題名: |
民衆の敵 |
観劇日: |
06/6/2 |
劇場: |
俳優座劇場 |
主催: |
燐光群 |
期間: |
2006年5月26日〜6月4日 |
作: |
ヘンリック・イプセン |
翻案: |
坂手洋二 |
演出: |
坂手洋二 |
美術: |
島次郎 |
照明: |
竹林功 |
衣装: |
宮本宣子 |
音楽: |
島猛 |
出演者: |
大浦みずき 中山マリ 鴨川てんし 川中健次郎 猪熊恒和 大西孝洋 宮島千栄 江口敦子 樋尾麻衣子 内海常葉 裴優宇 久保島隆 杉山英之 小金井篤 工藤清美 桐畑理佳 阿諏訪麻子 安仁屋美峰 樋口史 渡辺美佐子 |
「民衆の敵」イプセン没後百年だそうだ。この間はチェーホフの百周忌があったばかりで、そこら中チェーホフだった。ノルウェー政府が世界中に呼びかけているというから、今度はイプセンだらけになるかも知れない。なにしろ近代演劇の創始者だ。ノラのファンも多いことだろう。ただし、坂手洋二はノルウェー政府の話を知らなかったという。
この前の「上演されなかった三人姉妹」はかなり政治を意識した作品(モスクワのゲリラによる劇場占拠事件を下敷きにしている)だったが、その延長で今度は「民衆の敵」、正統的社会派の古典をもって演劇の社会参加を実践しようというのか?
ところがポスターをみると、描いたのは(虫プロの正義漢=というのもおかしいか)石坂啓、漫画である。なるほど、いまごろ正面切って「民衆の敵」でもないな、と思ったのか。つまり、民衆というものは(呉智英先生もいっている通り)大昔からバカなものだ。バカの敵と言うのだから賢いわけである。おそらく、大義は「敵」にあると主張するのに、大いなる「照れ」があったのだろう。ここは一つ漫画、寓話ということにして、直截な物言いは避けようという魂胆だったに違いない。幕開けのナレーション(渡辺美佐子)でイプセンがこれを喜劇として書いた云々はもちろんでたらめで、坂手の単なる照れ隠しである。
まあ、含羞とは常識人にあるべき好ましい態度といえるが、まるで子供漫画のような結末では、せっかく照れをみせてくれたのに「これが賢いってことかい?」と苦情の一つも言いたくなる。
かなり原作に寄りかかって翻案したからつじつま合わせに苦労の跡が窺えるが、自慢の工夫は主人公を女にしたことだろう。なんというか、あたりが柔らかくなった効果は出ていたと思う。
ある小さな町の郊外で温泉が湧いてでる。これを町まで引いて来るパイプラインは出来ていて、これから宿泊施設をはじめ温泉街を作ろうとすでに出資者が集まっていた。
ところが水質を調べていたスドウトモコ(大浦みずき)が、この温泉がバクテリアだの毒物だのに汚染されていることを突き止める。原因は高台にある源泉のそばに廃棄された皮の鞣工場があって、そこの廃液が紛れ込んでいるらしい。このまま事業を進めたらたいへんなことになるとトモコは、町長をしている実の姉(中山マリ)に知らせ、打開策として汚染地域を迂回する別ルートの建設を提案した。
町長は厄介なことになったとあまり積極的ではなかったが、部下に試算させたら少なくとも百億円は追加予算が必要と聞いて、ますますやる気を無くした。その上工期も一年はかかるという見通しで、近隣の町に後れを取ってしまうのでは、この提案は受け付けられないと判断した。つまり、トモコの説をごまかして強行突破しようというのである。すでに出資している町の有力者たちにしてもこれ以上の投資は出来ないと、町長の意見に賛成である。
トモコは科学者の良心にかけてこれを訴え、阻止しなければと決心、新聞に論文を発表し広く認知を求めようとする。
「日々新聞」の編集長ホリエ(江口敦子)と印刷会社の社長アクツ(鴨川てんし)は多いに感じ入ってトモコの支援を約束するが、まもなく町長の圧力が功を奏しトモコの前から逃げ回ることになる。
ついにトモコは直接町民に訴えるしかないと、集会をひらいて論文を読み始めるが、町長一派の妨害にあって、かえって民衆の反感を買うはめになってしまう。事業の推進に棹を差す煽動者というわけである。
トモコは町の職員の身分だったが解雇された。支援してくれるのは、家族を除けばなぜか捕鯨船の船長(裴優宇)だけ。その家族も、夫キヨシ(猪熊恒和)は絵描きでたよりなく、教師をしている長女のフミエ(宮島千栄)は職を失い、二女のエリコ(樋尾麻衣子)息子のテツオ(小金井篤)はともに学校でいじめに遭うというひどい有り様。石を投げられ家もめちゃくちゃ、ついには家主から出ていってくれといわれ、一家は町をでる決心をする。
しかし、捕鯨船の船長の提案で、町に踏みとどまり正しいことを訴え続けることが、民衆の敵としての自分の役割だと翻意する。船長が持っていた建物をレストランに改装し皆でやっていける見通しもある。そうして一家は互いに抱きあい、家族の絆を確かめあうのであった。
脇筋として、夫キヨシの父親オカモリジュウゾウ(川中健次郎)が廃液垂れ流しの鞣工場を持っていた男で、キヨシに遺産をやるとかやらないで騒動が起きるというのがある。この男は、トモコの論文をネタにして町の有力者から密かに株を買い集めていたのだ。トモコが論文をなかったものとしてくれれば、株の価値は上がる。そうなれば自分を長年さげすんできた有力者たちに復讐が出来るし、孫たちに遺産も残せるというのである。トモコが即刻断ったのは言うまでもない。
なかなかの力作だったが、家族が肩を寄せ合い団結してことに当たろうという結末はいくら漫画でも安直に過ぎた。我々の時代の家族はすでにそこにはいない。
それにしても温泉の開発を巡る話にしたのはいい思いつきであった。本人も気に入ったと見えて、入浴剤「民衆湯の華」を作るほど入れ込んでいる。ただ、源泉からの迂回路を造るのに百億円と一年以上の工期というのでは間尺に合わない。ダムでも造る気か?そもそも千メートル掘るのに一億円くらいかかるといわれているが、大概千五百メートルも掘れば温泉は出るものだ。付帯設備といったってせいぜいそのスケールの事業である。
そういう気掛かりなところはあるが、温泉を掘り当てた町の興奮、そのなかで行政官、町の有力者・ボス、新聞、民衆、良識派の科学者が対立する、という基本的な構図は絵に描いたようによく出来ている。こういう構造は、特に地方に行けばいくらでも現実に存在するから、漫画といっても侮れない。例えば、脱ダム宣言をした長野県、などを思い描いて見たらリアリティが増すかも知れない。
議員化した土建屋たちの議会とそのボスが経営するメディア、ダムは環境破壊と税金の無駄遣いといって対立する知事、国の威光を通そうと抵抗する国家の官僚、公共事業をあてにしてきた県政に反旗を翻した地元金融機関、どっちにつくべきか揺れ動く県民、これらは冗談ではない。現実である。どちらが正しいと青筋立てて言うこともないが、そうした昔からある話を、イプセンは写しとったのであったし、この劇はそれを寓話に仕立たものである。坂手は本筋の他にいくつかのエピソードを添えて話をにぎやかにしている。
その一つが、最初に登場するクジラを食べさせるレストランで、ここでは捕鯨の問題に言及している。クジラは冷めると硬くなるが焼き方次第とか子供の時分は給食に出たとかいいながら、トーンはIWCの方針に批判的である。もっとはっきりと解禁を訴えてもよかった。近ごろはよく海岸に上がることが多くなったが、増えすぎて生態系をこわしているのではないかという気もする。食べるほうについては、あまりうまい肉でもないからどちらでもいいが、あえていえば子供の頃遠足に持っていった「須の子」の缶詰、あれだけは復活して欲しいと願うものである。
また、夫キヨシの父親オカモリジュウゾウのエピソードは被差別部落の問題を示唆している。革の鞣工場と、長年さげすまれてきた有力者たちへの復讐というのは、それである。権力構造の他に、社会には時間軸に添ってでき上がった構造もあることを入れて、劇に陰影をつけた。そして、彼が株を買い占めるのは、いまをときめく?インサイダー取引で、誰もが話題の人物を思い出すという時宜を得た描き方であろう。
喜劇、というよりは漫画のトーンだから、主人公のトモコ、大浦みずきはまるで宝塚に帰ったように伸び伸びとヒロインを演じた。もちろん、手を広げ大仰に首を振り、大股で歩き回るという宝塚独特の動きと男役特有の野太い声がよみがえった。多少浮いていたが、なにしろ漫画だから、その程度のことは許される。
ところで、いま思えば島次郎の装置が案外生きていたと気付いた。舞台の上に一尺ほどの高さの台をいくつかおいて、場が変るごとに適当に移動させて塊をつくるというシンプルなもので、空間全体は黒で統一されている。そのなかに、レストランのテーブルあるいは新聞社の編集室のデスクや棚、何種類ものクラシックなスタイルの椅子などをその都度配置し、場の雰囲気が出るように考えられている。これがものトーンのために変化があまり感じられないが、実は多いに変っている。こういう主張しないスマートさ、物語の奥にありながら、後で浮かび上がってくるような美術は、島次郎ならでは、という気がした。むろん彼には「コペンハーゲン」(マイケル・フレイン作・新国立劇場)のようにコンセプトそのものを直接的に表現するという、これとは対極にある方法もある。なんとも懐の深い想像力といわねばならない。
この「民衆の敵」は、喜劇と呼ぶにはあまり適当でない。笑えないからだ。坂手洋二がこの劇を喜劇にしようとしたなら、失敗だというしかない。喜劇の定義は難しいが、取りあえずこの劇に「道化」を探そうとするのは無理がある。滑稽なところもあるが、隣り合わせにシリアスな現実がある。だから、最初からいっているようにこれは漫画だ、と捉えるのが僕にはしっくりくる。くしくもポスターは石坂啓である。そう考えたら、この劇は僕の目には成功しているように見えるのだが。