題名:

眠り姫

観劇日:

2005年5月14日

劇場:

下北沢タウンホール

主催:

     

期間:

 

作:

山本直樹

演出:

七里圭

美術:

撮影/高橋哲也

照明:

    

衣装:

 

音楽・音響:

侘美秀俊

出演者:

つぐみ+西島秀俊+山本浩司+大友三郎+園部貴一+橋爪利博+榎本由希+張替小百合+横山美智代+五十嵐有砂+馬田幹子+坂東千紗+鶴巻尚子+斉藤唯+北田弥恵子+新柵未成
 


「 眠り姫」

これは映画に生演奏がプラスされた公演である。演劇ではないから「徒然雑記」にしようと思ったが、分量が多すぎた。映像と音楽で作られたパフォーミングアートといえる作品なので、あえてこのページに感想を書くことにする。
山本直樹の同名漫画が原作だという。
漫画は「BSマンガ夜話」(NHKーBS不定期放送)を見てその動向を確かめているが、いらいらするから全く見ない。電車でいい歳の男が夢中で読んでいるのを見るとうしろから一発食らわしたいという衝動を覚えることがある。
とは言え、世界中で日本のコミックが売れているらしい。理由は解らないではないが、手放しで喜んでもいられないと思っている。年をとった証拠か?
興味があったので、どんな漫画か探してみた。昔の竹久夢二や林静一のような大人びた美少女が出てくる退嬰的で官能的な香りのする絵かと想像していた。どこの本屋にもこの作者のものはあったから売れているのだろう。ビニールでまかれて中は見えないが表紙絵は、いわゆるロリータ・コンプレックスというのか、今日的な言い方だと「萌え」的な感じのものである。買ってもよかったが、年ごろの娘がいるからこんなものをそこらにおいておけない。こんなに子供っぽいとは意外だった。
山本直樹は内田百間の「山高帽子」という小説をもとに漫画を書いたのだという。小説は青地という教師(百間自身らしい)と、芥川龍之介と思われる教師、野口が登場する。パンフレットによると「この二人が話題にするのは、幻聴や錯覚にまつわる数々のエピソード。すでにそれが妄想的とも言える、日常を通して、"ぼんやりした不安"が語られる。芥川の遺書にあるその言葉のように、えたいの知れない、不思議な短編小説だ。」
漫画はこの青地を女に置き換えた。女にしたことでますます妙な雰囲気が醸し出されたのだろう。「いくら寝ても、寝たりない。」「記憶とも妄想ともつかぬ、奇妙な夢。」「そこはかとない、現実への違和感が、青地の心を占めはじめる。」こう言うことなら確かに女の方が良かった。男はこう言いながらどこかで覚醒している。
それがとりあえず、漫画の世界らしい。
これを監督の七里圭が映像にした。
青地(つぐみ)も野口(西島秀俊)も登場するが声だけである。
「この映画が映し出すのは、ありふれた日常の、ありえない光景。そこには人間が、ほとんど姿を見せないのだ。誰もいないのに、気配がして、声がさざめく。それは恐ろしいほど美しい心象風景。冬の淡く移ろう光を狙い、足掛け二年の歳月をかけて撮影された映像詩が、人を写す以上に、人の孤独を、情感を浮き彫りにする。」
実際、映画を見るとこれ以上に付け加えることは何もない。
ただし、人の孤独と情感を浮き彫りにするという割には、全体として映像が平凡で情緒だけが過剰であり、その切々たるものが身に迫ってこない。
冒頭、枝の過密な街路樹の上が次第に明るくなる様子をリアルタイムで映し出す。なんという退屈な幕開けかと思ったが、ここは夜と朝の間の気だるくとろりとした時間感覚をうまく表現していた。
続いて部屋とおぼしきところに朝日が逆光で差し込んでいる。薄暗い中を人影が動いて、トイレの水音がする。重ねて青地の独白。「今出たトイレに誰かいるような気がする・・・」
この女の声が映画を見る観客の視点を決定づけた。
顔の長い同僚、野口や「彼氏」(山本浩司)など数人が登場して完ぺきなお芝居をするのだが、何故かカメラがそれをまったく捉えていない。声はするが姿がないことによってこの映画は青地が一人称で語るものと印象づけられる。というよりは、青地が中学講師であることが、何程の意味もない以上はむしろ、つぐみという女優の目線、あるいは身体と生理に基づいて映画が語られるという構造というべきかもしれない。
最初の印象ではそうだが、進行しているうちにつぐみの存在すら希薄になってくる。七里圭は、女優の心象風景という名を借りて実は自分の中の「孤独」を映像にしたかったのではないか。
彼が用意した映像を思いつくままに並べると、
「安アパートの前を歩く猫」「住宅街の崖についた真ん中に手すりのある階段」「大手町か何かオフィス街の誰もいない光景」「屋根と屋根の間からのぞく満月の前を流れる雲」「がらんとした教室」「人のいないレストラン」「誰もいない部屋でファックスから出てくるプリント」などである。
これらは彼がグラフィックデザインを学習したことがあるかもしれないと思わせる程構図がしっかりしている。この構成は硬質で論理的で、フェミニンな感覚などほとんどない。少なくとも原作にあったはずの「萌え」的な要素とは対極にあると言っていいかもしれない。
ぼくはなぜ生身の人間の姿を画面に入れなかったのか不思議に思った。
とはいえ、考えてみると、あのキャラクターを女優にやらせることには僕自身も違和感を覚える。 つまり「萌え」的なエロティシズムとは、バーチャルな身体性に根ざしているもので、現実の肉体とは位相が違う。
七里圭は原作に触発されたという事実を尊重して、あえて映像から俳優の身体を排除したのである。
しかし、そのことによってますます原作から離れ、まるで彼自身のアイデンティティ探しの旅のように見えてしまった。
しかも、それを彩る映像は古本屋の写真集のコーナーでいくらでも見つかる構図の風景である。そのありふれた風景はそこに写された現実が虚構であることを示している。「大手町のようながらんとしたオフィスビル街」はある種の情感をかき立てるが、次の瞬間その「情感」は「そのような」記号として陳腐化され、意味は漂白される。
七里圭は、「虚構」を十分承知しながらいわば陳腐な映像を重ねることによって、「虚構」すらもむなしい=つまり自分の居場所がそこにないと感ずる自らの心象風景を語りたかったのに違いない。
この心のありようを印象づける映像があった。
どこか郊外に向かう電車の中。車両の最後尾の低い位置にすえられたカメラに写るのは、誰もいないがらんどうの電車の車窓から後ろに流れていく雲や空や木々である。前の車両がカーブするときだけ視線の奥がわずかに横に動く。
天動説である。視点は動かず周りの光景だけが通り過ぎていく。
ポール・ヴァレリーのあるエッセーの中に、オランダから帰る夜汽車の暗い車窓に写る自分の顔を眺めてデカルトのテーゼを思い出す有名な場面があるが、七里圭が描いた映像の視点の場所に「我思う。」我は存在しない。天動説でありながらその中心には誰もいない(少し比喩的な言い方をすれば、超越的なあるいは大沢真幸が「第三の審級」と呼んでいる存在というか)という不思議な光景を描いて見せたのだ。
バーチャルな身体性という衝動を契機に描いた映像は、その置き場所さえないという、現実によって、七里圭や僕たちを取り巻く時代がいかに生きにくいものか、(つまり身体性を回復するという意味で)をあらわにした。
少し大げさに言えば、この表現によって七里圭の非凡な才能を認めたい。
しかしながら、前の劇評(「屋根裏」燐光群)で引用した木幡和枝のエセーを思い出して言うのだが、困難な時代にこそ問題には粘り強く取り組むべきである。
木幡和枝は自分が土方巽の"言葉による舞踏の書"「病める舞姫」の翻訳をしていると切りだした。なつかしい名前を見て彼女は、いい仕事をしていると思った。
僕は土方巽がどんなときだったか忘れたが「自分の中にはしご段を下ろして、そこにある水を飲んでみる。」といったことを覚えている。あたかも自分の身体の中に暗闇の空洞があってその底に下りていくイメージが鮮やかに浮かんで、舞踏という表現が思想と直結していることを思わせた。
この自分の身体を突き抜けた暗闇から「他者」が立ち現れ、その向こうに「世界」が回復するのだと僕は今でも信じている。
七里圭の長い旅が、雪の降り積もった人気の無い校庭の映像で終わりを告げるように見えるのは、喩えそこが明るく晴れ渡った空の下にあろうとも、問題になんの解決も与えはしない。
そのような甘さを露呈するからこそ土方巽の言葉を引用したくなったのだ。
音楽を生演奏でつけてくれたカッセ・レゾナンド、とりわけ作曲をした侘美秀俊の才能には驚嘆した。音楽の割合が少なすぎる。七里圭はもっと音楽の力を信じるべきである。
タイトルを忘れてしまったが80年代にレーザーディスクに収録された5人の作家による音楽と映像のオムニバス作品があった。迫力と説得力という点で参考にしてもらいたい。
学生時代の友人に誘われただけで、この公演の背景や作った人たちのプロフィールにはまるで知識が無かった。(いまでもそうだが。)ここに集まっていた若い人たちには不思議と生活感が感じられず、いよいよ日本にも新しい豊かな階層が生まれつつあるのかという気がした。
たまには、こう言う「前衛」に接するのもいいものである。
     

          (2005/6/1)

                                                                                        

 


新国立劇場

Since Jan. 2003