音楽入りで「枕草子」とはどんなものかという入門編を紹介し、それが文字通り枕になっているという工夫である。
昔「ピーター・グリーナウエイの枕草子」という奇妙な映画があったが、一瞬あれを思い出した。女の裸に文字の映像を投写するというエロティックな場面が有名であった。「枕草子」のどこを探せば裸が出てくるのか?西洋人の東洋理解がばかばかしいことの見本のような映画で、そこだけよく知られている。
明かりが入ると、「る・ぱる」の三人(松金よね子 岡本麗 田岡美也子)がパソコンをのぞき込んでいる。今流行のブログを書いているらしい。この連中はどこか大企業のOLという設定である。そのうちの一人が、いきなり「春は曙・・・」と朗読を始める。一通り読み終えると今度は脇のふたりがそれに現代語で茶々を入れる。
「ひとにあなづらるゝもの」を朗読。茶々が入る。同じように「にくきもの」「過ぎにしかた恋しきもの」「心ゆくもの」と続いていく。作家の批評精神は辛辣である。それを現代の女性が解釈して批評を加える。まるで古典の勉強だ。
清少納言は、一条天皇の中宮(後に皇后)定子に使えていた女官である。定子の信頼は厚い。だから宮廷の行事や政、人間関係についてつぶさに知りうる立場にいる。大きな会社には必ずいる御局、古参のOLみたいなものである。これが会社の中の出来事や人事などを歯に衣着せぬ勢いで、ああだこうだと決めつけては、ばったばったと切りまくる。実に小気味がいい。
背景になっている人間の相関図もさりげなく紹介してくれる。
飛ぶ鳥落とす勢いの藤原道長が、自分の娘彰子を一条天皇の中宮として押し付けたのだが、その彰子に仕えたのが紫式部。したがって、部下同士の仲がいいわけはない。清少納言は、当時女性としては珍しく漢詩についての素養があることを知られていたが、紫式部にはこれが気に障っていたみたい。とか、夫の橘則光と別れたのも教養が邪魔をした、とか。道長と関係があったとかなかったとか。
と、途中で一同が素になって「皆さん、ここでBGMを演奏していただいている雅楽の奏者をご紹介します。」と急にもうひとつお勉強の時間になる。御簾が上がると、烏帽子を被り正式の装束に身を包んだ十人ばかりの男女が並んでいる。笙(鳳笙)、篳篥(ひちりき)、龍笛(横笛、おうてき)他に太鼓と鉦、楽箏などそれぞれが持っている楽器が紹介される。中でも、笙は細竹が十本ほど束になった笛の一種だが、リードのところに結露すると音程が狂うというので、常に火鉢や電熱器をそばにおいて暖めながら吹くというのを初めて知った。千年以上も形を変えない世界最古の楽器だそうだ。すぐには気付かなかったが、女性が何人か含まれていることは意外だった。
東儀秀樹がどこかでいっていたが、自分の家は何代続いているかはっきりしないが、この楽器の演奏を千年以上受け継いできたことは間違いないということだ。恐ろしく長い間連綿と続いてきた文化である。それをこうしてさらに次の時代につないでいく人々が確実にいることに驚きと安心を感じた。普段雅な音楽と何気なく聞いているだけで、こんな機会でもなければ知ることのなかったことばかりであった。ひとしきりありがたいお話と演奏を聴いた後、雅楽の一同が退席し、再び朗読とそれに対するひやかしが続く。
清少納言は、優秀な女性であった。優秀すなわち幸福かといえばそんなことはなかったと生涯を推し量り、それでも世間に向かっていいたいことはいうとパソコンのキーボードをたたく。ブログはやめられないというのである。

「枕草子」に雅楽の紹介が加わるというのは、どう考えても唐突である。生田萬が構成を考えたとあるが、これでは何だか無理やり雅楽を突っ込んだとしか言い様がない。他の部分はよく考えられていて、朗読に対するコメントはOLらしく的確で辛辣、納得のいくものであった。つなぎあるいはまとめのイメージを映像に頼る傾向があったが、それはこの場合やむを得なかったかもしれない。劇中の映像というものはいい加減なものが多いが、この映像と選曲のできがなかなかによかったので雅楽さえなければ、ひとつのまとまった劇になっていた。何しろ「る・ぱる」の役者にあて書きだったのだろうから、悪くなるはずもない。生田萬の並々ならぬ力を見せた佳作といえる。

それにしても、なぜこういう劇ともイベントともつかぬものになったのか不思議に思って、もう一度パンフレットにあたってみたら、「グループ る・ぱる」の芝居とばかり思っていたものが、 エムスクウェアズカンパニー・プロデュースとあった。
この「エムズ・・・」がなにかというと、「ウッディシアター中目黒」のマネージャー森脇恵が代表を務める会社らしい。つまりは、劇場主催の公演だったのだ。

森脇の口上にいわく。
「今やブログは老若男女関らず、それぞれの個性で発信され、アクセス数のランキングも日々公開されており、それによって一個人が突然の注目を浴び、人気者としてメディアに登場する機会も珍らしい事ではなくなりました。それだけグローバルにネットワークが拡がったと言う事ですから、まさにこの時代なればこそ・・とお考えの方も多いはず。
けれど・・ぃぇぃぇ・・
1000年と少し前、正しく『ブログの女王』が日本に実在したのです!
その名は清少納言。ブログタイトルは「枕草子」。“春は曙”で始まるこの文章は、古典の教科書の定番。在学時代に暗記させられた経験をお持ちの方も多いと思われ、美しい日本語として記憶されている事でしょう。そして作家である清少納言のイメージは自ずと、教養高く、物静かで慎み深く・・と!?
 と〜んでもないです!
 全300段、お読みになればきっと確信される事でしょう。確かに教養高くはあるけれど、男の事も、上司のことも、デキない奴の事だって、歯に衣着せず言いたい放題の書きまくり。好き嫌いを臆さず発信することが出来る、自由奔放で逞しいお方であったのだと。そしてまた、女性であれば気づくのです。『ぇぇっ!1000年経っても、女を取り巻く環境や、モチロン女心のトキメキだってちっとも変わってないじゃないっ!』とね・・。
 本公演は、これまで余り古典に触れた事の無い方にも親しんで頂ける様、ブログ「枕草子」を今を生きる女性の言葉に変え、朗読ではなく現代語で“語り”、美しい雅楽の調べと共に、皆様にお届けしたいと考えております。」

つまりは「枕草子」をブログと見たてれば、古典に縁のない現代人にも分かりやすいのではないかというのである。そして、浮かび上がってくるのは千年前の女性も、今と同じような環境に置かれ、同じ悩みを抱えていたということだといいたいらしい。ついでに雅楽にも親しんでもらいたいといっている。
啓蒙の精神は実に立派である。

生田萬は、この森脇恵の仕掛けた「トラップ」に引っかかったといっている。
「●はじまりは、こんな都市伝説でした。――『枕草子』を通勤電車のバイブルにしているアラフォーな女が、車内で文庫を読みふけり、「あるある・・・」とか「ないない・・・」とかひとりで「クイズ100人にききました!」をやってるらしいというのです。教えてくれたのは、ウッディシアターのマネージャーM女史。もしかしたら、ぼくを今回の企画に引きずり込むため、彼女が捏造したフィクションだったのかもしれない。でも、そう気づいたときにはすでに、ぼくは「砂の女」の蟻地獄にはまった旅人状態。『枕草子』から抜け出せなくなっていたのでした。
●伝説の電車女にならい、手当たり次第に文庫を漁ったぼくは、『枕草子』の行間からあふれる「女、生きてます!」感に圧倒されまくりました。平安と平成。千年の時の隔たり。そんなものをまるで感じさせない「女性であることのリアル」? 同時に、『枕草子』の男性の研究者がみな「清少納言ギライ」になるという、その気持ちもわかってきた。たとえていうと、「朝まで生テレビ」の激論に耳をそばだてているこちらの脇で、一緒に見ていた彼女が画面の論客たちのネクタイやスーツの着こなしのことばかり悪態をつくのにウンザリするような、そんな気持ちです。
●天下国家を論じもせず、神や仏への信仰心に真正面から向き合うこともない。『枕草子』に描かれた世界は、小さく、狭い。でも、それは宮中の後宮という隔離された特殊な小空間が強いたものであって、決して「表現」の小ささ、狭さではない。むしろ「表現」としては徹底的に表層的だと思いました。「小さな世界」の外部を夢想する代わりに、清少納言は、その内部をこれでもかとばかりに撫でまわす。デコボコや微細なヒダヒダ、温もりや冷ややかさをあますことなく語り倒す腕力が、ぼくら男どもをタジタジとさせるのです。
●時代はどれだけ変わっても、女性性は不変/普遍――などと思わせるだけのリアルを、ぼくは『枕草子』に感じていました。でも、ちがうんじゃないのかな? それは、「女って結局変わらない」なんてことではなく、たとえ千年経っても男性中心な社会から隔離されて生きざるをえない「女の現在(いま)」が変わってないってことなんじゃないの? と、そんな結論めいた話をM女史にすると、「そうなんです。その視点が必要だから、構成演出を女性ではなく、あえて男のあなたに頼むのです」。巧妙なトラップにかかったぼくの蟻地獄暮らしは、そうして、いよいよ現実のものとなったのでした。・・・」

生田先生は、「たとえ千年経っても男性中心な社会から隔離されて生きざるをえない『女の現在(いま)』が変わってないってことなんじゃないの?」と思っているらしい。それに同意した森脇女史とは、近ごろあまりはやらないフェミニズムの闘士なのだろうか?

しかし「枕草子」をブログと同じようなものとして鑑賞すれば、宮廷の日常について、そこで暮らす細々とした感想をつづったものだから、必然的に「そういう」結論に達することは間違いない。そこで、千年経っても女の立場は変わらないではないかと嘆いて見せるのはフェミニズムのテーマとしては結構ではあるが、そこから先、どうしようというのだろうか?

僕などは、むしろ「千年経っても、ひとの心はそんなに変わりはない」ことに驚きを禁じえないのだが、「女の立場」は大いに変わってしまったと思っている。いや、確かに大きく変化した。清少納言が今に生きていたら、政治や文化経済に至るまで鋭いコメントを繰り出す評論家になっているに違いない。したがって、「枕草子」からそのような狭い世界でちまちま愚痴をこぼしていた印象を受けるというのは単なる偏見でむしろ間違いである。あの時代に、あれだけの感受性で自分と世界を見ていた人間はまれである。
千年前の「ブログ」と見なすことによって、古典に親しみやすく、という啓蒙主義もはっきり言えば百害あって一利なしである。そこらのお姉ちゃんが、愚にも付かない感想を書きなぐっては消えていく消耗品みたいなものと同じにしては断じてならない。

どうも変な公演だと思っていたが、清少納言を「ブログの女王」などと見なす軽薄さ、唐突な雅楽の挿入によって啓蒙を図る性急さなど、まとまりを欠いた出し物は、森脇恵の発想で、こういう考えが浮かぶ頭は悪しき「教養主義」の権化みたいなものである。
現代における「枕草子」の意味は、いかに作者を現代人に近づけるかという点にはなくて、むしろ清少納言の批評精神、ものの見方、感受性に学ぶことである。ついでに雅楽をやるならその「鑑賞」の手引きをまじめにやることだ。楽器の紹介はその第一歩に違いないが、本丸は「鑑賞」することである。したがって、このような劇中に挿入するといった中途半端なかたちで見せるのはどうか。プロデューサーなら後日観賞会でもやって責任を全うすべきだろう。

生田萬は、まんまと森脇に乗せられて、つい「千年の間、女の立場は変わっていない」などととんちんかんなことをいわされたが、リップサービスに違いない。今後は、女の言うことには細心の注意を払うべきだ。何しろ敵は手ごわく、恐ろしく、そして少しだけ美しい(といっておこう)。銀粉蝶でいやというほど知っておろうに。



      
 
 

題名: 枕草子が好き
観劇日: 2008/09/12
劇場: ウッディシアター中目黒
主催: エムスクゥエアズカンパニー
期間: 2008年9月10日〜9月14日
作: 生田 萬 原作:清少納言
演出: 生田 萬
美術: 伊藤麻紀 
照明: 池田圭子
衣装: 伊藤麻紀 
音楽・音響: 柳原健二
出演者: 松金よね子 岡本麗 田岡美也子
(雅楽演奏)・・八木千暁 三浦礼美 新井悠 井坂信諒 芳賀育実 佐藤彩 清水瑞衣 金子詩香 中 保之

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