<%@LANGUAGE="JAVASCRIPT" CODEPAGE="932"%> 新私の演劇時評
タイトル日にち掲示板トップ

「混じりあうこと、消えること」

若手作家、書き下ろしシリーズ「同時代」の第二弾は「五反田団」の前田司郎、白井晃が演出した。
前田については、二つのことしか知らない。一つは平田オリザの「青年団」にいたらしいこと。もう一つは、平田の「御前会議」に登場する佐藤さんと称する実は人形が、前田のアイディアだったということ、である。(あっ、もうひとつ忘れていた。最近ドーナツ屋のコマーシャルに顔を出しているのを見つけたばかりだった。)
というわけで、作品どころか劇団のことも作風も何も知らないで、初めて前田司郎を体験することになる。

遊具のある児童公園が舞台。中央上手よりに、貝殻を伏せた小山のように見えるオブジェがある。ところどころ穴が開いているのは、内部にちょっとした迷路があるからで、子供が中にくぐって出たり入ったり遊べるようになっている。上手奥にはジャングルジム、手前には砂場。そこにはプラスティック製のおもちゃが散らばっている。下手にはブランコがあって、手前にベンチがおかれている。
街灯がともり、薄暮のどこにでもあるリアルな公園の風景である。
そこへ喪服姿の男(國村隼)が現れベンチを見つけて腰をかける。葬式帰りに暫時休憩という風情である。男は足下にロープがあるのに気づいて、これをつま先でいじっている。それが舞台袖までのびて消えているのに興味を持ったのか両手で引っ張ると、ある程度まではひけるが、突然強く抵抗されるので、訝しげにロープを捨てる。これは後で起きることの伏線になっている。
男がそうしているところに、小山のようなオブジェの穴から少年=俊夫(端爪遼)が顔を覗かせ、穴に向かって母さん=カナ(南果歩)を呼ぶ。男と顔を合わせた母親は、少年にこれはお前の父さんだという。男は母さんを知っていたようだが、本当に知っているのか、また、その応対がどこまで本気なのかは曖昧である。何か無理矢理「父さんにさせられた」のではないかという気もするが、とりあえず男は小山の横のわずかなスペース、そこが「家」と想定される場所に招き入れられる。靴を履いたままだったので、それをとがめられるところなど、ままごと遊びのような「家族ごっこ」がはじまる様相である。
少年=俊夫は、父親とは初めて出会ったらしい。本当の父親かどうか疑っている。母親は「ちゃんとした父さんにしていきましょう」などと妙なことをいう。しかし、男に比べると母親が不釣り合いに若いことを指摘されると、お前の父親は再婚したのだとか、前の相手は死に別れ、いや生き別れのほうがいいかなどと勝手に過去を作っていく。男は、戸惑いながら女の作る話にただ相づちを打つばかりである。
男はコンサルタントの仕事を持っているが、今日はリフレッシュ休暇といい、少年も出かける気配はない。男は普通、家族は一緒にいないものだと思っている。しかし、母親も少年も家族はそろっている方がいいという。それで何をするのかと男が問えば「団らん」だという。この家族の「団らん」という言葉はこの劇にとってしばしば登場する重要なモチーフになっている。しかし三人は、団らんとはどんなことか忘れてしまったようにぎこちなく座ったままである。
そのうちに男がそばにあったロープの端をいじり、引っ張ったりしはじめる。それを見とがめた女があわててロープを奪い、危険な行為だという。この紐の先には怪物がいるというのである。怪物とはピラニアのことである。女は、そのピラニアは私の娘、私がピラニアと交わって生まれた娘なのだというのである。
そんな馬鹿な、ピラニアなどその辺にいるものかと抵抗すると、それがいるというのである。なぜなら、ここは水の底にある水底町なのだから。その証拠に、上に見えるあのうすぼんやりした光は月なのだという。たしかに天井には不透明の幕のようなものが張ってあり、それを通して月なのか太陽なのか一つの明かりがにじんで見える。
女のいうには、最初はピラニアしかいなかった。男は、それなら東京はどうなったと聞く。もちろん沈んでしまったと女。そして、自分が世界で一番最初の人間だったという。それから男が、次に少年ができたというのである。はじめ男はピラニアだったと女が語る。ピラニアだった男が女の腹の一部を噛みとって、それで人間になったというのである。今でも女の腹にはそこが傷になって残っている。いまや噛みとられて男の一部となった女の腹の一部は、もとのところへ帰りたがっているはずだなどと女はいう。(遠く旧約聖書を思い出させる挿話である。)
不意に女は団らんでもしませんかと呼びかける。しかし、男はどうするのかわからない。女は団らんといえば食事ではないかといって、砂場に散らばったおもちゃの食器を運んで、食事のまねごとをしようとするが、男は団らんならば、娘も一緒の方がいいといいだす。すると、女も少年も呼ばない方がいいという態度である。娘は凶暴なのだという。何しろピラニアとの子だから、歯を見せると喉笛に噛み付かれるというのである。近頃ではよほど人間らしくなったが、まだ危険だから、決して歯を見せないようにと言い含めて、女は決心する。いよいよ紐を引き始める。はじめは何の抵抗もなくするする引き寄せられるが、やがて何かに引っかかったように紐はピンと張る。どうやらすぐそこまで来たようだ。えい、と力を入れると人間が飛び込んできた、と思ったらロープの先には人形がくくりつけられている。
娘は、この世界つまり水底の町を出て行きたがっていたから、すでにここにはいないのかもしれないと女。とはいえ、まだ人間ですらないピラニアの子がひとりで何かできるはずもない。そこで少年が自ら言い出し、探しにいくことになる。母親は、ついでに弁当を買ってくるように言いつける。
少年が一人小山のオブジェの穴に向かって、弁当を注文している。海鮮御膳にしようかどうか迷っている。応対しているのは女の声である。ところがお金を受け取ろうと穴から出てきたのは鶏の手。思わず化け物!と叫ぶと自分は俊夫とは旧知のチーコだと名乗る。俊夫が無理矢理「混ざりあおう」としたので、自分は殺されたのだという。では何故死んでるのに会えるのか?と問えば、おそらくここが水底だからだろうという答え。「そうか、普通死んだら消えるもんね。」と俊夫。では「消えてしまうというのは混ざりあうことと同じこと?」と鶏が訊ねる。これではほとんど禅問答だ。
実は鶏の声を演じていたのは、探していた少女(初音映莉子)で、いつの間にかジャングルジムの上にいたのだ。少女がこの問答を引き取って、「なんだか混ざりたいんだよ」という少年の言葉に「消えてしまうかもしれないのに?」と聞く。答えを躊躇している少年に、少女は「ご飯を食べるのと同じことではないか」という。それは「ご飯を食べて体の一部にする」ようなことなのではないかと少女はいっているのである。
混じりあうとは、通常人間と人間の関係性についてのことであろうと思っていた僕らにとって、これは虚を突かれたような視点である。対象を口からとって体内に入れて「混じりあい」消化、分解することによって「消し」、体の一部にするというのは、もはや普通の関係性を突き抜けている。人と人はそれぞれ独立した人格をもって対峙している。我は我であり、相手もまたしかりである。しかしここで関係を結ぶということは、対象を飲み込み、混じりあい一体になってついには相手を消すことである。それが人間の性、あるいは生理なのだといいたいらしい。いうまでもなく人間が他の生物の命を奪って生きているという自覚を促しているわけでも、またその事実を指摘しているのでもない。関係性ということを突き詰めていけば、最終的にどちらかが対象を飲み込み、体内で混じりあい一体化する事態に至るのではないかということである。
かつて、サルトルは他者のまなざしが我を無化(モノ化=即自)するといったが、ここでは、無化どころではなく消滅させられるのである。すなわち他者は自分を消滅させうるものとしてたち現れる。こうして他者との関係ははじめから挫折しているのであり、どちらが主導権を握るにしても飲み込んで残るのは一方の主体だけということになる。究極の主観主義ともいえる考え方であるが、前田司郎にとってはそれが今という時代を生きる現実感覚なのだろう。

母親によると、俊夫は父親の何倍もエロティックなのだという。小学生の頃、学校で飼っていた鶏の飼育係になったが、しばらくして博愛主義からか鶏と交わることが発覚して問題になった。これが先のチーコの話である。鶏だけではなかった。同級生の女の子とも手当たり次第そういう関係になっていたことがわかった。あるとき鯉がかかる病気になって鯉とも混じりあっていたことが、いや他にも近所の犬や猫、マンホールとも関係を結んでいたというのである。まるでフェティシズムを示す行動だが、上のような観点から見ればあらかじめ挫折している関係性を回復しようというきまじめで虚しい努力のようにも見える。

さて、ジャングルジムの上にいる少女が少年に弁当を食べさせろというので、交換条件として首に紐をかけることを要求する。そのうえで、少年は家族のもとへ帰ろうとさそうが、少女は家族に心当たりがない。それは本物かと訊ねる始末。あきれた少年はその場を去り、少女もまた首に紐をつけたままいなくなる。
少年が再び親の元へ戻ると、さっそく少女を呼ぼうということになる。女は男にくれぐれも歯を見せないように注意し、そろそろと紐をひきはじめる。次第に早くなる。もうすぐですよと女。登場した少女は口に何かくわえている。どうやら生きた鳩だ。これがピラニア時代の男と最初の人間であった女との間にできた子だといわれるが、もとより男には覚えがない。まあそんなものだろうという態度である。少女は母親を認めたものの父さんの方は疑っている。本当の父親なのか?
せっかく家族が集まったのだから「団らん」を始めようと母親が提案する。ところが、誰も団らんがどういうものか知らない。いや、漠然とは知っているが、具体的にどうすることが団らんなのか?寝っ転がってくつろいでみる。こんな退屈なものではない、もっと愉快なものではないか?そうだ、ご飯を食べるというのでは?とここで弁当を買ってきたことに気づく。
皆で弁当を食べていると、男の態度に不信感を抱いた少年と少女は「この人、本当に父さん?」とあからさまに非難を始める。男は、そういわれたから俺はお前たちの父さんだと、自分が父親と名乗ったわけではない、責任はむしろお前たちにあると開き直る口ぶり。母親が割って入って「父さんの体の中には母さんの一部が混じりあっている」のだからと、父親をかばうと、少年がならばその証拠を見せろという。そのとき思わず男がにやにやすると、その歯を見た少女がいきなり喉に噛み付いた。あわてて止めに入る女。あれは敵じゃないと少女に言い含め、その場を収めるが、少女はなおも団らんとはこんなものじゃないと言い張る。
ゲームでもするかという言葉もむなしく宙に浮かぶ。団らんの具体的なイメージを求めて一同はあれこれと考え始める。今日あった出来事を話すというのはどうだろうか?と言い出した男に、今日は何があったの?と女。葬式があったと男。しかし、誰の葬式だったか忘れてしまったという男に、それが思い出せないなら団らんにならないといって、一緒に探しにいこうと提案する。そして勝手に小山のオブジェの穴の中に頭から入り込んでいく。あわてて男も後を追いかける。
残された少年と少女は、あれは一体家族だったのかなどと話している。そのうちに少年が砂をすくっては穴の中に入れ始める。両親は死んだのだから埋めているのだという。この遊具は実はお墓なのだ。やがて二人は死んだ母さんと父さんを捜しにいこうと穴に潜り込んでいく。
男が小山のオビジェのてっぺんから顔をのぞかせる。二人とも戻ってきたのだ。俊夫も少女もいない。死んだのか?あるいはあのぼんやりと光っている月を目指してここを、水底町を出て行ったのか?
そこへ再び少年と少女が現れ「母さん、探しましたよ」という。「四人で暮らしていけるんでしょう」という母親に、自分たちはここを出て行くことにしたと告げる。それなら、朝ご飯を食べていきなさいと母親。一同はその場に座り込んでおもちゃの食器に砂を盛り、食べ始める。「今日はいつ頃戻るの?」と訊ねる母親に、少年が「さあ、何年かかるかな?」という返事。「…いまお前、なんかつまんだろ」「ええ、オシンコ…」などという会話が続く中、溶暗。

これは現代における家族についての物語である。舞台が児童公園であることが象徴的なのだが、現実感の乏しい寓話のような構成になっている。
導入部のつくりかたが面白い。男が公園に現れ、いわば強引に父親にされたあげく実は過去にピラニアだったことが明かされても男はそうだったかもしれないと受け入れる。ここは水の底で、天井のおぼろな明かりが月である。つまりこの場所は水の中なのだ。漠然とした閉塞感と、時間がたゆたっている感覚を表している。この家族は、団らんを求めているが、それが具体的にどんなことなのか納得できる答えを出せないで苛立っている。また、娘がピラニアで、長いロープの先につながれているはずだが、ここに現れても歯を見せてはならない、のど元に噛み付くから、というのである。どこか暴力的で危険なにおいがする。それでも団らんは切実に必要だと思っているらしい。というわけで、この先何が起こるかわからないという期待感を抱かせるに十分である。
しかし、それも中盤の少女が現れるまでで、それからは各プロットにおける話が前後で矛盾したり、意味が取れなかったりして必ずしも完成度が高いとはいえない。そのことは上の物語の説明で、ある程度わかってもらえると思う。
例えば抽象的な詩であっても各パラグラフの言葉やイメージにはまとまりがある。この本においては後半、急にそれがなくなる。いったりきたり、ぎくしゃくしているのだ。ただし、前田はそういうまとまりや秩序のある書き方は不自然ではないかといっている。単刀直入にテーマに切り込んで論理的に進行させる方法もあるが、迷いや逡巡、遡行など感じたプロセスをそのまま書き込むのが自分のやり方だというのである。エチュードを重ねていくやり方でもいいのではないかと。
僕とは見解の相違、といえばそれまでだが、しかし百歩譲って前田のいい分でもかまわないとして、それを観客にわからせる「技」というものがあるはずではないか?そうでもなければ前田の思考回路とシンクロできた観客だけが納得できることになる。むしろそういう内面を表現するのが芸術であり、多くの観客が共感理解できないとすれば、「技」あるいは「芸」において乏しいのだと指摘しておきたい。

さて、それはそれとして僕はこの劇を別の興味を持ってみた。
まず前田の関心が「家族」だったことにはいささか意表をつかれた思いであった。このような視点でまともに「家族」を扱ってみようというのは冒険に違いないと思うからである。「家族」は最も身近でありふれたテーマなのだが、前田の挑戦が独特なのは、その「関係性」に深く分け入って「家族」のイメージを本質において捉え直そうとしたところにある。ここに描き出されたのは、前田の感性を通して見た「家族」の「現在」である。しかもそこに現れた像は、過去の「家族」の有り様からは劇的に変容していた。この指摘はかなり衝撃的である。「家族」の解体は同時に組み替えを要求しているが、その方法も出口も見つからず、途方に暮れているのが僕らの時代の「家族」だというのである。さらに、その変化は「家族」という閉じられた系だけでなく社会全体に及んでいるという予感もあるのだが、そこまでこの劇の射程に入れることはできない。ただ、その意味でもこの劇は十分刺激的であるといえる。
前田の関心が何故ここへ向かったかはわからないが、推量はできる。動機の一つとして、TVドラマなどがまき散らしている「家族」の固定観念に強い違和感を覚えていたからではないかと思うのである。それを端的に表しているのが、この劇に一貫して流れている「一家団らん」へのこだわりである。彼らは家族であることの唯一の証、あるいは家族であることを実感できる唯一の時間、それが「団らん」であると思っている。一緒の食事、くつろいだ時間の共有、皆でするゲーム、今日あった出来事を話しあう・・・。いずれも普通の家庭で営まれているはずの「団らん」風景である。しかしこの劇では、どれも長く続かない。彼らがそれを「団らん」と実感できないのは「団らん」という観念に無理矢理あわせようとしているだけだからである。家族一同がうちそろって食事、その後のくつろいだ時間、そんなものが果たして今日の一般的な家族の風景であろうか?皆でゲームに興じる、とりとめもない話をする、一体どれだけの家族がそんなことを経験しているだろうか?一家「団らん」とはもはや実体のない幻想なのである。
家族というのは一組の夫婦の子や孫、その親など血縁で結ばれたものが通常は一つ屋根の下で暮らしている状態を指すが、そこには家長を頂点とするヒエラルキーが厳然としてあった。それぞれには立場に応じて役割があり、その「分」をわきまえて暮らすことが要求された。その秩序を束ねているものが家長=父親の存在である。戦前の民法はそのような「家」を基本単位としていたが、それが民主的ではないとの理由で戦後、大きく変わった。「家」という概念を解体し「個人」を中心に据えたのだ。それでも昭和三十年代までは戦前の考え方が世間にはそのまま残っていた。
実際に変わっていったのは高度経済成長とともにである。工業化社会の到来とともに農村から都会に人口が移動し、多くは勤め人になった。当然「家族」の様態も暮らし方も変わる。はじめはそれでも「一家団らん」はあったはずだ。しかし、次第に「サザエさん」や「男はつらいよ」などのノスタルジックなイメージにそれを託して、実際の暮らしはそこからかけ離れていったのだ。
この劇では、男は外からやってくる。そして父親だといわれて家の中に招き入れられる。それでも男には自覚がない。「最初の人間である」女に「ピラニアであった」男が噛みついて食べた体の一部と「混じりあった」ことで、男は人間になったのである。そして子供ができた。男はその話をそうかもしれないと思う。否定も肯定もする根拠を持っていないし、とりあえずこの瞬間を過ごすことしかできない。この男には「時間=時制」というものがないのである。
つまりこの「家族」において父親は、家長でもなければ与えられた立場も、期待される役割もあるいは過去も未来も持たないのである。男の過去を紡ぎだすのは女であり、子を産んだというのも女である。それは一対の男女関係を前提にしているはずだが、男は女の体の一部と「混じりあい」女の体の一部は男の体の中にある。この入れ子状態は家族というものの根幹をなす男と女の対なる概念が崩れていることを意味している。いわば内側に向かってメルトダウンしていて、むしろ男の存在は「消されて」いる。
四十年以上も前のことだが「家族帝国主義」という言葉があった。過激な学生運動に参加しようとする子供を、家長である父親を中心とする家族が様々の圧力を加えて阻止しようとするのだが、それを家族の帝国主義的な支配であると非難したのである。家族の権力を代表する父親の存在は「粉砕」の対象であったが、逆に言えば、その頃は自由であるはずの家族の行動を縛り付けようとする強く確かな存在だったのである。

統計によると、現在の一般的な父親は三十代から四十代前半にかけて会社に縛られる。当面の目標である中間管理職になるための熾烈な競争を勝ち抜くためには、家族と過ごす時間を犠牲にしなくてはならないのである。小さい子供は主に母親の手で育てられるが、手がかからない年頃になると、その母親も生活のためにパートにでなければならない。何しろ現代の生活はモノ要りにできている。新機能の電気製品、携帯電話にiPod、ゲームにグルメに旅行、習い事に塾や学校の授業料……。こんなものがなくても生きていけるのに、脅迫的に消費を強いられ、「貨幣」の奴隷と化しているのが僕らの暮らしであり、僕らの時代なのだ。
ようやく父親に余裕ができてくる頃になると、子供の方は親離れが始まっている。しかも自分の将来のことを考えれば安閑としていられない。それが思春期と重なってきわめて不安定な精神状態になる。この劇では半分ピラニア=動物である娘が、凶暴な怪物として登場するが、そのようにして子供もまた孤立している。こうした暮らしのどこに「家族」があって、一家団らんが生じるのか?

この劇は、そのような家族の現実が反映されたものと思うのだが、それ以上に僕が気になったのは、「混じりあう」というイメージである。
東浩紀と大塚英志によると宮赴ホを含む「おたく」世代とそれ以降の「オタク」とは違うらしいが、もちろん前田はずっと後の世代である。そもそも「おたく」というのは「君」とか「お前」「あなた」とおなじ相手を指す言葉だが、自尊心を傷つけられたくないために相手から自分を防御し、相手にも一定以上踏み込まないという微妙な距離感を体現している。強い自己愛ということもできるが、それでは世間とまともに「混じりあう」ことはできない。この劇を見ながら感じていたことは、その後期の「オタク」のあり方である。若者の心の有り様といってもいい。それは、世間から孤立し壁を作り、その中に立てこもっているうちに「自己」が自分の毒にやられ、自分の中で「自己」の核心あるいは確信が溶解し始めているのではないか?ということであった。自分が自分の中で「消える」というアイデンティティクライシスである。
「家族」を壊し、その中の人間を孤立から溶解へと運んだエネルギーが、境界を越えて社会に噴出しはじめているのではないか、という不安がわきあがってくる。折から、百年に一度の大恐慌が襲ってくると世間は騒いでいる。それでも資本は人間を無化しながら、自己の論理で増殖を続けようとするだろう。

 

 

 

 

 

題名:

混じりあうこと、消えること

観劇日:

2008/07/04

劇場:

新国立劇場

主催:

新国立劇場

期間:

2008年6月27日〜7月6日
作:
前田司郎

翻訳:

 

演出:

白井 晃

美術:

松井るみ

照明:

齋藤茂男

衣装:

宮本まさ江

音楽・音響:

井上正弘

出演者:

國村隼 橋爪遼 初音映莉子 南 果歩



 

kaunnta-