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「僕のハーモニカ昭和史」

小沢少年はハーモニカを吹きたかった。どうしても吹きたいと思って習いにいったが、へたくそでなかなかうまくならない。そこで先生と向き合って何も考えずに同じ向きに動かせば早いと気がついた。ところがそれでは音程が高い方と低い方、逆になる。だからハーモニカを左右逆に持つと正常な音が出る、という訳で、嘘かまことかいまでもハーモニカを逆に持っているらしい。
僕らの場合、ハーモニカは小学校で少し習っただけで、音符を思い出しながらようやくふけるようになる頃には次の楽器に移ってしまった。何とも中途半端なやり方であった。ところが、僕の母は、実に器用に何でも吹いた。歌謡曲、童謡、歌曲、初めて聴いた曲でもなんとか吹いた。ハーモニカは頭に音符を浮かべて吹くものではないことをこの母の演奏の仕方で薄々気づいていたが、僕らの世代はその域に達する前にやめてしまった。母たちの時代はおそらくハーモニカが流行ったのだろう。つまり、ハーモニカに慣れ親しむ時期が長かった。楽器は何でもそうだと思うが、なれてくるとこの音ならこの辺りと体が覚えて、ハーモニカも口笛を吹くように自然に吹けるようになるもののようだ。大正九年生まれの僕の母と昭和四年生まれの小沢とは若干間があいているとはいえ、この時代、ハーモニカは子供にとってあこがれであったが手の届く親しみやすい楽器だったに違いない。
小沢少年が生まれて間もなく満州事変が勃発、やがて五一五事件、二二六事件、支那事変と泥沼の戦争に入っていくのであるが、少年時代の記憶はいたってのんびりしていたという。それもそうかもしれない。「戦前真っ暗史観」と言ったのは山本夏彦翁であったが、それは戦後左翼が作り出したイメージで、山本の感覚ではいよいよ苦しくなったのは昭和十九年に入ったあたりからではないかということである。支那や南方の戦地は大変だったろうが、内地はそれほどでもなかったのだ。
そんな中、旧制麻布中学に入ってクラスメートと寄席へ行ったり演劇部を作って活動していた。級友の堺正俊君とは朝、学校の前で会うと互いの学生服の前ボタンの外しっこをしてふざけ合ったと唯一名前を出していったのが少し気にかかったが、この堺正俊君とはフランキー堺のことだと後で、一緒に見た弟から聞いた。そういえばこの中学時代の級友には、他に加藤武、大西信行、仲谷昇など演劇関係者が多くいる。
旧制麻布中学から早稲田に行ったのかと思っていたら、その間に江田島が入っていた。まさか戦争も押し詰まっていたあの時期に海軍兵学校に入るとはよほどの軍国少年だったに違いない。戦況を知るにつけ矢も楯もたまらず願書を手に入れたと当の本人もそういっていた。
ここから広島の原爆のきのこ雲を見たそうだ。そういえば、哲学者の木田元先生も見たと書いていた。この時期ふたりは同じところにいて同じ風景を見ていた訳だ。海兵第78期が何人いるかは知らないが確か結束は固いと聞いているから二人は互いに知っていたかもしれない。唐突に木田元先生のことになったが、江田島つながりだけでこの舞台とは何の関係もない。直接教えを受けたこともないが、卒論でテーマにしたモーリス・メルロー=ポンティの訳書でさんざんお世話になった。それからずいぶんたって95年に出した「反哲学史」には感銘した。これを読んで長年つかえていたものがとれて晴れ晴れするような気持ちであった。最近、やや平易にした「反哲学史入門」が出されて版を重ねているのを見ると賛同するものが多いらしい。うれしい限りである。
兵学校では、ハーモニカを吹く機会はなかったという。終戦になって、呆然としてトイレの窓から月を眺めながら、これからどうしようと考えた。真っ先に頭に浮かんだのが「噺家になる」ということだったらしい。学校は解散。何でも持って帰っていいといわれて小沢少年は、毛布にジャガイモをいっぱい包んで筒状にし紐でまいて担いだそうだ。途中これを取られそうになったり取り返したり苦労の末やっと東京に戻ってきた。小沢昭一、このときまだ満十七歳である。
昭和史というからにはこの後昭和六十四年まで続くのだが、終戦後の小沢昭一自身の個人史には触れない。よく知られているところでもあるが、語ったところで面白くなるはずもない。懐かしい童謡、唱歌、歌謡曲が次から次、木藤義一のピアノ伴奏でハーモニカ演奏が続く。
この人の語り口は本質的には「噺家」のものである。十八年間続けた「唐来参和」も一人称で書かれた小説を口演したもので一人芝居には違いないが、高座で人情話を聞かせているのと同じようなものである。平成十七年六月、とうとう小沢昭一は柳家小三治の薦めで、新宿末広亭に出演することになり、十日間の夜席を超満員にした。この実況を書き起こして本にしたものがあって、僕は後で弟から借りて読んだ。このときの出ばやしが「小沢昭一の小沢昭一的こころ」であった。これは73年から現在も続くTBSラジオの長寿番組のタイトルでそのテーマ曲である。「今週は○○について考える!」と言って、月金ベルトで週替わりのテーマを軽妙洒脱、蘊蓄を交えて、講談調というか落語のようでもある独特の語りで聞かせるものである。
これが73年に始まったことを最近になって知ったのだが、してみると僕は番組開始と同時頃からこれを聞いていたことになる。72年夏から僕は、入社したばかりの会社の秋田出張所で一人勤務の営業をしていた。管轄エリアは広い。北に六十キロ行くと能代、それから東に六十キロ、秋田からだと合計百二十キロ先に大館がある。南に日本海を右に見て五十キロのところに本荘があり、そこからさらに南、秋田から約百二十キロのところに山形県庄内地方の酒田、鶴岡がある。そして南東の方向に国道十三号線をたどれば、五十キロ先には大曲、その先に横手、さらに湯沢と続いて、ここまで秋田から約百二十キロである。この間にあるスーパーと食品問屋を回訪して商談、販売促進活動を行うのが仕事である。
東京にいると、この距離感はあまりピンとこないかもしれない。例えば東名高速を新宿から120km走ると静岡県の富士IC、同じく東北自動車道を北に120km行くと栃木県矢板、西に中央道を行くと山梨県韮崎である。こういう距離を移動するから真面目に働くと一年に6万キロを走ることになり、これは東京のタクシーの年間走行距離に同じとなる。だから一年で車は交換、マークUステーションワゴンからブルーバードバン、再び新型マークU・・・。早朝出て夕方帰路につく。この距離を秋田に向かう車中ではラジオでも聞くしか用はない。あるときこの「小沢昭一の小沢昭一的こころ」が聞こえてきた。始まったばかりとは知らずに、何でもっと早く気がつかなかったのかと悔やんだものだ。
以来、毎日のように聞いているうちに、次第に口調が似てきて、書く文章も「○○について考える!」とか「・・・明日のこころだあ」という具合になってくるのである。
そうしているうちに社内報に掲載する「田舎便り」みたいなものを求められて、その調子で書いて送ると、「ふざけやがって」と言われると思いきや結構粋人はいるものでファンレターと思しきものまでいただいて、本社転勤のきっかけとなった(と本人は考えている)。
その後会社を辞めてから番組がテープに収まって何巻も出ていることを知って、これを買い込み車の中で聞いていた。番組はきわどい話題になることが多いのだが、 あるときゲラゲラ笑っていたら不謹慎だと同乗者に頭を張られたことがあった。
また、シャンソン歌手の井関真人に紹介したらおもしろがって、旅の途中に聞いているといっていた。旅というのは、いくつかの地方都市のシャンソンバーに定期的に出演していてその往復のことである。彼は、シティボーイズつまり大竹まこと、きたろう、斉木しげるのグループの兄貴分にあたり、元は芝居をやっていた。シャンソンは元々物語を語るように歌うものだから、俳優の経験者には適している。歌と歌の間をつなぐおしゃべりで楽しませるのも芸のうちである。井関真人のステージには小沢昭一の「こころ」の影響が幾ばくか出ているかもしれない。
この番組がいまでも続いている。ラジオはもう持っていないから時々Webで聞くこともあるが、話の「種は尽きねえ七里ケ浜」であの頃と全く調子は変わっていない。戦前の、昭和の寄席の空気を少年の頃に味わった人の芸は、今時の噺家とはひと味もふた味も違う。長生きしてもらいたいものだ。

 

 

題名:

僕のハーモニカ昭和史

観劇日:

2008/04/29

劇場:

紀伊国屋ホール

主催:

シャボン玉座
期間:
2008年4月22日〜30日

作:

小沢昭一

翻訳:

 

演出:

美術:


照明:

 

衣装:

 

音楽・音響:

 

出演者:

小沢昭一  木藤義一(ピアノ)

 

 

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