題名:

マテリアル・ママ

観劇日:

06/4/21 

劇場:

新国立劇場   

主催:

新国立劇場     

期間:

2006年4月19日〜5月4日

作:

岩松 了

演出:

岩松 了

美術:

池田ともゆき     

照明:

沢田祐二    

衣装:

勝俣淳子 

音楽・音響:

藤田赤目 

出演者:

仲村トオル 伊藤 歩 早船 聡  岩松 了 倉野章子   
 
}


「マテリアル・ママ」

タイトルはマドンナの有名なヒット曲「マテリアル・ガール」からの発想で、作者岩松了は「物質文明の女」と云うとても硬い訳詩に惹かれたらしい、と栗山民也が書いている。さらに、栗山は「・・・『物質文明』の中に生きる『ママ』と云う存在が、極めて日常的な場所で豊かに描かれていくだろう。そんな時間の中から、いったい何が浮かび上がってくるのか、岩松さんの迷路を楽しみたい。」と述べている。
 あいにくマドンナになんの興味もないから、どんなにヒットしたと言われても知らないものはしようがない。「Material Girl」を「物質文明の女」とは相当な意訳に違いないが、もとを知らなければGirlをMamaにした動機をたどるのも容易なことではない。しかも、栗山が「迷路を楽しみたい」といっているとおり一筋縄では行かない展開で、迷路は迷路で結構だが「物質文明の母親」とやらを楽しむと云う心境にはほど遠かった。
岩松には、日常性にこだわるところや非日常的な(気を利かしたつもりの) せりふと『間』を多用する一種独特の世界があって、はまりこめばそれなりだが、たとえば新国立劇場02年4月の「『三人姉妹』を追放されしトゥーゼンバフの物語」がそうだったが、自身が迷路に迷いこんで出てこれない態の作品もある。あれは、チェーホフを知らないものにとってはちんぷんかんぷん、たとえ『三人姉妹』に通じていてもピストル自殺したはずの登場人物がニューヨークに現れるという荒唐無稽ぶりは、観客を無視した想像力の勝手な暴走といってよい。そこでは、「三人姉妹」の大して重要でもない登場人物をことさらのように=マニアックに取り上げ、テネシー・ウイリアムズがチェーホフに関心を持っていたことを手がかりに無理やり二人を結びつけるという荒技をやってのけたのである。何を思いつくのも自由だが、自分の中でしっかりと消化されてなければ、人を説得することなど出来ないのである。端的に言って、彼の描く不条理性には自身の世界観という心張り棒が見当たらない。
この芝居についても早めに非難がましいことを書いておくとすれば、岩松の独りよがりが(今風の言葉で)サクレツした作品だった。
もっとも僕のうしろで見ていた男がやたら大声で笑うものだから、僕の感覚がどうかしてるのかとも思った。しかし、これはすでに岩松に「はまった」人であり、不幸にしてその笑い声は圧倒的多数の観客にとって鼻白む騒音として鳴り響くものだった。(と思う!)
舞台は板敷きの部屋で正面に大きめの格子の障子が四枚。左にカウチソファ、右に本棚とティテーブルがおかれている。下手の土間には古タイヤが一本かかっていてガレージのようである。暗転して明かりが入ると舞台は180度回転して、障子の向こうだった側が正面にくる。そこは畳敷きの座敷で、あろうことか自動車が真ん中に鎮座していて、若い男、イクオ(仲村トオル)がしきりにそれを磨いている。(畳の上に車という違和感が一種の狙いを持っているのだろうが、それに感心するか否かは好みの問題かも知れない。)
そのローバーミニはエンジンをかけるとまともな音がして動くことが分かる。では何故座敷においてあるのかといえば、その後現れるママ(倉野章子)との会話から分かるが、傷つけられるのを恐れているからのようだった。ママとはこの家に一人で暮らす未亡人で、自動車は外国へ単身で赴任している娘のものであった。イクオは自動車のセールスマンである。新車に買い替えてもらえると思って、ここには、ご機嫌伺いにしょっちゅう来ているようだ。
このママは、なかなかわがままでキュート、男を惹きつける魅力がある。隣家のイシガキ(岩松了)が再婚を迫って、訪ねてきては怪しげにつきまとう。イシガキの母親は寝たきりで、介護が必要な身である。イシガキの言によると、母親は「(このママが)いつになったら家にきてくれるのか」とすっかり再婚を信じ込んでいる。
イクオが車を磨いていると妹のトキエ(伊藤歩)がやって来る。まるでこの家のママに嫉妬しているかのように、早く自分のもとへ帰ってきて欲しいと懇願する。その様子は妹というよりは恋人に対する振る舞いのようだ。
ママは訪ねてくるイシガキが少々煩わしくなったのか、介護ばかりで家にこもりっきりではかわいそうだ、海外にでも旅に出たらとすすめる。イシガキは躊躇していたが気晴らしになるかも知れないと決心し、母親を轟(早船聡)という介護士に預けて出かける。轟はかつてママの娘が勤めていた職場の同僚で、娘に気があったようだ。轟もまたママのもとへやって来る。
ある日イクオがやってくると、新車に買い替える話は始めから存在しないとママが云う。娘はそんなことを云っていないというので、イクオは外国に行った娘に連絡を取らせろという。しかし、ママは言を左右にしてごまかそうとする。
轟の話を聞くうちにママの態度がどこか変だと感じられるようになる。娘はほんとうに海外にいるのかどうか、今も生きているのかどうかさえ何だか怪しく思えてくる。
一方、イシガキが海外から戻ってくるとどことなくママとは距離を取り始めている。イクオの存在が気になっているらしい。旅行の話を聞くと、行った先はどうも海外ではない。なんと伊豆の熱川に長逗留していたというのだ。(熱川という設定がいいでしょ、という岩松のしたり顔が見えてきそうだ。)
そんなある日、ママが大事に飼っていた小鳥がいなくなって大騒ぎになり、一同が探していると高いところからつるされて死んでいるのが見つかる。いったい誰がこんなむごいことをしたのか?
イクオは新車の売り込みをあきらめた。やけになったイクオは妹トキエとの関係を近親相姦だとはっきりいえばいいではないかとわめき散らす。(本人がはっきり言うのは、何だかねえ?)なにかが狂いはじめている。
この劇は登場人物それぞれの関係がはっきりしている割には希薄で、しかも劇中で微妙に変化していく。その関係の中心にいるのは云うまでもなくママである。自動車という「物質文明」の象徴を家の座敷に上げて後生大事に磨きをかけている。そのもともとの持ち主は不在であるにもかかわらず、ママはそれを餌に、男を惹きつける。その魅力に男どもが寄ってきて、惑わされる。若い娘である「妹」トキエは、それがなにか恐ろしいことを呼ぶに違いないと兄を恋人の魅力で引き戻そうとする。
回り舞台が暗転とともに場面転換をくりかえし、板敷きの居間と車のおかれた座敷が交互に現れ、次第に時空がゆがんでいくような錯覚を覚える。
そして終盤近く、居間の方から障子を開け放すと座敷にあったはずの車が、ついに忽然と姿を消していた。
図式的に云えば「物質文明」の虚構性みたいなことになるのだろうが、こう回りくどいと何が何だか分からなくなるというものだ。
冒頭に紹介した栗山民也の文章は「ある不可解の面白さ」というタイトルがついている。この中の岩松了の劇世界について書かれた肝心のところを最後に、引用しよう。
「そもそも、岩松さんの劇世界は、一つの点から始まり、それがピンと張った線になり、突如それが二つに分かれ、しかも違ったいくつもの方向にいつの間にか直線や曲線など複数の線となって交差し、容易に解きほぐすことも出来ぬほど複雑に絡み合っていく。
言葉の距離感や人間存在の不確かさが、ドラマの流れに不思議なリズムを刻みながら、はっきりとした結末に向かって物語は転がっているわけではなく、不気味な瞬間や乾いた笑いが、突然現れる。だから、一つの物語という軸にだけよりそっているならば、その場に取り残されてしまうだろう。もともと、岩松さんの根っこは、大きな一つの劇的なものに向かっていくのではなく、初めからそれを拒否したフツーの人間の営みといった時間の奇妙な流れにあるのだと思う。」
岩松作品をいくつか見た印象では、この栗山の見解がすべて当てはまるという気はしない。ただ、この芝居に限っていうならば、栗山の云う通りで、「一つの物語という軸にだけよりそっているならば、その場に取り残されてしまう」というのは多くの観客が味わった実感に違いない。
ならば寄り添うべきどんな「軸」があるというのか?
木戸銭はらって、そんなものを探さねばならないのはとんだ迷惑だが、あえて云えばそれは作家の「世界」に対する構え方といったようなものではないかと僕は考えている。
「フツーの人間の営みの奇妙な流れ」とか云うものに気付いた場合、その奇妙さを他人にどう伝えれば同感してくれるかを考える。次に、そのことがそもそも伝えるだけの価値があるかどうかを吟味する。そうしたものを瞬時に判断する「営み」が、その人の構え方といっても云い。
こうしたプロセスを通過せずに提示されるイメージは観客の心の中に達する前に泡となって消えるのみである。
仲村トオルは舞台経験が浅い割にはしっかりしていた。ディテールの表現は難があるものの車のセールスマンとしては上出来である。ただ、でき上がったイメージを消すのはたいへんだろうな。舞台でやっていくなら、いきなりハムレットでもやって苦労してみることだ。
若い伊藤歩が最初はどうなることかと思っていたが、尻上がりによくなって、このわけの分からない難役にすっかりはまりこんだように見えたのは収穫だった。存外、いい演出家に鍛えられたのかも知れない。
倉野章子は珍しく色気のある役柄で、さすがに何でも出来る女優だなと感心した。
ただ、役者がどうこうといっても、この芝居は本がすべてだった。
「われわれはどこにいくのか?」というテーマに対する岩松了の応えがこの芝居であり、そのことを念頭に置いて見れば、岩松のイメージしたことは分からないでもない。
しかし、残念ながらそのイメージは十分に醸成されていなかった。発酵途中の若い酒を飲まされたようなもので、栗山のタイトルをもじって云えば、その味わいは「ある不可解の不愉快さ」とでも云っておこう。

 


新国立劇場

Since Jan. 2003