名:

オトコとおとこ

観劇日:

06/6/30

劇場:

文学座アトリエ

主催:

文学座      

期間:

2006年6月17日〜7月2日

作:

川村 毅 

演出:

高橋正徳 

美術:

乗峯雅寛    

照明:

金 英秀     

衣装:

中村洋一

音楽・音響:

原島正治 

出演者:

金内喜久夫 小林勝也 鵜澤秀行 高瀬哲朗 岡本正巳 中村 彰男 加納朋之 瀬戸口 郁 古川 悦史   櫻井 章喜 植田真介 細貝弘二 清水圭吾 西岡 野人 上川路 啓志   柳橋 朋典 桑原 良太 赤司 まり子 富沢 亜古   松岡 依都美 岡崎 彩

 
                               
              
               

   


「オトコとおとこ」

文学座アトリエは、信濃町にある今どき珍しい仕舞た屋風の木造建築である。その中の四角い空間を対角線上に真ん中で仕切り、半分をゆるやかな階段状にして二百ほどの客席をつくった。中心に壁のある回り舞台、それを取り囲む同心円の一段低い回り舞台と二重の動く舞台が自在に回転して、場面を転換したり役者の出捌けに使われる。

生涯を通じて全く接点のないふたりの男の物語が同時に進行するという時空を超えた展開を表現するのに誠に都合のいい装置である。美術の乗峯雅寛は狭い空間を生かしてテンポのいい場面転換を可能にする舞台をつくり出した。舞台裏でこの二重の円形装置を手動で回した裏方も十分稽古を積んだと見えて、この転換は褒められるべきいい出来だった。

全く接点がないといっても話の発端は、二人の通夜の晩のことである。北山健三(小林勝也)は日の丸航空を定年退職後しばらくしてこの年、2003年に亡くなった。明かりが入ると、北山の元同僚三人、篠田(加納朋之)桜庭(古川悦史)相川(瀬戸口郁)が故人行きつけの焼鳥屋で思い出話にふけっている。「それにしても北山さんは実にうまそうに酒を飲む人だった。」そこへ、喪服の黒ずくめは当たり前だが、黒いつば広の帽子に黒めがねなど、どこか裏社会の人間とおぼしき男三人が現れる。互いに同じ通夜に出たものと思って一同は故人に恭しく献杯し、在りし日の姿を語り始める。

ところが、話しているうちに妙な具合になってくる。実はこのやくざっぽい三人がやってきたのは、亡くなった彼らの知人、野崎夏男(岡本正巳)の通夜だった。「故人は三井三池の闘争に参加した」など、何だかお互い話が食い違っていることに気付いた途端、時間は一足飛びに60年安保の時代へさかのぼる。

ここから北山健三と野崎夏男の、同世代だが際立って対称的な半生が、戦後史を背景に交互に語られることになる。

北山の勤めた日の丸航空とは、日本航空がモデルである。60年安保の時代は政治の季節、労働運動も激しく、日航の組合もまたたびたびストライキを打った。北山は組合運動に関心がない。同僚が貼ったビラをはがしても罪の意識など全く感じない男である。かといって恨みを買うような性格でもない。要するに悪意や出世欲があるわけでなく目の前の仕事以外には、興味をもたないという男であった。当然安保が批准されようと、労働運動が挫折しようとそれは自分の外の出来事であり、およそそうした物事に高揚するということがなかった。

同僚は、はちまきを締め管理職と対峙した。こぶしをあげ、「インターナショナル」を合唱しながら隊列を組んで社内を練り歩いた。(起て! 餓えたる者よ 今ぞ日は近し 覚めよ我が同胞 曉は来ぬ 暴虐の鎖断つ日 旗は血に燃えて 海を隔てつ我等 腕(かいな)結びゆく いざ闘わん いざ! 奮い立て いざ! インターナショナル 我等がもの

聞け! 我等が雄叫び 天地轟きて 屍(かばね)越ゆる我が旗 行く手を守る 圧制の壁破りて 堅き我が腕(かいな)ぞ高く掲げん 我が勝利の旗 いざ闘わん いざ! 奮い立て いざ! インターナショナル 我等がもの)

劇中この歌は何度も繰り返された。作家が戦後史の前半を象徴するものと考えたのかも知れない。

やがて会社は第二組合設立を画策し始める。ある日北山は、上司の米沢(金内喜久夫)についてこいといわれて福岡支店に向かう。米沢は部下を組合つぶしに利用しようとしていた。ところがその途中とんでもない事件に遭遇する。乗り合わせた飛行機が赤軍派に乗っ取られたのだ。この様子は生々しく舞台に展開される。金浦空港に着陸したときに北山が目ざとく米軍機を見つけ、犯人にバレてしまうという叫ぶシーンなど当時の緊迫感が伝わってくる。このあと山村新治郎運輸政務次官が一人身代わりの人質になって、北山たちは解放される。(平壌に降り立った山村は「男一匹新治郎」などといわれたが、実際は足が震えていたという説もある)北山がお人好しぶりを発揮して犯人に同調的な発言をしたことが問題になったという後日譚がおまけのように語られる。

一方の野崎夏男であるが、この男の登場の前に二つほど60年代半ばの世相を表すエピソードが描かれる。一つは芸術表現としての「ハプニング」である。白衣にマスクをした異様な集団が銀座に現れ、突然掃除をはじめるのである。しかも歩道にぞうきん掛けという無意味な行為を一種の思想表現と強弁する。まあ誰にも迷惑がかかるわけでもないから警官(金内喜久夫)もご苦労さんと通り過ぎる。既成の概念をこわすのが芸術の最先端とされた時代である。

もう一つは、京都の自主上映を行っている会館での出来事。フイルムが盗まれて上映出来ないという映写技師に、これは何かの陰謀だと男がつかみかかる。するとそれが合図のようにそこいらにいた客が暴れ出し、たちまち怒号と殴り合いの修羅場になってしまうというもの。きっかけさえあればはけ口を求めていた不満が噴出してくるという危険な予感が当時の世相には潜んでいたのである。

それだけの準備をしておいて、野崎夏男が登場する。

「殺してやる!」激しく叫ぶ野崎を安田(上川路啓志)がなだめすかしてつれていったのは、あの通夜の晩に焼鳥屋に現れた男の一人、実は映画監督の植松(櫻井章喜)であった。植松はこわもてのする男で、何故かいらだっている。安田が紹介するや否や「なんか書けんのか?書けるなら持ってこい。」という剣幕に野崎はすぐに反応する。「書きます。」殺してやるというのは半分本気、半分はまあ単なる口癖だったのか?こうして野崎は自分の中にくすぶっていたいわば時代に対する憤怒を叩きつける格好の的を発見、映画の世界へと足を踏み入れるのである。

植松の映画は、あえていえば暴力とセックス、アナーキーで反権力、これを低予算、短期間で作り上げるというもの。

ロケ場所は公園のトイレ付近、なるべく早朝と決まっている。設定はどこだろうが、塀に「居間」と書いた紙を貼り付けて、ベンチを置いたらそこは半裸の男と女がからんでいい場所になるという。植松は夜明けまで飲んで朝必ずトイレに行くからだという理由である。

理屈はいらないというが、当時流行ったアンドレ・ブルトンの「ナジャ」などを持ち出して、いっぱしの映画理論を語ったりする。シュールレアリスムだのダダイズムだのといえば、とりあえず通用するよい時代だったのだ。こういうところが魅力なのか、あの通夜に連れ立ったあと二人、演出家の鶴木(植田真介)と小説家の瀬川(中村彰男)が取り巻きとしていつもいる。

おかしかったのは、この植松が「殺してやる!」といっている映画監督がいた。大山(鵜澤秀行)はパイプなど吹かしてしゃれた格好で監督然としているが、何だか鼻持ちならない男である。ところが、大山の前に出ると互いに敬遠している様子がありあり。どうも映画関係者はこういう風に口ほどにもなくねじくれた性格だと思わせる。

ところですぐに分かってしまうが、この植松は、明らかに若松孝二をモデルにしている。若松孝二は、昭和11年宮城県生まれ、高校を中退して東京に出てさまざまの職業を転々とするが終いにはやくざになる。やくざの次は映画監督、プロデューサーになった。こわもてするはずである。小生意気そうなもう一人の監督、大山のモデルは大島渚。「殺してやる!」は、当時夜な夜な新宿ゴールデン街で展開されていた剣呑で、しかしありふれた場面の再現である。ここいらは笑いが込み上げてきて、こらえるのがたいへんだった。

若松孝二は、多数のマイナーな映画を作ったがそれなりにファンはいた。なにしろ女の裸に暴力と反権力である。げんなりするようなタイトルで、見ても面白くない。しかし、マニアは大勢いた。たいした映画ではないが小難しい批評をするものもいて、新左翼のあいだでは概して評判が良かった。類は友を呼ぶで、大島渚もアートシアターギルドを中心に似たような映画を作った。ポルノまがいはやらない(後年「愛のコリーダ」を若松プロで作った)が、暴力に反権力、理屈っぽくて面白くもないという点ではほぼ一致する。

野崎夏男が書いて、何本か撮った頃、植松は突然カンヌへ行くと言い出した。カンヌでゴダールと話をするというのである。いってみるとゴダールはパレスチナへ出かけていて会えない。それを聞いて、暴力と反権力の植松としてはピンときた。パレスチナゲリラこそ強大な権力に抑圧されるもの、そしてそれに抵抗するものの象徴ではないか?ゴダールに先を越されてなるものかといきり立つが、実は映画資本はユダヤ人が牛耳っていると聞かされる。パレスチナ側から撮ったものはたとえゴダールといえども上映は出来ないだろうというのである。植松にとっては願ってもないことだと、野崎夏男の手を引いていきなりパレスチナに飛んでしまう。(このときの植松のフランス人記者との珍妙なやり取りには腹を抱えて笑った。)

撮影の許可が出ないままゲリラの訓練を見て一週間がむなしく過ぎた。その最後の帰り支度の最中に半日だけの撮影が許され、夢中で撮り終えて引き上げると、翌日イスラエルの掃討作戦でフイルムに写っていた若者が全員殺されたことが分かった。彼らはそれを知っていて、撮影を許したのであった。

野崎の中で新たな憤怒の対象が現れた。自分はパレスチナに残ると宣言して、植松の前からゲリラのキャンプ地に戻っていく。野崎という生き方にとって映画とは何程でもなかったのである。

ここでまた、僕らはああそうか、野崎のモデルは足立正生だったのかと気がつくのである。映画「赤軍―PFLP世界戦争宣言」をきっかけに(71年)足立はレバノンで重信房子らの日本赤軍に合流し、2000年に強制送還されるまで中東で活動した。ただし、この芝居と違って現在も足立正生は生きている。

一方北山健三は出世とは無縁にサラリーマン生活を送っていた。会社の制度を利用してハワイへの家族旅行を計画していると、出発の前の晩にダッカで日本赤軍による日航機ハイジャックが起きる。北山は自粛せざるを得ないと判断するが、すでに周囲に言いふらしている妻(富沢亜古)は承知しない。やむなく同僚に頼んで熱海の会社の寮を一週間借りることにしてことをおさめた。遠く野崎の人生と微かに触れ合ったと言うことも出来る。

そして、いっぱしスチュワーデスとの淡い恋模様などもあり、三里塚の熱い戦いも済んでついに成田が開港することになり北山は新空港転勤が決まった。ところが北山は成田に行かなかった。日航機墜落事故が起きたからだ。事故処理班に回された北山は大阪に詰めた。「人殺し、人殺し」といわれ続け、それが骨身に染みたと述懐する。八年かかった。

それから先、いうべきことはなにもないといわんばかりに、劇は一気に終焉に向かう。

野崎は身体がぼろぼろになって中東から帰った。杖なしでは歩けない。北山は定年退職してぶらぶらしている。ある日、あの焼鳥屋で飲んでいると野崎がおぼつかない足取りで入ってくる。隣り合わせた二人は、なんとなくあいさつをかわし、酒が切れたところで互いに酌をする仲になる。素性を名乗りあうなんてことはしない。ただ、野崎が別れ際一言だけ感心したように言う。「それにしてもあなた、実にうまそうに酒を飲みますねえ。」接点といえばそれだけのことだった。それから数ヶ月後、二人は偶然同じ日に逝った。

戦後史を描くといっても、何をとり出して見せるかはセンスの問題である。60年代から70年代の激しい政治の季節の中でももっとも過激な部分と「エリートサラリーマン」とは正反対の仕方で大企業の中を凡庸に平穏に生きた男、それが同居していた日本という国の不思議さに思いを致す感覚が秀逸である。

三時間に近い長尺をものともしない、内容の濃い面白い芝居だった。要は、二人の男の人生を並べることで戦後史を総括して見せたのであるが、なるほどそうともいえるなあと妙に「安心してしまう」語り口なのである。おれたちは一種滑稽な生き方をしてきたのだと笑い飛ばせるというのが「安心」の意味である。やり残したことがあるという残尿感?の一方で、救われるという妙な気分なのだ。

その語り口のことだが、勤め人として平凡に生きた北山の人生と、激しく世界に抗議して生きた野崎の人生を等距離で眺め「これはどちらも<あり>ではなかったのか。」と見ているあたりは、如何にも昭和34年生まれの川村毅ならではである。この立ち位置が僅かでもずれたらこれほどカリカチュアライズした描き方は出来なかったのではないかと思われる。簡単にいえば、若松孝二や大島渚なら北山の存在を理解しようともしないだろう。僕らの世代なら、北山はさておいて、他のことに思わずいきり立ってしまうかも知れない。もっと若ければ、これほどのめり込むのは出来ないはずだ。ということである。

川村は、パンフレットに寄せた短い文章の中でこう語っている。

「・・・稽古初日の前日は私の父親の十三回忌法要だった。墓前で『今度の劇でちょいとあんたのこと書いたよ』と報告した。父のことを『あんた』という呼び方は何事かとも思われようが、私にとって父とはそういう感じだった。正確にいえば、そういう感じでいるまま父はさっさとあっちへ逝ってしまった。その時私はまだ三十三歳で父は六十六で、会話はほとんどなかった。お互いもっと年を取ればいろいろ話も出来たろうが、父はまったくその時間をくれずにとっとと逝ってしまった。その生き方が、またなんともすっとぼけていて父らしいという気がするが、息子に愛を表明させる時間を与えなかった。」

演出の高橋正徳はよく知らないがかなり若いと聞いている。当然同時代を生きたわけではないから、作家の川村毅より作り方の自由度はあっただろう。しかし、所々アニメの手法で笑いをとる以外は川村の本に忠実に描こうと意図していたことが見て取れる。

父親に対する一種のオマージュではないかといったら川村は嫌がるかも知れないが、高橋はそれを十分理解した上で、おそらく自身の父親に対する思いも込めて戦後史とは何であったのかを緻密に正確に表現しようとして、十分に成功したといえる。癖のある役者を手なずけて自分の世界を作り出すのは難しい。演出家として、この探求心と才能を大事にしたい。役者は皆よかったし、川村はほんとうにいい本を書いた。

 

さて、多数配られるパンフレットを見ていたら「若松孝二に映画『実録・連合赤軍』を撮らせたい。」というのに出くわした。船戸与一、宮崎学、鈴木邦夫、宮台真司、四方田犬彦らが名を連ねている。若松孝二は助監督に連合赤軍関係者がいただけで当事者ということになっているらしい。だから映画を作る資格はあるのだと関係者は強弁するのだが、その程度のかかわりで、この言い分はすでにばかばかしい。『実録』とはいってくれるではないか。映画『実録』に実録などあった例が無い。若松にしても無理やり当事者にされて迷惑なことだろう。宮台真司のようなおっちょこちょいはまあ仕方ないにしても、他のものがどうしたというのだ。分別ある大人ならまず自らの「連合赤軍」を書くべきではないか?狭い「業界」内だけで通用する「実録物」を作って自己満足したいなら勝手だが、いうところの「歴史に埋もれさせ、考古学の対象にしてはならない」という目的が達成されるとは到底思えない。第一、考古学が対象とするほどのご大層なものか。

我々はすでに十分生きた。歴史に埋もれさせたい事実だってある。ほじくりかえしても大してためになることが出てくるとは思えない。我々の人生は十分喜劇的であり、喜劇として認めてくれる川村のような世代が育った。でしゃばるところではない。この間30年ぶりに青砥幹夫にあった。挨拶程度の言葉は交わしたが、今度会ったらやめとけというつもりだ。

 

話は変るが、男は父親に対して格別の感情をいだいている。川村毅の短い文の中に現れる父親との関係がそのひとつといえる。そして、いつかはそれを口に出していってみたいという思いを持ちながらついにその機会を失うというのが普通だ。僕は「オトコとおとこ」というタイトルを臆面もなく選んだ川村がうらやましい。俺はおとことして生きてこられたのだろうか?男とは、バカみたいにこだわってそうして死んでいく、かくも悲しい存在なのだ。分かったか女ども。(すみません。)

帰り道、ふと頭をよぎった。ちかごろ俺の酒の飲み方はどうだろうか?
どっちにしろ、そろそろ安ワインをやめて、臭い焼酎などに目もくれず、古老のように熱燗にしなければな。

                                                                                        

 


新国立劇場

Since Jan. 2003