<%@LANGUAGE="JAVASCRIPT" CODEPAGE="932"%> 新私の演劇時評
タイトル日にち掲示板トップ
{ポスター}

「ピルグリム」  

「第三舞台」が一公演三万人を集めていたころ、スポンサーを依頼されたことがあった。金を出したかどうか忘れてしまったが、そのときは、劇場で確認するという企業の担当者として当然の義務というか権利を放棄した。
なぜ観なかったかというと、食わず嫌いである。
若い役者が跳んだりはねたり、やかましく走り回る舞台も、それと一緒になって騒ぐ若い観客も煩わしいと思ったからだ。なぜ見てもいないのに分かるかというと、当時は、そういう評判だった。
90年代にはいってからだと思うが、まちがって夢の遊民社の芝居を見たことがあった。まさに跳んだりはねたり、せりふは聞こえない、筋なんてわからない、観客の若い女達は仲間意識の薄ら笑いを顔に貼り付けて、おかしくもないのに、いつも笑う準備をしている。途中腹が立ってきて、幕あいに「ばか野郎」と叫んで出てきてしまった。〈品のないことをした。反省!〉
「第三舞台」も同じようなものだろうと思っていた。

幕が開くと、色とりどりの原色の衣装をつけた若者が、耳もつんざく大音響にのって舞台狭しと踊る場面から始まった。
なるほどこれが鴻上尚史か、と思った。
連載を降板させられる作家、六本木実篤(市川右近)は、編集者、朝霧悦子〈富田靖子〉と同居人であるホモの直太郎〈山本耕史〉に励まされて、再起を掛けた冒険小説に挑む。
小説の中では、マッド・サイエンティスト〈天宮良〉とそのサイエンスが生んだ傑作タンジェリン・ドリーム〈宮崎優子〉に、途中で出会ったウララ〈山下裕子〉とその生み残した子ハラハラ〈佐藤正宏〉それにきょうへい(高岡蒼佑)が加わっった一行が「オアシス」を求めて旅を続ける。謎の黒マントの男に邪魔されたり、ニューロマンサー王国の国王という少女(三国由奈)に出会ったり、「恐竜のこころ」という見えない力に行く手を阻まれたり、やっとの思いで、たどりついた「オアシス」は実は廃虚だった。このあたりから作者は自分の小説の中に巻き込まれて、虚実が判然としなくなり・・・
これは「コミック」である。
僕は途中でこれはよくできた少女漫画だと気がついた。
だから、この登場人物達がそれぞれのキャラクターデザインで、「コマ」(升目)の中を跳んだりはねたり、吹き出しで説明コメントがあったりしている様を想像しながら見ると、実によく分かったのである。
これはコミックの文法で書かれた戯曲である。しかも、戦後手塚治虫が創造した日本漫画の正統的な系譜を踏襲する文法である。(丸みでできたかわいい線画、未来志向と特有の倫理性を土台にしたものがたりとでもいえばいいか。)
この文法を知らないもの、あるいは嫌いなものにとっては、おそらく面白いかどうか以前に拒絶反応がでてしまうのではないだろうか?
鴻上の世代がもっともよく接触し影響を受けたのは、漫画とテレビに違いない。鴻上少年が物心つくときは、日本の政治的な季節はとうにすぎ、イデオロギーの対立構造も風化しつつあった時代である。そして、関心は内向きになり、肥大した自己意識を持て余しながら、若者は次第に孤立していくようになっていたと思う。
このころコミックは全盛で、たくさんの「オタク」が生まれるほど、その読み手の層は厚くなっていた。当時はこの世代の、孤立した魂が、よりどころを求めて「第三舞台」にあつまり、その芝居を同志的熱狂で支えていたのだと僕は想像する。
鴻上は、自分の劇作の姿勢について、公演パンフレットの社会学者、宮台真司との対談の中で次のような発言をしているので少し長くなるが、引用する。
「鴻上:僕は演劇をひとつの娯楽作品として完成させていくことにまだ抵抗がある。この場合はこういうふうにするのが定番でしょ。みたいな大娯楽超大作。といって、すごく文学しているのはふざけるなと思う。おれは苦悩しているんだ、人生を悩めというような芝居はトマトを投げたくなる。」
「宮台:たとえば僕は、失望と絶望というふうに区別してるんです。いろいろなことがうまくいかなくてがっくりする程度の悩みは失望です。失望のもとになっている期待を入れ替えりゃすむ程度の話です。失望はシステムの「内」に属するものです。絶望はそうじゃない。システムの「内」に属することへの断念です。だからこそ、絶望した人間にしか見えない光があり、絶望によってしか癒されない闇がある。劇中の六本木実篤の「絶望だけ売ってどうする。人生が悲劇的だと知っている人間は深刻ぶったりしないものだよ。」という台詞はそういう感受性をまさに表していると思うんです。」
「鴻上:徹底的に絶望しているからこそ腹をくくって超娯楽大作に進もうという人がいる。それを思うと僕は生ぬるいのかなってことですね。〈笑い〉同じノー天気な娯楽大作でも、そこに絶望のにおいがするか失望のにおいしか、しないかの違いということね。・・・」
ここで鴻上が超娯楽作といっているのは何か?極端なことをいえば、お笑いのあちゃらか芝居の様なものを思いえがいているのではないか?
それに対して宮台は、それが何であれ、システムの「内」に属することへの断念=絶望という感受性を鴻上の中に感じるといって、間接的なエールを送っている。
「内」か「外」かという議論は宮台の土俵に引き込まれただけで、むしろ鴻上の問題意識はもう少し単純で、自分のサービス精神がもっと徹底されるべきか否かというところにあるのだろう。
鴻上尚史はインテリである。
タイトル「ピルグリム」は巡礼者のことで、宗教的な意味はともかく、何か目的を持って旅する人々であり、鴻上はとりあえず、この人々の旅と行く末が気掛かりなのである。
89年公演の時は、「伝言ダイヤル」を社会風俗的現象として取り上げたようだ。今回は、それが携帯メールである。さらに、500万台の家庭用パソコンのネットワークを使って本来120年かかる計算を数日間でこなしてしまう時代になったことが、我々の社会に何をもたらすかについて無関心でいられない。
恐竜がなぜ滅んだのかというなぞは、宇宙論に発展し、環境論に及ぶ。そして、困ったときに誰が犠牲になるべきか議論し、天皇の戦争責任を認める自筆の文書が発見されたニュース!?を挿入する。
超娯楽大作で扱うとしたら、少々厄介なテーマばかりである。
そして、人間はユートピアを目差したが、それには到達しなかった、せめてその旅の途中でオアシスをと思うが、それもまた廃虚ではなかったか、というのは、娯楽作にふさわしい結末ではない。
鴻上尚史の関心は、風俗から宇宙論まで幅広い。それは我々の現在を根底的な視点でとらえ、未来に思いをはせるという態度である。その対象化能力というか癖を、おそらく宮台真司が「外」に出るといって評価しているのだろう。
そうならば、鴻上が「腹をくくって超娯楽大作に進もう」と思っても、彼のいまの関心を突き抜けた先に描かれる世界は、恐ろしく難解でブラックなギャグ漫画になりかねない。
僕は、そういうのはお奨めじゃない。おそらく出来もしないだろう。
なぜ鴻上がそんなふうに思うのか?
テレビという存在が気になっているのだろうと僕は思う。
自分の演劇活動が、いやおうなくテレビという鏡に映る。テレビはコミックとともに始めから自分の中に存在した情報の出入り口である。そこに映った自分の姿が、むなしく思われるようになったのではあるまいか?
テレビは、漫才ブームをつくり、お笑いに居場所をつくった。しかし、今や決して観客の罵声が届かないところで安穏としている芸無し芸人がそこを占領している。もとはといえば、寄席やストリップ小屋のコント出身とか専らよそで一人前になった芸人を呼び込むという手法でつくったもので、テレビ自らは何も創造できなかった。供給もとがたたれたのだから、もはや先は見えないとしたものだ。
仮に鴻上がいう超娯楽作が実現できたとしたら、テレビがやって来て、丸ごと飲み込んでしまおうとするのは目に見えている。
僕は鴻上の関心や問題意識を面白いと思うし、共感もする。
残念だが僕はコミック世代ではない。しかし、その文法は理解できる。(実は、漫画は読まないのに「BSマンガ夜話」=一冊の漫画を取り上げて、一時間論じる番組、をかかさずみている。)
そういう人もいるのだから、あまり余計なサービス精神を発揮しようとしなくてもいいのではないか?
ところで、僕はどんな観客が来ているのか見渡してみた。当時熱狂したと思われる世代がいるにはいたが皆冷静な顔で、控えめに笑い声を立てている。いい加減な年になっているのだから当たり前だが。
こういう観客とともに年を重ねるほうが、長い目で見たら鴻上のためになると思うのだが、どうか?
市川右近の六本木実篤は、よいキャスティングだった。
直太郎の山本耕史は力演だったが、身体がまだ出来ていなかった。余計なところに力が入ってしまうので、全体にぎこちなく見えてしまうのは損だ。俳優が普通にやる身体的訓練を積んで、動きにリズム感が出ればもっと表現力が増すと思う。素質は間違いないようだから、期待している。
富田靖子は天性の明るさをいかしていて、適役を得たといえる。
タンジェリンドリームの宮崎優子には驚いた。どこでこんなぴったりのお姫さまを探しだしたのかと思ったら、あとで、宝塚の風花舞だと知って納得した。このお姫さまがくせ者で、これ以上ないといった女らしい見えを切ったと思うと、さりげなく周りを小ばかにする態度など少女漫画に出てきそうな役柄を余裕で演じていたのは面白くて、収穫だった。
ニューロマンサーの三国由奈は、いかにもアイドルらしい少女を演じていて、かえってこういう類型的な役は難しいのではないかと感心していたら、どうも地でやっていた節がある。
今回もっとも不満なのは黒マントの存在であった。旅を徹底して妨害するでもなく、しかし意味あり気に登場して中途半端にいなくなる、しまいには、現実と小説二つの世界を行き来する狂言回しのような役割が与えられていながら、その存在の意味がよくわからない。ギャグにしても、本がかなり不出来である。
演じた大森博は適役とも言えないが、どこまでやっていいかと惑いを見せながらもよくこなしていた。どうせならもっと徹底的にお笑いでいったほうがよかったかも。
山下裕子ははじめてみた。非常に存在感のある女優で、複雑な心理劇もこなせる豊かな才能を持っているのではないかと感じるところがあった。
高岡蒼佑は、影が薄く元気がなかった。どうしたのか?
佐藤正宏は、お行儀が良かった。

僕は、最初に書いたように、鴻上尚史をはじめてみた。
そして、彼は僕らとは別の文法で、同じ関心、同じ対象を書こうとしていることがよく分かった。いつかまた、鴻上に出会うことがあるだろう。
あらためて鴻上尚史は、インテリだといっておきたい。
(宮台のいう「内」と「外」の議論をしたかったが、鴻上の芝居で言及するのはふさわしくないと思ったので、いつかの機会にしたい。)

題名:

ピルグリム 

観劇日:

03/1/17  

劇場:

新国立劇場

主催:

新国立劇場

期間:

2003年1月14日〜2月1日

作:

鴻上尚史                           

演出:

鴻上尚史

美術:

松井るみ

照明:

坂本明浩

衣装:

堀江潤 

音楽・音響:

原まさみ 

出演者:

市川右近 山本耕史 富田靖子 佐藤正宏            山下裕子
天宮良    宮崎優子 高岡蒼佑
三国由奈 大森博        他

 

kaunnta-