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「ピアノの話」

中西和久が自分で本を書いた一人芝居。(ただしもとになった話がある。いきさつは後でわかった。)一人で演じるが途中ピアノの演奏が入る。ピアノ曲を聞かせることが重要なテーマになっているので、コンサート付きのドラマといっているようだ。だから舞台の下手半分は、ピアノと演奏者の佐々木洋子で占められている。上手奥に古びた跳び箱が一組と何かボールがおかれているだけの簡素な舞台である。
中西和久が自身として登場、とりあえず前口上では普段使いの言葉で世間話めいたことをはじめる。この日は芝居の後で師匠の小沢昭一とのアフタートークが予定されているので観客はそちらの方を期待しているかもしれないなどと冗談をいいながらもなかなか芝居に入らない。(実際小沢昭一の話が聞きたいのでチケットを取った人は大勢いた。)
タイトル通り、ピアノという楽器の生誕から変遷を説明するという文字通りピアノに関する蘊蓄が続く。なるほど「ピアノの話」だわい。そのうちに、昔ドイツにフッペルというピアノのメーカーがあったという展開になった。
昭和五年、佐賀県鳥栖の小学校に日本でまだ二台目のフッペルというピアノがやってきた。児童の母親たちがお金を集めて寄贈したものだった。せめて音楽だけでも贅沢をさせてやりたいとの思いで、オルガンが当たり前だった小学校、しかも九州の片田舎の小学校にドイツの名門フッペル社製のグランドピアノを導入したのである。
ここで中西は舞台袖に入り、すぐに燕尾服に白髪のかつらで登場すると、自分はこのピアノであるという。小学校の講堂の片隅で、運動具と一緒に埃にまみれて打ち捨てられているいまは年老いたピアノである。このピアノが見てきたある出来事を語って聞かそうというのがこの物語なのである。
昭和二十年の五月といえば既に日本各地が空襲にあって、戦況は著しく悪化、あと三ヶ月で終戦を迎えるという時期である。鳥栖の小学校に赴任してきた音楽の担当は「おなご先生」と呼ばれていた。まだ、学校出たての若い教師である。朝学校に出てくると日課のように必ずピアノを磨いていた。この頃になると空襲の恐れもあって学校はほとんどお寺やお宮で分散授業の状態であった。しかし、おなご先生はまるでピアノを守るようにいつも学校にやってきた。空襲警報が鳴るとバケツに水を汲んでいくつもピアノの廻りに置いて火事に備えた。
そうしたある日のこと、その日はたまたま全校登校日で生徒の声が学校にあふれていたのだが、校庭に二人の飛行服に身を包んだ若い将校が現れた。自分たちは上野の音楽学校の学生だったが、明日沖縄に出撃することになって、せめて最後のピアノを思いっきり弾きたいと思って三田川からやってきたというのである。三田川の小学校にはピアノがなかった。鳥栖にはあると聞いて三里ほどの道のりを長崎本線の線路伝いに歩いてきた。取り次がれたおなご先生は、まだ少年の顔が残っている二人の少尉をピアノのところへ案内した。
ここで弾いたのがベートーベンのピアノソナタ「月光」であった。佐々木洋子のピアノ演奏が入る。明日は沖縄の海に散ろうというときに、激しいこころの動きを月の光が優しく包み込んで、鎮めていく。この曲を選んだ二人の心情がメロディからしみ出てくるような演奏である。
たった一人の聴衆であったおなご先生は惜しみない拍手をおくった。そこへ男子生徒がやってきて二人にはなむけとして「海征かば」を歌い捧げる。(ピアノ演奏が入る)
帰り際には、兄が既に戦死しているという同僚の女の先生が両手いっぱいに白百合を摘んできて、二人に渡した。校内を流れる番所川の土手に上り、帰っていく二人にいつまでも手を振って見送った。二人も百合の花束を掲げて別れを告げていたという。
翌朝は真っ青に晴れ渡った。校庭の上に二機の戦闘機が現れると翼を左右に振りながら旋回しやがて南の空に飛び去っていった。
ここで舞台中央奥にスクリーンが現れ、特攻隊の戦闘機が米国艦隊に襲いかかる映像が映し出される。そして水盃で出撃する隊員。見送る兵士たち。ニュース映像が流れる中を中西が巻紙を取り出して読み始める。特攻隊員が残していった遺書である。哀切きわまりない言葉が続く。ひとしきり読み上げ、終わるとピアノである自分に戻ってこういうのである。「この六十年近く、私の知る限り、私の第二の故郷(ドイツからやってきた)日本、皆さんの国は一人の戦死者も出さず、一人の敵も殺してはいません。」そして続いて日本国憲法第九条が読み上げられる。
中西和久は自分は戦争を知らない世代だが、父親は大陸で終戦を迎え、その後五年もシベリアに抑留されていたと明かした。父はあまりそのことを言いたがらなかったが、自分たちは父の体験を通じて身近に戦争を感じることができた。いまは果たしてどうなのか?こうして誰かが語り継いでいくことが大切だと考えていると締めくくった。
この芝居は初演が茨城県の小学校講堂だったらしい。元々小学校に「しのだづま考」の公演をと頼まれていたが、この芝居は小学生には少し難しい。そこで中西はこの芝居を書いたものだった。学校の講堂に忘れられ放置されたピアノの話、誠にふさわしい場所で演ったものだ。つまりはじめから小学生にわかるような説話に仕上げられた芝居なのだ。しかも、生のピアノの演奏がたっぷり聞けるのである。そして当時の映像が流れ、特攻隊員の心情が読み上げられて、最後は憲法九条、それを年老いたピアノが語るというのも非常に説得力がある。よくできた芝居だと思った。
元になった話があると最初に書いたが、これは実話だった。
おなご先生とは上野歌子先生といって実在の人物である。この先生の体験を取材し構成したラジオドキュメンタリーがあって、その放送をきっかけに物語は広く知られるようになった。「ピアノは知っているーあの遠い夏の日ー」(九州朝日放送、1990年5月)が放送された日はタクシーが皆動かなくなってしまったそうだ。運転手がラジオに聞きいってしまったのだ。大きな反響があり、上野先生には講演の依頼が殺到した。そしてついには映画「月光の夏」が制作される。
中西はこのラジオ放送を聞いていた。そこでいつか舞台にあげようと思って、このドキュメンタリーを作った構成作家毛利恒之に台本を依頼した。しかし、毛利には舞台化、映画化の話が相次いで多忙だったために、一人芝居にするならむしろ中西自ら書いてはどうかと提案したという。そうして出来上がったのがこの芝居だったのである。
その後、上野歌子先生は92年に講演先のホテルで倒れそのまま帰らぬ人となってしまった。また、二人の特攻兵については消息がつかめたそうだ。出撃待機のまま終戦を迎えていた。一人は母校の教師に、一人は米国に渡ってジャズピアニストになったというのである。
僕にとっては少し重すぎてつらい芝居であったが、小学生の柔らかい頭には平和の大切さということがストレートにしみていく話になっていると思う。中西和久の誠実さが非常によく現れた佳作になっている。

題名:

ピアノの話

観劇日:

2008/05/27

劇場:

新国立劇場

主催:

京楽座
期間:
2008年5月27日〜28日

作:

中西和久

原案:

毛利恒之

演出:

長谷川洋

美術:

坂本良美

照明:

鈴木茂

衣装:

 

音楽・音響:

 

出演者:

中西和久  
佐々木洋子(ピアノ        

 

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