題名:

ノクターン・維新派

観劇日:

03/9/12

劇場:

{新国立劇場劇場}

主催:

新国立劇場     

期間:

{期間}2003年9月8日〜21日

作:

松本雄吉   

演出:

松本雄吉  

美術:

田中春男     

照明:

吉本有輝子    

衣装:

維新派衣装部    

音楽・音響:

松村和幸     

出演者:

森正史 春口智美 木村文典 岩村吉純新田ヒロユキ  山田光芳 石本由美 坊野康之 石黒陽子 藤木太郎   大岸孝行 田中慎也 升田学 エレコ中西 鹿田大樹 栃下亮 小松敏夫 早乙女憲  他
 

 

「ノクターン」

 維新派の名は、たまに目にすることはあったがそれがどういうものかは知らなかった。「白塗り」と言うことは舞踏・派か?その程度の知識である。
ところがパンフレットは熱烈な賛辞で満ちあふれていた。
 社会学者宮台真司は「・・・そして、すべて最高だった。興奮した。酩酊した。眩暈した。力が降りた。『縦の力』が。」という。彼にしては珍しく高揚しており論理的でない言い方だ。人間関係や社会的な関係の中で拒絶されたり承認されたりするのが『横の力』とすれば『縦の力』というのは、「世界」と直接向き合う力だと言うことらしい。「身体を人形みたいに提示するのは寺山修司に近い。だが維新派のほうがダイナミックで五感に訴えかける。身体性を前面に出すのは山海塾や大駱駝館みたいな暗黒舞踏に通じる。だが維新派は、隠された身体性でなく染みついた身体性(行進!)を前面に出す。」と言うのが宮台の比較論で、これなら維新派がどんなポジチョンか分かりやすい。
 「この新諸国維新開拓移民団(以下「維新派」と表記ス)は、団長・松本雄既視(正式名「雄吉」)のもと、セカイ的レベルのエンゲキ行為を連綿と持続させ、有機と無機、コントンと整然、可逆と不可逆、ナノとマクロ、憂愁と狂騒などが渾然一体となった、十億より遠く、知覚より近いウチュウの本質に深く関わる既視感と既死感に満ちた、超現実的で弔現実的なナニカを絶えず現出せしめてきた。・・・」とよく解らない賛辞を書くのは少年王者館主宰のアマノテンガイと言う人物。
 桃園会主宰の深津篤史は(と言っても僕は全く知らない)「松本さんのこと」と言う文章を書いて次のように締めくくる。「・・・感想とかはめったに言ったことがない。いつもぼんやり見ている。目まぐるしく動く人、装置、空間を覆う人の声、リズム、空の深さ、闇の深さ、私はぼんやり見ている。夢は腰を据えてみるものではない。屋台の隅っこで松本さんが塩を舐め舐め飲んでいる。私もお相伴させてもらう。無粋なことを言うつもりはない。が、どうしても一言、「良かったです」と私が言うと、松本さんはひどくカイ(かゆいの大阪弁、筆者註)そうな顔をして笑う。」
 「・・・そこまで答えて私は言うのを止めた。維新派の舞台が言葉で説明できるようになって、人に伝えられたらあかん!と言う感覚になったからだ。」と書くのは「リリパットアーミー?」主宰のわかぎゑふ(女の人かな?)。
 小説家で舞踊評論家の乗越たかおという人は、次のように書いている。
 「維新派を観にいく・・・それは不測の事態までも含めたすべてを体験する旅である。劇場前のヤミ市のような屋台村で妙にうまい料理や酒をかっ食らう事も、焚き火の前で某有名ミュージシャンの歌を明け方まで聴くのも、どこぞでうたた寝していた女房が翌日とても香ばしくなっていることも、すべてを含めて維新派なのだ。」
 野外で行う演劇のようなパフォーマンスというのか、僕にもどう説明してよいか解らなかったので、取りあえず冒頭に掲げた舞台写真で想像をたくましくしていただくことにした。通常、空き地や野原に映画のオープンセットの様な巨大な町割り、建造物などを作ってやるらしい。だから屋内という条件では、そのスケールの大きさ、曇天であったり、風が吹いたり都会の喧騒、近くの物音が聞こえたりという背景がそがれるので維新派本来の表現とはかなり違うことになる。まして屋台村がでて食べ物の匂いが漂うとなると、これはもうサーカス小屋か祭りの中の興行に近い。宮台真司は東京から大阪の港や奈良の山の中まで観に行くのを「とにかく遠い。しかし、行こうと決めたときからそこにたどり着くプロセスまで含めて維新派を見る行為なのだ」といっている。地下鉄で苦もなくたどり着くのでは面白さはかなり割り引かれるのである。それをどうしても国立劇場に持ってきたいという栗山民也の熱情を今回は高く評価したい。今度維新派のうわさを聞いたら出かけてみようという気になった僕のような観客が何人か生まれたはずだからだ。
 さて、幕が開くと意に反して薄暗いがらんどうの舞台に柱が何本かあり蒸気が立ち登る中、中国語で言い合う5〜6人の一団が走り回る。どうやらそこは大きな下水道の中らしい。水の滴る音、水を踏む音がこだまする。別のおびただしい人間がリュックを背負い薬缶をぶら下げトランクを持ち、まっすぐ前を向いて舞台上手から下手へ行進する。アメアガリ、ミズタマリ、ツキアカリ、ヒトリキリ・・・言葉は不思議な音のリズムに乗って、誰か一人が発する声に群衆が呼応し合唱反復される。維新派が「ヂャンヂャン☆オペラ」といっているものである。なにか意味のある言葉ではない。ごろ合わせなどでもない。韻を踏んでいるかと思えば、不意に無作為に言葉の世界が移動する。子どもが意味もわからず、自然に口をついて出てくるコトバを話しているようなものである。これが実に心地よい。
 音楽は、物語を通じて十のテーマを奏でる。それぞれのタイトルを並べてみると、このパフォーマンスの持つイメージが浮き上がってくる。「みを」「はこぶね」「みずたまり」「なみおと」「すなどけい」「みずうまや」「うなばら」「うたかた」「みなかみ」「みずのを」。松本雄吉のコトバの感覚は、漢語が伝わるはるか以前のわれらが祖先の話し言葉のように自然でやさしい。既視感=デジャヴと誰かがいっているものかもしれない。ただし、ものがたりがこの「なつかしさ」の方向へ限りなく誘うように進行するかと思えば、そうはいかない。「現実=うつせみ」が揺れる水面(みなも)に映っては消えるように、心に障る事々があらわれ、僕らは立ち止り戸惑いなにかが違うという思いにかられるのである。
 開幕の下水道のシーンで、やがて登場する少年が浮浪者らしい老人のトランジスタを奪い、そのラジオから流れる「ブラジル移民のニュース」に導かれて不思議な旅に出る。少年はいつしか老人の若き日のシンイチロウとなり、眼鏡の少女カナエと出会って、老人とともに彼の過去への道をたどりはじめる。
 舞台の両袖からいくつかのあばら屋が運ばれ、立ち並ぶと人気のない海辺の町になる。少年とカナエが迷い込む追憶の家並とでも言おうか。それが跡形もなくなくなると次には盛大な音を立てて、板葺きに丸石を乗せた貧しい家々が舞台狭しと出現する。中には竹林の植え込みに囲まれた瓦屋根の家があったり、ドブ川らしき堰、汚れた壁、望楼などが見えたりして、これは僕らが少年の頃暮らしたありふれた街のつつましくなつかしい風景である。観客はこの集落を見下ろす土手の上にでもいるように俯瞰している。そこへ家財道具を満載した大八車をひく一団があらわれ、動き回ったり、子どもが屋根の上を走ったりとか言う騒ぎの中、大風が吹いて木々が揺れ嵐が去るとやがて集落は解体される。そして、何もないところに畳み一畳分ほどの箱がいくつか運ばれ、その狭い空間に蛍光灯を灯して中国人が入り込むというやや象徴的なシーンが登場する。僕らがマンションと言っている住まい方のおかしさを思わせるものだ。ここまでは地味な色彩だが、突然「満州」にところが移ると真っ赤に塗られた城門にロシア風や日本風の建物、看板・・・と派手な色彩の町並みが現れる。酔っ払いに嬌声に街の喧騒とにぎやかで混とんとした国際都市の趣である。やがて、いっさいの装置はなくなり、ホリゾントの奥へ奥へと雲が流れると、ロシアの広大な草原の涯に小さな家があらわれる。少年はその家を目指して進むのだが・・・。
 このように、舞台の袖では、バラックや巨大な城門、町並み大小様々の箱などが所狭しと並べられて登場を待っている。このパフォーマンスの「装置」が広い空間に一挙に置かれた場合、観客はどのようにそれを観るのであろうか?その違いは大きそうだ。しかし、これはこれで楽しめる。基本的にはコトバと情景というふたつの詩的要素で成立している芝居だからだ。始原的なコトバの世界と湿っぽく生暖かい空気の中に浮かぶ風景、一種眩暈を覚えるアジア的混とんとでも言えばいいのか、、それが維新派の描く詩でありイメージなのだ。これを東京を背景にやってはいけないと思った。この中には十分すぎるほどの文明批判(ここを書くべきかどうか迷って、結局書かないことにした。)が込められているが、それが妙に理屈っぽくならないのは関西を拠点にしているせいではないか。東京には空疎な分析家が多いからということもあるが、近ごろは気候風土を敵に回して嘘で固めたような鉄骨とガラスの高層ビルばかりで、維新派にふさわしい背景などどこにもなくなったからである。
 「アジア的ケイオス、われらが生きてきた自然、還るべきなつかしい風景」それが維新派を見ながら僕の脳裏に浮かんだ言葉である。
 それにしても僕にはとても不思議なことがある。それは、出演している30人前後の役者たちがみな若い事である。そのほとんどが二十歳台。劇団創立が1970年というから、その時の若者は50歳代のはずである。皆どこへ行ってしまったのだろう。
 「松本雄吉との一問一答」のなかで、「維新派って何?」という問いに彼はこう答えている。「松本雄吉に関わってしまった人たちの人生の、とある季節。」
 とすればこの若者たちには、いまがその季節にちがいない。やがて年を重ね季節が終われば劇団を去っていくことになるのか?しかし、それも何だか妙な気がする。
いったい、松本雄吉とは何ものなのか?

 

                               (2003.10.17)

 


新国立劇場