題名:

ミレナ       

観劇日:

02/10/3     

劇場:

世田谷パブリックシアター     

主催:

世田谷パブリックシアター    

期間:

2002年9月27日〜10月8日 

作:

斉藤憐

演出:

佐藤信       

美術:

佐藤信・星健典    

照明:

斉藤茂男    

衣装:

合田瀧秀   

音楽・音響:

島猛        

出演者:

南果歩  渡辺えり子  渡辺美佐子 大方斐紗子  大崎由利子  北村魚  西山水木  山口詩史  石村実伽  小崎友里衣  二瓶鮫一 真那胡敬二 大鷹明良            
 

 

「ミレナ」

 世田谷パブリックシアターの音響設備が素晴らしくいいと思ったが、すぐに勘違いに気づいた。いいのは島猛の音楽の方だった。重低音から高音まで使った短いテーマを要所要所にバランスよく配して収容所の暗い空気をつかの間払ってくれた才能は、評価されてよいと思う。

 話は、ナチスの思想犯収容所につれてこられたミレナ(フランツ・カフカのチェコ語翻訳者にして恋人)とマルガレーテ(ドイツ共産党員でソ連に亡命して活動、脱党後強制収容所にいれられ、5年後ドイツに強制送還、この収容所に送り込まれるという数奇な運命をたどった、しかもベルリンの壁が壊されるのを見届けて亡くなったらしい)の交流を中心に、女の囚人、看守の助手で、農婦のゲルダがからむという登場人物のほとんどが女性ばかりの芝居である。

 僕はこれをフェミニズムという観点からどうみるか連れ合いから問われていたが、正直のところ、みている間中気持ちが悪くて、それを思い出すとあまり言及したくないという考えが強かった。つまり、こんな話は早く忘れてしまいたい!と思っていたのである。

 確か二つの理由からだったと思う。 まず収容所は自由を奪われると同時に死と隣り合わせの場所である。おのれの死は、自分の実存の問題である。ミレナの様に、たとえ逆境にあっても明るく澄んだ気持ちでいられるというのは一種のスローガンとしては正しいのだろうが、どう書いたところで絵空事である。(いっそ居直って、戦って死んでくれたほうがシンパシーを感じられた)ぼくはおそらく自分の死は受容できるが、他人の死は悲しすぎる、そう感じるようになった。年をとったせいか、だから収容所の話はみるのも聞くのもつらいのである。 

  もう一つは、僕らが肉体を持っているという事実を見せつけられたからだ。シュミーズ姿で踊る囚人の女達、殺されようとしているのに子供に乳をやる話、そこに足が収まっていたはずの死んだ女達のハイヒール・・・それらによって、僕らが肉体から逃れられないという事実を突きつけられるのである。このリアリズムをやり過ごすことが出来ない、いらいらする重さが気持ちの悪い原因だったと考えている。

 で、結局フェミニズムはどうなったかというと、登場人物を男にかえた場合でも情況はあまり変わらないのではないかと思った。だが、演出(佐藤信)は女性であることによって表現されるべきことを計算していたようだった。

「佐藤信:・・・この芝居が面白いと思うのは、女性に語らせるというところ。この芝居の実験的なところだと思うんだけど、ほとんど女の人だけで歴史を語らせる。・・・女性と歴史をがっぷり組ませて、女性同士がそれについて議論するという芝居だよね。・・・女性の側からみたとき、強制収容所も現代も、突き詰めれば何も変わっていないんじゃないか?」(「二十一世紀を歓迎する前に」斉藤憐と佐藤信の対話より)  

 この最後の「突き詰めれば」の部分の意味はよく分からないが、つまりは歴史を構造的にとらえて女性に論じさせるところが新しいということらしい。 しかし、みていてそれがどの部分に当たるのか分からなかった。考えてみれば男と女で歴史が違って見えるというのも不思議な話である。

 それにしても斉藤憐は、なぜこのような題材を選んだのだろうか? 最近、ソ連に亡命した後、メキシコシティで客死した日本共産党員の足跡を追いかけていたから、それかと思ってみたが、あれはどうしたのだろう。

 僕には、ミレナという感性も、マルガレーテという知性も収容所に閉じこめられてしまっては、そんなに面白く描けるとは思えない。このとき既にミレナは五十才に近く、マルガレーテはそれより六才若いだけである。舞台に上げるなら、カフカという薄気味の悪い小説家と恋仲になったころのミレナがもっとも魅力的でふさわしいのではないか、という気がする。また、マルガレーテという激しい気性とそのためにたどったすさまじい人生は、舞台よりも伝記小説で読んだほうがもっと人間ドラマや二十世紀という時代のダイナミズムを感じることが出来るはずと僕は考えている。

 ついでに言えば、南果歩がこの五十女の背負ってきた人生を丸ごと舞台に表現できる力量を持ちあわせてはいないし、渡辺えり子ときたら丸々と肥えているのは割り引いてあげても、草創期の共産社会の中心近くで動き回って生き延びてきた知性もしたたかさもおよそ感じさせることはできなかった。まあ、最初から無理だったのだが。

 この芝居のある種失敗は、本を別にして、年齢を表現できなかった役者とそれを引き出せなかった演出の共同責任につきる。 この別々の濃厚な人生を歩いた二人がラーベンスブリュック強制収容所で出会ったという事実だけを頼りに、むりやり斉藤憐は、十分生きたともいえないけれども、晩年に近い分別盛りの女の思いで話の交感を舞台にのせたということになるが、この面白いはずの素材で描いたものがたりが僕には色あせた写真を見るようで、ちっとも魅力的に思えなかった。

「佐藤:僕は憐さんに何かいま書きたいものを、自由に書いて下さいとお願いしたんだよね。」 「斉藤:大前提で言えば、二十世紀の人類がやってきたこと−スターリニズムとファシズムの凄さ、というものにただ呆然としている自分がいて、それに対してなんの解決もなんの方針もなく、二十一世紀を迎えつつあるという思いがする。・・・」(前掲の対談より)

 こういう考えが下敷きになっているから、ファシズムとスターリニズムが出会う舞台が用意されたのであった。 なぜ自分が体験していないドイツの強制収容所を書いたのかということには、例えばやはり体験していない十五年戦争を書くことも同じように「歴史を書く」ことであり、その差はないという。しかし斉藤憐は、それに続けてこう発言する。 「ただ、その時自分の中に、例えば広島・長崎は書きにくい、という感じはある。両方とも、軍需工場を抱えた大日本帝国の心臓部だったわけで、その問題というのは掘り下げればいろいろあるし、韓国に行けば当然ながら、被爆した元徴用工や挺身隊員に出会っちゃうし、そうなると、突っ込んで描こうとすればするほど、きな臭くなっちゃうんだな。だからそこで外国の物語に託して、日本の免罪された大衆達の話を書いてみようと思った。つまり、なぜ日本人は広島や長崎ばかりを語るのか、それはまず南京へいってからにしてはどうだ、という問い掛けに対して、まさにそうだな、と僕も思ってね。」

 「日本の免罪された大衆達の話」と「ミレナ」の関係は少しわかりにくいが、要は、ファシズムとスターリニズムをちゃんと総括しないと日本人も二十一世紀を迎えられないではないかという意味なのであろう。

  僕はこういう議論にはほとんど賛成したくない。第一「免罪された大衆」は誰でそいつはどこにいるのか?誰が免責したのか?大衆つまり日本人全体が有罪ならその大衆はどうなるのか?このように問題の措定の仕方が抽象的で観念的であり、具体的な応えがでないものは、あらかじめ挫折した問いにすぎない。

  僕がいまむしろ具体的な恐怖を感じるのは、ある日突然狂ったとなりのおやじが襲いかかってくかもしれない、ストーカーに狙われてつきまとわれるかもしれない・・・そういったことだ。いつか不用意に発言したことで、警察に引っ張られる心配よりも、そのことで誰かが襲いかかってくる可能性の方がはるかに高い。僕はむしろそういう恐怖を生産している元の所が気になっている。

 「韓国に行けば当然ながら、被爆した元徴用工や挺身隊員」がいるし、従軍慰安婦と名乗る人もいるのだから、実際に行って話をしてくればいいではないか。軍事独裁ははるか昔のことになったし、何なら「その河を越えて、五月」の平田オリザを案内人にして。金大中も逮捕はしまい。

 「南京」も「靖国」も「教科書」も政治の世界で飛び交う特殊言語である。斉藤憐が「きな臭くなる」といっているようでは情けない。中国でも、韓国でも行って、この言葉からカッコをはずして話をしてくればいいのだ。

 「ミレナ」からだいぶそれてしまったが、斉藤憐と佐藤信が掛け合いでやってくれた種明かしに、知識人の歴史認識のある種の呪縛を感じて、筆が走ってしまった。 よくも悪くも斉藤憐は千田是也の忠実なる弟子である。進駐軍が戦略的に隠蔽した歴史のある部分をそれと知りつつ同調した政党をはじめ朝日文化人など左翼知識人たちの末裔に斉藤憐はともかく佐藤信までが名を連ねているのを発見して唖然とするより他はない。 右翼反動の大合唱で排斥したそのことが、大方、ジョン・ダワーの「敗北を抱きしめて」の出現によって「免罪符」(=米国人が言うなら仕方がない)を得たと認めたのだろう。(僕の論理も少し分かりづらくなっていることを認めるが、ここは別の機会に詳しく論じることにしたい。)

 斉藤憐の心配にかかわらず、二十一世紀はやってきた。六百万人を殺すエネルギーコストよりも六百万人が消費するエネルギーを売りつけたほうがもうかるという計算が出来る程度に人類は賢くなった。ミレナよ安らかに眠れである。

 さて、これを書いている途中で、加藤弘一という文芸評論家の「ミレナ」の劇評に出会った。面白いと思ったので全文を以下に引用する。(ただし、本人の承諾はとっていないが文句はあるまい。)

  ほぼ賛成だが、全共闘世代の思考パターンを反帝、反スタ、真の社会主義幻想、「庶民」信仰と断じるのは、少々ステレオタイプにすぎるだろう。斉藤憐は、全共闘より一つ前の「アカシアの雨」世代だから、「ぴったしかんかん」というわけではない。つまり、六十年安保おやじである。

  言いたいことは山ほどあるが、とりあえず全共闘世代なんてあまり過大評価をしないほうがいいとだけいっておこう。

2/7/2003

 

加藤弘一 ホームページ「ほら貝」から

「ミレナ」

斉藤憐作、佐藤信演出で、ナチスの政治犯収容所で死んだカフカの恋人、ミレナ・イェセンスカを主人公にしている。着眼はおもしろいし、アナクロな左翼新劇にならないように勉強した成果も一応あがっているが、結局のところ、全共闘世代の思考パターンから出ていない。  

ラーヴェンスブリュック収容所の記念館からはじまる。周囲の壁は百味箪笥のように区切られ、ここで死んだ女たちのハイヒールが展示されている。沈痛な表情のマルガレーテ(渡辺えり子)があらわれ、暗転。シュミーズ姿の女囚たちが踊りながら出てきて、記念館はそのまま1939年の収容所になる。マルガレーテがコートを脱ぐと、下は囚人服である。新しい女囚が到着し、振りわけがおこなわれるが、その中にミレナ(南)がいる。  

自由奔放で、結構したたかな「プラハの不良娘」、ミレナと、粛正された共産党幹部の妻として重荷を負っている生真面目なマルガレーテの関係は(登場する男たちがだらしないことも含めて)『OUT』の雅子と師匠の関係に似ているが、大きく異なるのはゲルダ(渡辺美佐子)という無学な農婦あがりの女看守がからんでくることだ。「庶民」のリアリズムを代表するゲルダからみれば、ミレナもマルガレーテも「食べるものに困ったことのない」インテリお嬢様なのである。  

反帝、反スタ、真の社会主義と無垢な「庶民」の信仰……いやはや、全共闘そのまま(苦笑)。  

ソ連とナチス、二つの収容所を経験したマルガレーテが全体主義を批判し、「恋」と快楽主義に希望をつなぐ単細胞ぶりは、胴長短足の女優たちのシュミーズ群舞同様、応対のしようがなかった。  

壁の下段の引出からカフカが登場して、「城」がどうのと独り言をいうのだが、意味不明。  

なんとも困った芝居なのであるが、唯一、南果歩のミレナはよかった。悲惨な現実をメルヘンに変えてしまう彼女の妖しげなコケットリーのおかげで、全共闘オヤジのぼやきで終わらずにすんだ。

 

 

 


新国立劇場