題名:

モンテ・クリスト伯         

観劇日:

04/7/27       

劇場:

アートスフィア   

主催:

文学座    

期間:

2004年7月22日 〜 28日     

作:

アレクサンドル・デュマ       

翻訳:

山内義雄 翻案:高瀬久男

演出:

高瀬久男           

美術:

倉本政典             

照明:

金 英秀             

衣装:

宮本宣子          

音楽:

斉藤美佐男 
出演者:
三木敏彦 関 輝雄 石川 武 高橋耕次郎 大原康裕 吉野正弘 瀬戸口 郁 若松泰弘 鈴木弘秋 内野聖陽 浅野雅博 松井 工 石橋徹郎 椎原克知 城全能成 亀田佳明 長谷川博己 南 一恵 塩田朋子 金沢映子 奥山美代子 岡 寛恵  佐古真弓 山田里奈 

 

  「モンテクリスト伯」


文庫本七冊という長大な大河小説の舞台化である。もともと新聞小説だったというから長いわけである。1844年八月から十七ヶ月間連載して毎朝読者が待ち焦がれた。簡単には辞められぬ。
エドモン・ダンテス(内野聖陽)21才が航海を終えてマルセイユに帰って来る。恋人メルセデス(塩田朋子)との婚約パーティの席上突然逮捕され、理由も告げられずに絶海の孤島イフ城の牢獄に幽閉される。神を恨み絶望に打ちひしがれるダンテス。その前にある日、ファリア司祭(関輝雄)が石壁を破って現れる。以来秘密裏に往来し司祭は持てる知識と知恵のいっさいをダンテスに授けようとする。脱獄を企てる中、病が重く死期が近づいたと悟った司祭は、地中海に浮かぶ無人島モンテクリスト島に隠された財宝の秘密を告げると静かに息を引き取る。ダンテスは司祭の亡き骸になりすまして海に葬られることで、ついにイフ城から脱出することが出来た。突然の逮捕劇から既に十四年の歳月がすぎていた。やがて、ダンテスはモンテクリスト伯爵と名のってパリ社交界に現われると、自分を陥れた者たちに次々に復讐をとげてゆく。
高瀬久男(脚色・演出)はノート四冊分を採り、一年かかって約三時間の台本にまとめたといっている。ストーリーの主筋を追うことに主眼を置いた労作である。ナポレオンの書簡を巡って緊張する当時の政治情勢やファリア司祭との問答の中で展開される宗教観や人生観に目配りする余裕はなかったとしたものだろう。
しかし、いくつかの不満が残る。
第二幕第一場モルセール伯爵邸のパーティで、関係者の既に成人している息子や娘の紹介を一気にやってしまったことだ。オールキャストが舞台狭しといるなかで、どれが誰の息子で、誰の娘と恋仲だなど覚えきれるものではない。二代にわたる仇敵への怨念と復讐の周到さとを強調するために、ここは例えば一組づつ舞台に登場させるとかそれぞれに焦点を当てて印象づける工夫が必要だと感じた。
もうひとつ。二幕目のメルセデスとの再会があっさりしていたこと。メルセデスが息子との決闘をやめて欲しいと申し入れに来るところだが、観客の興味はそこにはない。この二人が互いの愛情という問題にどのように向き合い葛藤し、いまここにいるのか? 観客は一種の愁嘆場を期待しているのである。確かに二十三年もたってはあまりにも昔話で今さら話すこともないという考え方もあろう。しかし、一幕であれほど愛し合った仲だけに観客にとってはここでなんらかの心の決着をつけておきたいところである。
この場面の内野聖陽があまり繊細な演技をしないということもこの印象を作った原因と言えなくもない。元来こう言うシーンは苦手のひとなのだ。
ついでだから内野について言うと、一幕目はたいしてむずかしい表現もないからいいとして、二幕目になるとこの人の欠点が見えるようになる。
役者には器用、小器用、不器用の三種類しかいない。不器用だからダメというのではない。不器用で看板スターと言われる役者はたくさんいる。仲代達矢などは最たるものかも知れない。内野はこの不器用である。ただし不器用のままでいいということはない。
腸が千切れるほどの憎しみと恨みが底にあるなら、二幕目は人が変わったように酷薄さが加わらなくてはいけない。そして復讐へのかすかなと惑い、本人は溢れるほどそう思っているのだろうが、それがうまく伝わらないのは要するに表現力の問題なのだ。
例えばメルセデスとの再会のシーンにも通ずるところだが、復讐のために利用しようと金で買った奴隷、実は王族の裔エデ(山田里奈)とのやり取りも何やらぎくしゃくするものを感じさせた。つまり、エデにたいしてこれからは自由意志で行動してよいと告げに来る場面だが、エデはあなたに束縛されたいと意外なことを言う。この時ダンテスすなわちモンテクリスト伯の心におきた出来事はおおよそ次のように推量される。まず自分の言が理解されてないと思う。つぎにエデは本気だとわかる。そして、それが自分に対する好意だと悟る。受け入れられるはずもないと困惑する。しかし、怨念と復讐で渇ききった心に熱いものが染み入ってくるのを止められない。大急ぎでそれを否定しようとするが、深い心の闇に幽かな明りが灯るのを感じて、自分にもまだそのような気持ちが残っていたのかと得心する。器用な役者、文学座関連で言えば角野卓造、橋爪功らならば、この心理的な変化のひとつひとつに身体表現をつけられるだろうが、内野にはできない。終幕エデを伴っていづこかへ立ち去る場面の重要な伏線をなしているというのに。
僕は何本も彼の芝居を観てきたが、この不器用という印象はいまも変わらない。
とはいえ、映画やTVではどうも人気があるらしい。「内野聖陽−ビジュアル系新劇俳優の誕生」と題して、演劇評論家小藤田千栄子が書いている。
「・・・シャープで端正な二枚目の登場に、私たちはすごくビックリしたけどでも周囲では、誰も彼の名前を正確に読むことはできなかった。・・・誰も<まさあき>とは読めなかったのである。なさけない。・・・これは分類すれば、かなりの汚れ役でもあり、文学座って、こんなに美しい人を、こんなにも汚してしまうんだわとビックリしたのだけれど、ちょっと難しいセリフの積み重ねを見事にこなして、やっぱり新劇の人なんだわと、妙なところで感心してしまったのだった。・・・」
とりあえず久しぶりに女言葉で書く文章に感心してしまったが、これは評論というよりファンとしての臆面もない賛辞ではないか?つまりは美男の新劇俳優と思われているのだが、こう言う感性が、「ヨン様」ブームをつくっては消費していくのだからあまり当てには出来ない。
 毎日新聞の高橋豊は再演を前に次にように書いている。
「内野は、前半に不条理な入獄に対する苦悩、後半に復讐を着々ととげながら「目には目を」の報復だけでは律しきれない人間性溢れる苦悩を、しっかりと表現した。かつての恋人が、モンテ・クリスト伯の後ろ姿からダンテスその人と気づく場面があるが、内野は後ろ姿を含めて華があり、スケール大きく主人公を演じきった。
 内野が所属する文学座の舞台に出演するのは、「モンテクリスト伯」初演以来、三年ぶりとなる。この間、「ブルールーム」「ペリクリーズ」など外部の話題の作品にでたほか、帝劇の東宝ミュージカル「エリザベート」同「レ・ミゼラブル」がやはり目立つ。新劇で数少ない大劇場で観客を集められる俳優なのだ。」
「新劇で数少ない・・・俳優」と帝劇のことをいっているなら他のスター級が大勢いる中のひとりなのだから言い過ぎである。ただ、確かに僕が観たアートスフィアは満員で、客席の九割方は女性であった。高橋学芸部員としてはあたりさわりなく「初演はなかなかよかったよ。」といっているだけだからいいが 「華がある」というのはどうにも賛成しかねる。
不器用で華があれば、加藤剛になれる。内野に華があれば、今どきのTVプロデューサーが放っておくはずがない。そこが難儀なところだと思うのである。
内野の決定的な欠点はあのよろいを着たように硬い身体にある。歴史劇の古武士なら適役だが、ガラス細工のように繊細な神経の悩める現代青年などはとてもあの硬い身体にこもっていると思えない。昔、劇団民芸の役者に聞いたことをいまでも覚えている。どんな稽古をするのかという問いに彼はこう答えた。
「我々の身体は皮衣である。中が空洞の皮袋と思えばいい。僕らはその袋の内側に一個のボールがあると想定し、そのボールが袋の内側を伝ってつま先から頭へらせんを描いて登っていき、そしてまたゆっくりと降りてくる。外から見たら身体がくねくねしているだけだが・・・」
さしずめ内野にはこれをお奨めしたい。そして、本当の意味の新しい時代の新劇の俳優になってもらいたいと思う。
内野についていささか長すぎた言を労してしまったが、最後に演出の高瀬久男に一言。
三木敏彦(モレル役)の声がでかいのは致し方ないが、高橋耕次郎(ダングラール役)も張り上げるので、他の役者とのバランスを欠いた。関輝雄(ファリア司祭役)の声は、この革命家であり、哲学者、宗教家でもある魅力的な人柄を表現するにはほど遠く、老人であることは確かだが身体よりも性格が弱すぎた。若い俳優たちは活舌が悪く、発声法もあやしかったが、教育はどうなっているのだ。このような声の調整もアンサンブルを作るうえで演出の重要な仕事であろう。
この芝居は内野聖陽主演、高瀬久男演出で何をやろうかという話から始まったらしい。内野なら客を呼べるというスターシステムに乗ったようだが、こう言う時代だから文句は言わない。栗山民也がハムレットの「演劇は時代を映す鏡である」と言う台詞を引いて新国立劇場の演目テーマを考えたといっているが、栗山の真意は演劇を作るには時代認識が前提として存在すると言うことである。「新劇」はそのことから始まったが、七十年代になって否定された。まあ、やりたいものをやればいい、というわけである。その意味では栗山は珍しい存在かもしれない。ただしハムレットがいうように結果は鏡に映るのである。波乱万丈の物語を三時間、たっぷり楽しむことは出来たが一体どんな時代が映ったのか?僕の鏡は残念ながら曇っていて、そこに何かしらの像が存在するのかどうかさえわからずじまいだった。

    (2000年8月4日)


新国立劇場

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