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「リチャード三世」

「われらをおおっていた不満の冬もようやく去り、ヨーク家の太陽エドワードによって栄光の夏がやってきた。わが一族の上に不機嫌な顔を見せていた暗雲も、今は大海の底深く飲み込まれたか影さえない。・・・・・・」(小田島雄志訳)
膝の伸びた左足を少し前に出し、背中にこぶを背負って前屈みになった岡本健一が舞台中央に浮かび上がる。
この台詞を覚えていたことに自分ですこし驚いた。ただし、この訳ではない。小田島雄志は新しいから、福田恆存だったか?たぶん木下順二訳ではなかった気がする。「われらが不満の冬」が「リチャード三世」だったとは・・・・・・。どーも、ボケがはじまったらしい。
世にシェイクスピア病患者は多い。英語圏で聖書に次いで引用されることが多いといわれるのはまあ理解できるが、我が邦にも感染者の数は少なからず存在すると見える。その証拠に新国立劇場は、2009年秋に「ヘンリー六世」三部作の一挙上演をやってのけて大成功だったといっている。英国でさえも数例しかない我が邦初の快挙と喜んでいたが、実に九時間半の難行苦行を乗り越えた感染者たる観客にこそ拍手を送るべきであろう。(幕の内弁当は出たのか?)
英国史における「戦国時代」についての知見を得て、勇躍劇場をあとにしたはいいが、めまぐるしく変わる英国王のⅠⅡⅢ・・・を覚えているかどうか・・・・・・。
そんな心配はどうでもよくて、自分こそシェイクスピア菌に罹災してはいないと自負していたものが、幕開けで、実は立派に「陽性」であったことに気づいて、ちょっとばかしはずかしい思いをしたということであった。
シェイクスピアのうまいところは、この冒頭の台詞で芝居の梗概を一筆書きにして見せているところである。
つまり、「われらが不満の冬が終わり」とは、ヨーク派の太陽、エドワードが、冬の間王位を回復していたランカスター派のヘンリー六世との争いに勝利し、王権を取り返したことを指している。
ヨーク派とランカスター派というのは、もとはエドワード三世(在位1327年 - 1377年)の五男と四男に連なる子孫で、1455年に王位継承権を巡って争いを始めたいわゆる「薔薇戦争」の当事者である。(この芝居は「ヘンリー六世」三部作の続編にあたる。)
台詞はつづく。
きのうまで敵軍の心胆を寒からしめていたものたちも、いまや女の部屋に入り浸り、みだらな音楽に合わせて踊り狂っている。
「ところが、この俺はどうだ。」
俺というのは、この芝居の主人公、戦の功績によりグロスター公の爵位を得たリチャードである。
生まれながらのひねくれ者で、色恋沙汰には向いていない。月足らずで生まれた俺は、寸詰まりの身体にびっこをひくかたわもの、側を通れば犬まで吠えかかる。(うまい言い回し!)
この頼りない平和のご時世に、俺のようなものにどんな楽しみがある?
自分のみにくい影法師相手に詩の一つも作って孤独な遊びにふけるか、あるいは、色男よろしく美辞麗句を口に世の中を泳ぎ回るか。いや、そんなことは俺に出来るわけがない。
となれば、そうだ。腹を決めた。俺は悪党となってこの世のむなしい楽しみを憎んでやることにしよう。
こうして、グロスター公リチャードは、兄エドワード王のあとを襲うことをひそかに決意する。この芝居が、そのためのいくつもの障害を取り除いてのしあがっていく「悪党」の物語であることを冒頭で示しているのである。
ところで、この台詞は「ロンドンの街路」に現れたグロスター公が観客に向かって語りかける独白である。(この独白という演劇の手法をもって「近代的自我」の萌芽だとのたまう学者もいるらしいが、こういう戯(ざれ)言を言うようになったら立派なシェイクスピア病だといってよい。)
しかし、この芝居のために用意した島次郎の舞台装置は、沙漠であった。
中劇場の座席を十列ばかり取り去って、そこに張り出した舞台と舞台最深奥までアンツーカー色の砂を敷き詰めた。そこがロンドン塔にもなり、宮殿にも戦場にもなる。まるでグロスター公の心象風景とはこんなものではなかったかといいたいようである。
前方中央には土俵のように丸く盛り土したところがあり、半透明樹脂の板が乗っていてそれが回転する仕掛けである。この回り舞台が活躍するのは終幕近い場面、大団円の道具立てとしてもっとも効果的に使われる。
舞台奥は小高い砂の丘。天井から厚手の透明ビニール幕がぶら下がっているのを、役者がいちいちめくり上げて登場するのは気障りだった。ごわごわの上にてかてか光って砂のテクスチャーと合っていない。なぜそんな仕切りが必要だったのかボケた頭には理解不能であった。(と書いたが、いま思い出した。あれは、映像を映すスクリーンの役割をちゃんと持っていた。目が悪くなったので何が映っていたのかよく覚えていないが、顔のクローズアップや戦闘シーンなどだった。)
さて、グロスター公リチャードが王位に就くには一体どれだけの障害があるのか?
まず、長兄で現王エドワード四世(今井朋彦)は、高齢で病気がち、放っておいても遠からずこの世から消えてくれるはず。エドワード四世には、二人の幼い息子がおり、これがいうまでもなく皇太子(エドワード五世)および王位継承権第二位(ヨーク公リチャード)である。
また、エドワード四世の皇后、エリザベス(那須佐代子)には、前夫とのあいだに出来た連れ子が二人いる。(ドーセット公=浦野真介とグレー卿)これは継承権から見たら理屈上、第三位と四位と言うことになるだろう。
つぎに、次兄であるクラレンス公(前田一世)がいる。これが第五位、国王の末弟であるわがグロスター公リチャードはその次ということだから、王位が巡ってくることはほぼないに等しい。
他にも、王妃エリザベスの弟やエドワード四世の取り巻きたちが邪魔立てしないとは限らないから知恵も力もなければ到底望めることではない。しかし、リチャードの挑戦はすでにはじまっていた。
まず、次兄であるクラレンス公をエドワード四世の手でロンドン塔に幽閉させる。
これには、頭文字Gのものが王を暗殺するという予言を占い師の口からエドワード四世の耳に吹き込んでおいたのが功を奏した。クラレンス公の名前はジョージである。
ロンドン塔に向かう兄クラレンス公に、リチャードは、「必ず助け出すから」といい顔を見せるが、牢に入れてしまえばこっちのものと思っている。
つぎにとりかかったのは、自分の結婚である。王にふさわしい一角の人物と認められるにはよき妻が必要だが、悪党になると決めたのだから愛情もなにもない。適当な時期に捨てるつもりの妻だとは本人の告白するところ。女にとっちゃ悪い奴だねえ。
ロンドンの街路を、前王ヘンリー六世の亡骸を携えて、その埋葬場所を求める一行がやってくる。率いているのはヘンリー六世の嫡男エドワードの寡婦、レディ・アン(森万紀)。
グロスター公リチャードが呼び止める。
アンは、たちまち憎悪の表情をむき出しにして、呪いの罵声を浴びせかける。
実は、ヘンリー六世を亡き者にしたのも、自分の夫を殺したものいま目の前にいる、このみにくい片わものである。
ところが、リチャードの口から出たのは、アンに対する愛の告白である。
このアンというのは、1470年に起きた政変の立役者、 ウォリック伯の娘である。
あの「われらをおおっていた不満の冬」という冒頭の台詞の背景には、兄王エドワード四世がこのウォリック伯の寝返りにあって一冬の間王位から追放されていたことがあった。このとき、ウォリック伯の誘いをことわったリチャードは、ランカスター派と死闘の末、兄王復権に多大なる貢献をしたのである。
自分の妻としてアンに目をつけたのは、若く美しい名門の娘ということもあったろうが、ウォリック伯の広大な領地をアンが相続するという打算が働いていた。なかなか隅に置けない悪党なのである。
「言葉で言い尽くせぬほど美しいあなた、あなたには慈悲の心はないのでしょうか?」などと、自分の罪を認めたうえで、もっとあなたにふさわしい男を与えるために、私はあなたの夫を殺したなどと奇妙な理屈を唱え、暗に自分がその男といっている。
また、「あの勇猛果敢なウォリック泊が、わが父ヨーク公リチャードの最後を涙ながらに語ってくれたとき・・・・・・」と裏切り者だったアンの父親の思い出話まで動員してくどき文句の大行列。これほど図々しくなければ偉くはなれないのだという教訓をシェイクスピア好きは読み取るべきでしょうね。
しかし、歯の浮くようなお世辞の連続に「この偽善者め!」と罵ることをやめないアン。
とうとうリチャードは、自分の胸をはだけると抜き身の剣を差し出して、アンに誠意を見せようとする。この愛が誠実なものである証に、命を捧げても惜しくはない。
それほどまでに美しいとか、愛してるとか、死んでもいいとかいわれているうちに、だんだん女もほだされていくもののようで、劇を見ながら時計も見ていたわけではないが、街角で出会ってからおよそ十分、脚本にして180行そこそこのやりとりでアンは落ちてしまう。(実際は、せりふを間引きしていたはずだが)
自分の姑の亡骸のそばで、その姑を殺した男から、しかもその姑の息子である自分の夫を殺した張本人(ややこしくないぞ!)から婚約の指輪を受け取ってしまうなんて、一体どんな女だとリチャードたる近代的自我の萌芽は観客に問いかける。
しかし、そういわれても・・・・・・、と現代の自我は戸惑うばかりである。
アンを演じた森万紀は、はじめて見たが、これまで出会ったアンよりは、遠目ではあったが若干年長だったといっても失礼はないだろう。経験豊富な女優と見えてなかなか芝居巧者である。特に姿勢が他の俳優と比べると大げさに言えば別次元であった。この間、劇評に引用したばかり(「抱擁家族」その2)の幸田露伴が娘、文に言い続けたという言葉「脊梁骨を提起しろ」をそのまま体現したようなすがすがしい気分にさせてくれるのは、髪をきりりとうしろにまとめ、喪服姿だったからだけでは断じてない。
ただ、現代の自我として不満だったのは、アンがどの時点でなぜ翻意したのかとうとうわからなかったことである。
ある意味女にしかわからないことなのに、ここを表現できたと思える女優には出会ったことがない。
とここまで書いてわかった。
つまりはそれが「近代的自我」と「自我以前」との(ポストモダン風にいえば)「差異」だったのだ。森万紀の名誉のためにいっておくが、現代のどんな女優にも永遠にアンを演じることはかなわないのだということをあらためて認識したのである。史実であることが確かなだけで、演じる方だってアンの気持ちは理解不能だろう。まして日本人にわかるわけがない。(意味わかる?←娘の口癖を拝借)
先を急ごう。
エドワード四世が病に倒れると、後継者を巡る暗闘が始まる。
王妃エリザベスは、夫亡き後のことが気がかりである。まだ幼い皇太子が王位についても叔父が摂政となって実権を握ることは必定である。そうなれば、王妃一族の命運はつきたも同然。王を取り巻く貴族たちも不安定な権力の行方に疑心暗鬼がつのっていく。
一同が会して言い争うちょうどそこへ、敗北したランカスター派を代表する前王ヘンリー六世の王妃マーガレット(中嶋朋子)が現れる。皆一様にマーガレットを責め立てるが、かつての敵を目の前にして、この前王妃は「ここのものども」に呪いをかけたといい、その後の彼らの運命について予言的なことを告げる。
現王妃エリザベスには孤独な死が、その兄、リバーズ伯(清原達之)と息子のドーセット候、それに現国王の親友のへースティングズ卿(城全能成)には不慮の死が訪れ、グロスター公は味方に裏切られての死が待っている。ついでに側にいたバッキンガム公(木下浩之)にも「お前には何の恨みもないが、忠告を聞かなければいつか後悔する日が来るぞ」とおどしてその場をあとにする。
皆が去り、一人になったグロスター公リチャードは、いよいよ時が来たと踏んで、刺客二名を雇いロンドン塔に向かわせる。次兄クラレンス公ジョージ暗殺である。
一人は躊躇するが、一人は首尾よく目的を果たす。
それとも知らずエドワード四世は、一同に和解の約束を交わさせたところで、クラレンス公赦免の話を切り出す。しかし、すでに殺されていたことに驚き、なぜだれも許しを求めなかったのかと一同を責め、自らが招いてしまった弟の死を嘆き後悔する。
落胆と心労が重なり王は倒れ、まもなく帰らぬ人となったことがエリザベスから一同に告げられる。
嘆く王妃をどうにかなだめ、ラドローの宮廷にいた皇太子とその弟を連れ戻し、王位継承の準備を始めることが決まった。
王妃一族あるいは皇太子の庇護者で、実力者へースティングズ卿らに主導権を与えないよう、グロスター公リチャードは、バッキンガム公を味方につけ、自ら出向いて二人の王子の身柄を確保、王城で(も)あるロンドン塔に隔離してしまう。
迎えに出たがグロスター公らに先回りされた王妃の弟、リバース伯と連れ子のグレー卿が捕らえられ、ポンフレット城に送られる。いよいよ王妃エリザベス一族の粛清がはじまった。
リチャードは、皇太子を廃して自分が王位に就く意向を固め、それを察したバッキンガム公が、へースティングズ卿を味方につけるよう進言する。その考えにリチャードは満足し、高い地位とハーフフォード伯の領地をやると約束する。しかし、バッキンガムが打診するとへースティングズは大反対である。
皇太子の戴冠式を前に枢密院会議が開かれる。日取りは明日と決まっていたから皇太子の就位を疑うものは誰もいなかった。へースティングズ卿は、スタンレー卿(立川三貴)に会議は危険と忠告されていたが、かまわず出席する。
遅れてやってきたグロスター公の様子が変である。中座して戻ると突然、自分の死を望んで呪いをかけた者がいるといいだす。それは兄エドワードの妻エリザベスとショア夫人だというのだ。
ショア夫人とは、エドワード四世とへースティングズ卿が共有する愛人であった。その女の呪いによって、自分は見にくく生まれた。ショア夫人の背後にいるへースティングズ卿こそ自分の死を望むものに違いない、というのである。
もちろん、こういうのは「いちゃもん」というのだが、どうもこの時代にはそれがホントのことになってしまうのである。
即刻へースティングズ卿は捕らえられ、断頭台の露と消える。
これで、邪魔するものはいなくなった。
ヘースティングズの罪状を公式のものにするためにロンドン市長(関戸将志)はじめ数人の聖職者が集められる。ヘースティングズの「陰謀」について熱弁をふるうバッキンガムとにらみを利かせるリチャード。ねつ造された証拠とヘースティングズの首を前に、一同は絶句するしかない。
さらに追い打ちをかけるように、エドワード四世と王妃エリザベスは正式に結婚していなかったという嘘の情報を市民にばらまくようバッキンガム公に指示する。王妃一派を完全に葬り去ろうという意図と皇太子の王位継承権の正当性を否定する目的であった。
さすがにこれには市民も唖然とするしかなかったが、かといって否定することも出来ず、このままでは王位が空白になってしまうことを懸念する。市長らがリチャードのいる城にやって来て目にしたものは、一人静に敬虔な祈りを捧げている彼の姿であった。バッキンガムがグロスター公リチャードの気高い心を歌いあげ、ここは是非ともイングランド王就位を皆でお願いするしかないではないかと長広舌をふるう。
リチャードは、自分としては王にふさわしいものかどうか悩むところだと随分もったいをつけるが、しまいには、それほどまでに皆が願うなら引き受けようと受諾。めでたく「頼まれて」王になってやったというこの上ない状況を演出した。
ロンドン塔の幼い王子たちに王妃エリザベスがアンと連れだって会いに行くと、門前でリチャード王の母親、ヨーク公爵夫人(倉野章子)に出くわす。彼女もまた孫である王子を訪ねたのであった。ところがなぜか城の長官によって拒絶されてしまう。
摂政グロスター公の命令とのことだが腑に落ちない。
すると、長官がアンに向かって、グロスター公が戴冠式を行うので急ぎ王宮に帰られるように言いつかっているという。 アン自身は言うに及ばず、エリザベスもヨーク公爵夫人も思いもかけない展開に一同驚愕の態である。
リチャードのこれまでの所業の数々、その目的がこれではっきりとした。
アンは、甘い口車に乗せられて妻となってしまったことを後悔した。エリザベスは、アンが利用されたことに同情しつつ、自分たちの命も危ういことをさとった。それに対して、ヨーク公爵夫人は、我が子リチャードは卑劣で冷酷な人殺しだとなじり、自分が彼をこの世に生んだことを恨んだ。
イングランド国王となったリチャード三世は、最後の仕上げを画策する。
バッキンガム公に、ロンドン塔の二人の王子を始末するようにいうと、彼が逡巡の色を見せる。なにもそこまでしなくてもと思ったのだが、それが命取りになった。バッキンガム頼るに足らずとこれまでのリチャードの態度が一変する。独裁者の側近というのは、絶えず頬がひりひりするような緊張感に締め付けられていると、北朝鮮の亡命者がいっていたが、それと同じようなものだろう。
なにしろ、いつ寝首をかかれるか、独裁者の方が数段鋭い感性で生きていなければならないのだから裏切りの兆候には敏感なのである。
この先、バッキンガムが、褒美の件を何度も持ち出すが、そのたびに無視されるようになって、悪党二人の蜜月は終わりを告げる。
バッキンガムがだめならと、別の殺し屋を派遣するのだが、その間今度は王妃アンが重病との噂をばらまく。離縁の準備だ。
兄エドワード四世と王妃エリザベスとの娘であるエリザベス王女(母娘で同じ名前なので注意!←老婆心ながら)と結婚して、王位の安泰を図ろうというのである。つまり、自分の姪との再婚である。
その頃、王妃エリザベスの連れ子であるドーセット候が、身の危険を察知して、フランス・ブルターニュに滞在しているリッチモンド伯ヘンリー・チューダー(浦井健治)のもとに亡命する。リッチモンド伯というのは、ヘンリー六世から見れば義理の甥に当たり、エドワード四世のヨーク派の敵方つまりはランカスター派の若きエースなのだ。
リチャードは、自分の取り巻きの中で、このリッチモンド伯の義父に当たるスタンリー卿に、大陸の動きに注意するよう命じる。(そういう事情からのちに、息子を人質に取って、スタンリー卿の裏切りを封じる。)
ヨーク派もランカスター派もごちゃごちゃになってきたことは、リチャード三世のむちゃくちゃな独裁専制によって、この三十年ほどつづいた王位争い「薔薇戦争」も終わりを迎えているということなのだろう。
殺し屋からロンドン塔の幼い王子を殺したとの知らせが入る。
この事実を知ったイーリー司教モートン(トマス・モアの師匠=勝部演行)が大陸のリッチモンド伯のもとへ走ったとの報告が入る。
同じ頃、バッキンガム公がリチャード三世に対して反乱を起こした。
再び、ヘンリ六世王妃マーガレットが現れ、自分ののろいと予言が現実となってヨーク派が瓦解していくことを皆に確認させる。(どうだ。ざまあみろ!というわけだが、中嶋朋子では迫力がいまいちだった。)
リチャード三世は、エリザベス王妃に娘との結婚を打診するが、幼かった息子まで殺されて、色よい返事などするわけがない。ところが、アン王妃の時のようにリチャードは言葉巧みに迫り、娘を説き伏せることを承知させる。
一方、大陸から迫るリッチモンド伯の軍勢がイングランド海岸を侵し始め、内陸各地でも反乱が勃発し出す。バッキンガム公の謀反は残念ながら失敗、彼自身はとらわれの身となった。しかし、リッチモンド伯がイングランド西海岸への上陸に成功し、次第にリチャード三世は追い詰められていく。
スタンリー卿は息子を人質に取られていたが、ひそかにリッチモンド伯にエールを送り、王妃エリザベスもまた娘をリチャードではなく、ランカスター派(敵方)のリッチモンド伯に嫁がせることを決心する。
バッキンガムが刑場に引き立てられる一方、リッチモンド伯は味方を集めてリチャード三世との決戦に望むことを宣言する。
ボズワースの平原に陣を張ったリチャードの旗印は猪である。王位を獲得するためにわき目もふらず文字通り猪突猛進してきたリチャードにふさわしい図柄であった。
ここで、土俵の上の回り舞台の真ん中をその大きな旗で半分に仕切り、回転して両陣営が交互に描かれるという工夫がいきた。
決戦の前の晩、リチャードは夢間に現れる大勢の亡霊にさいなまれる。これまで殺してきた死者たちの影が入れ替わり立ち替わり憎しみに満ちた悪態を浴びせかけ、敵方リッチモンドの勝利を祈る。
1485年8月25日。「早起きの村の雄鳥が、すでに二度までも朝を告げるときの声を上げた。」
この日、スタンレーが動かない。人質の息子を殺せと命じるが、時すでに遅し、戦闘は始まろうとしていた。
両軍あい乱れ、リチャードも獅子奮迅の働きのなか、落馬して馬を失ってしまう。なおも勝利を確信するリチャードは、一歩も引くものかと部下を叱りつけ、あの有名な最後の台詞を叫ぶ。
「馬をくれ。馬を! かわりに王国をくれてやる。」
ボーズワースの戦いは短時間で決着した。リチャード三世は英国史上戦死した最後の王になったのだ。勝利を収めたリッチモンド伯が、エドワード四世の娘エリザベスと結婚すると宣言する。かくて、長きにわたって権力争いを続けてきたヨーク派とランカスター派は婚姻を通じて和解することになった。
これがシェイクスピアの「リチャード三世」である。
その後の史実は、つぎのようである。
リッチモンド伯は1485年10月30日にロンドンで戴冠式を行い、ヘンリー七世を名乗った。翌年1月、ヨーク派の王位継承権第一位のエリザベス・オブ・ヨーク満19才と結婚する。(これには、リッチモンドが結婚に乗り気ではなかったとか正式の結婚はもっとあとだったなど諸説があり、結局、この終幕は後世のシェイクスピアが物語を作ったのだろうと思われる。)
これできれいサッパリ両派の争いが終わったかといえば、どうもそうではないらしい。薔薇戦争終焉とはいっても、ヘンリー七世の政権が安定するにはまだかなり時間がかかった。どこの国でも、はっきりした時代区分なんてないのである。

英語のペーパーバック版で150ページ、日本語翻訳版で約250ページ(白水社版は、行数を同じにしてあるが縦書きだからページ数は多くなる)、まともにやれば六時間は優に超えるという作品である。それを半分近くまでカットしているからまるで早回しのビデオまたは駒落ちの映画を見せられているようでとても忙しい。
いかにも、リチャード三世の悪党ぶりだけが強調されて見えるという効果はあったが、シェイクスピアのおしゃべりを楽しむ余裕はなかった。端折ったのはやむを得ない。現代の観客はせっかちなのである。
この作品は、シェイクスピアの最初の作品であり、「ハムレット」よりも上演回数が多いのだそうで、論評、研究、その他諸々言及したものは世界中に山ほどある(らしい)。
シェイクスピアは、翻訳によってその面白さの90%が失われるといったのは福田恆存だが、 さもあらふと思えば、筋書きだけわかって「ああだ、こうだ」いったところで恥ずかしい思いが残るだけだ。
いい機会だからいっておこう。
福田が言っていることの一端を示せば、戯曲のオリジナルは強弱五歩格という形式、つまり全編、強弱強弱強というリズムの五つの詩句(これを外れるときにもある法則に従う)、しかもそれらは日本でいえば江戸時代の言葉遣いで出来ておりこれを翻訳するのは少なくとも「源氏」の口語訳よりは難しそうだ。
この芝居の冒頭「われらが不満の冬・・・・・・」の原文は次のようである。
Now is the winter of our discontent
Made glorious summer by this sun of York
And all the clouds that loured upon our house
In the deep bosom of the ocean buried
どうです。強弱五歩格でしょう。
この並びの英文が
A horse!  A horse!  My kingdom for horse
をこえてなお、えんえんつづくのである。
たとえば、こんな台詞を翻訳したらどうなるか?
「知らざあ、いって聞かせやしょう。浜の真砂と五右衛門が、歌に残した盗人の、種あつきねえ七里が浜あ。その白波の夜働き、以前をいやあ江ノ島で、年季勤めの稚児が淵。
百味講で散らす蒔き銭を、あてに小皿の一文字。百が二百と賽銭のくすね銭せえ段々に悪事はのぼる上の宮。岩本院で講中の、枕捜しも度重なり、お手長講と札付きに、とうとう島を追い出され、それから若衆の美人局。ここやかしこの寺島で、小耳に聞いた爺さんの似ぬ声色でこゆすりたかり、名せえゆかりの弁天小僧菊之助たぁ俺がことだぁ!」
英語で言ってご覧といわれたら「If you do not know / I tell you that ・・・」とか何とか出来なくもないが、もとの面白さがなくなるのは必定である。
この逆のことを考えれば福田のいっていることが少しはわかろうというものである。
シェイクスピア病とは、たいがいこうした英語版に到達する手前で、罹災!しているのであり、それでもたいした罪はないからいいとしたものだが、それを棚上げしてことさらのようにいうのはなんだか、どっか恥ずかしいのである。
物語の出来といってもこれは歴史劇である。史実と照らし合わせてどうかという議論など学者じゃあるまいし、できるわけもなければ、意味もない。
こういうことだから、どうしても他にやるものがなくなったら、「やったらいいじゃない」と、僕としては冷たくあしらわざるを得ないのである。
「シェイクスピアはすごい、すばらしい、その他諸々の賛辞・・・・・・」を耳にすると、俄然こういう憎まれ口をききたくなるどうにもひねくれた性格は、あいすみません、いまさら直しようもないのです。

はしょった半分の方に、役柄の肩書きやら人物像やら性格やらがだいぶ含まれていたようで、見ていて相関図すら頭に浮かんだものが少なかったのではないかと疑っているが、しかし、シェイクスピア病にとって、そんなことはどうでもいいのである。
演じている俳優の方が、しっかりしていればおよその見当はつけられる。
ただし見当をつけるのはできても、教養の段階からいえば「弁慶は、いまの団十郎より先代の松禄のがよかった」とか「富樫はそれに対して先代の羽左衞門が一番」とかいえるほどのことでもない。
およその見当でいうのだが、岡本健一は、一生懸命だったところに好感が持てた。さすがに元アイドルだから、「リチャード三世」の身体全体から醸し出される不気味さ、凄味といった一種のスケール感は望むべくもなかったが、身体コンプレックスから権力掌握の野望をもって突き進むというぶれない人物像を造形するという点では線は細いながらも説得力があった。聞けばすでに四十才を過ぎているそうだ。しかし、集客力は落ちないらしい。「なんてたってアイドル」は一生続けなければならないと運命づけられている。そこで人並み以上努力を怠らないのがアイドルのすごいところで、だから使うのだと蜷川先生は(不純な動機はさておいて)いっている。
そういうけなげな「努力」とサー・ローレンス・オリビエとかサー・イアン・マッケラン(映画『アマデウス』でサリエリをやった)を比較するなどという野暮をやってはいけないのです。
先代の王、ヘンリー六世王妃マーガレット役の中嶋朋子についてはすでに少し触れたが、これは呪いと予言の婆さんにしては迫力不足でミスキャストと思った。ただし、前作「ヘンリー六世」で演じた役をそのまま引き次いでいるとのことなのでやむを得なかったのだろう。
現王、エドワード四世王妃エリザベスの那須佐代子は、権力争いの中心的存在なのに逆に若すぎて迫力不足。達者な役者だが、少し老けた方がよかった。もっとも、存在感が薄くなったのは端折ったおかげで、むろん彼女のせいではない。この役は、リチャード三世の母親、ヨーク公爵夫人をやった倉野章子の方が適役だったのではないか。
リッチモンド伯は、中嶋朋子を挟んで岡本健一ともうひとり、三人だけがでっかい写真で掲示されている浦井健治という僕の知らない俳優だった。こんなに芝居の代表格ならバッキンガムやヘースティングズなどの役で岡本健一と早くから丁々発止やるものと期待したが、どうにもなかなか登場しない。
芝居も終わりかけたボズワースの戦いの場面に、急ぎオートバイで駆けつけ(おっと、これは冗談!)もとい、現れたのは宝塚も顔負けの男装の麗人ならぬ麗人風の若者。岡本健一が、昔お子様だったいまは中年のおばさんのアイドルなら、こっちはそのまま中年おばさまのあこがれの的。長身に武具をまとい、ウエーブのかかった黄金色の髪を風になびかせ、颯爽と登場するところは、岡本、中嶋と並んで写真に収まるだけのことはある。
男闘呼組と蛍と仮面ライダー。
新国立劇場も税金の使い方に気を遣っているのは理解できるが、観客としては、こういう余計なことに気を遣わずに見物したいものである。(意味わかる?←再び娘の口癖を拝借)
それにしてもこの仮面ライダー、リッチモンド伯はなぜフランス、ブルゴーニュにいたのか?
不思議と思わない人には、この先は無駄話になりますから劇評はこれで終わり。

確か「ひばり」(07年2月観劇、蜷川演出))の劇評に、梅竿忠夫の「文明の生態史観」をとりあげたと思ったので、いま調べてみたら、結局このユニークな「史観」についてはなにも語っていなかった。
「ひばり」劇評から引用する。
「時代背景は、15世紀初頭、フランスは王位継承権を巡って内乱状態にあり、英国との間に長い (百年戦争)戦争が続いていた。国の中央を流れるロワール河を挟んで北部がブルゴーニュ派、南がアルマニィアック派で対立、北部は英国と同盟を結んでいた。しかも南西部にはすでにイングランド軍が進駐しており、王シャルル六世は狂気との噂でフランスは亡国の危機に立たされていた。また、王は、娘カトリーヌを英国王のヘンリー五世に嫁がせており、フランスの王位継承をヘンリーに託す約束までしていたのである。
1422年、シャルル六世、ヘンリー五世とも相次いでなくなると、まだ生まれたばかりのヘンリー六世がフランス王を宣言、それに対しシャルルの王太子もまた国王に名乗り出るが、どちらもパリにおいて戴冠、就位式を済ませるまでは、正式なフランス国王とはいえなかった。そうした混乱の中、ジャンヌ・ダルクが登場ということになるのである。
日本でいえば、ちょうど室町時代、各地方に経済基盤ができ上がりつつあり守護、地頭ら実力者が台頭して群雄割拠、戦国の世を準備した時代である。ユーラシア大陸の西と東、大帝国の侵略から難を逃れた唯一の地域で、同じような歴史の進行を見たのは偶然なのか?ここは「文明の生態史観」(梅竿忠夫)を信じたくなるところ。」
この中の、「生まれたばかりの『ヘンリー六世』」とは、シェイクスピアの『ヘンリー六世』であり、その母親のルーツはフランスにあった。つまり、この頃の英国とフランスは、国家といっても何のことはない双方入り乱れた有力諸侯の勢力均衡の上に成り立っていたのだ。しかも考えてみれば、ロンドンとパリは直線距離にして約三百キロメートルである。その間に33kmのドーバー海峡はあるが、日本に置き直すと神戸、静岡間に匹敵する距離に過ぎない。おおざっぱに言って、同じ頃日本で起きた南北朝の対立や室町幕府の将軍後継問題、応仁の乱などが巻き込んだ規模と同じくらいの領域でそれは起きていた。
リッチモンド伯がブルゴーニュにいたのは、、ヘンリー六世=ランカスター派として、その母親側の親戚に身を寄せていたと言うことだった。
「リチャード三世」を見ながら、「文明の生態史観」を思い出したのは、観劇の日のちょうど一ヶ月前に尖閣諸島国有化があったからである。
中国各地でデモが発生、日本企業が焼き討ちにあって、多大な被害を受けた。世界中からその態度がChildishといわれようと我が邦に対する敵愾心はいつまでも継続している。
かの国はつくづく我が邦とは違う成り立ちであることを認識した反面、日本史と英仏=西欧州史との『平行性』にあらためて感慨を覚えたということであった。
「平行性」を発見し、それを説明するアイディアを世に問うたのが梅竿忠夫の「文明の生態史観」(1957年「中央公論」2月号)である。
それは一言で言えば、生態学理論をモデルに人間の歴史の法則を考えることである。(マルクスは、生産様式の変化に注目して、原始共産制、封建制、資本主義社会、共産制社会に至る、社会「進化」論的な歴史を思い描いたが・・・)
「進化という言葉は、いかにも血統的・系譜的である。それはわたしの本意ではない。わたしの意図するところは、共同体の生活様式の変化である。それなら、生態学でいうところの遷移(サクセッション)である。進化はたとえだが、サクセッションはたとえではない。サクセッション理論が、動物・植物の自然共同体の歴史を、ある程度法則的につかむことに成功したように、人間共同体の歴史もまた、サクセッション理論をモデルにとることによって、ある程度は法則的につかめるようにはならないだろうか。」(2002年、中公クラシック版、P118)
つまり、これは人間の歴史というものを捉える仮説、方法論の一つだというのである。
遷移=サクセッションは、生物学分野で使われることばで、ある環境条件下で生物群集が入れ替わりながら、安定した極相(クライマックス)に至るプロセスの理論である。
「サクセッションという現象が起こるのは、主体と環境との相互作用の結果がつもりつもって、前の生活様式ではおさまりきれなくなって、次の生活様式にうつるという現象である。むつかしくいえば、主体・環境系の自己運動ということだ。」(同、P120)
だから、環境が違えば運動法則が違うのは当然のことで、人間社会が一様に一つの結論に向かうなどということは考えにくいのである。
梅竿が立っていた1957年時点からながめて、社会制度や資本主義経済など文明のレベルで高度に発達した共同体と見える地域は、ユーラシア大陸の東と西の端っこにあるだけであった。(南北アメリカ大陸やオーストラリアなどの新大陸は別にして)この西ヨーロッパと日本を仮に第一地域とする。
その端っこを除く残りの広大な地域は、いうまでもなく四大文明発祥の地であり、 人類史上きわめて早くから様々の共同体が形成されてきた地域である。これを第二地域とする。
第二地域に文明の光が注がれている頃、第一地域はまだ何ものも形成されていない。やがて古代帝国が興きると第一地域でも、ようやくそのまねごとのような国家ができあがる。
「それからあとはずいぶん道が違ってきた。第一地域では、動乱をへて封建制が成立するが、第二地域では、そういうようにきちんとした社会体制の展開はなかった。第二地域のあちこちでは、いくつもの巨大な帝国が、出来てはこわれ、こわれてはまた出来た。」(P123)
その違いは、やはり生態学的に見ることができる。
第一地域は、温暖で適度な雨量があり生産力の高い土地と森林があった。それに対して、第二地域は、東北部から南西部にかけて広大な沙漠である。古代文明はこの乾燥地帯の真ん中、水利のよい地点を選んで勃興している。
「乾燥地帯は悪魔の巣だ。乾燥地帯の真ん中からあらわれてくる人間の集団は、どうしてあれほどはげしい破壊力を示すことが出来るのだろうか。・・・・・・とにかく、むかしから、なんべんでも、ものすごくむちゃくちゃな連中が、この乾燥した地帯の中から出てきて、文明の世界を嵐のように吹きぬけていった。そのあと文明はしばしばいやすことのむつかしい打撃を受ける。・・・・・・破壊力をふるったのは遊牧民とはかぎらない。・・・北方では、匈奴、モンゴル、ツングース、南方ではイスラーム社会そのものが暴力の源泉の一つになる。」(P123)
「建設と破壊のたえざる繰り返し。そこでは、一時は立派な社会をつくる事はできても、その内部矛盾がたまって新しい革命的展開にいたるまで成熟することが出来ない。(第二地域とは)もともとそういう土地なのだった。」(P123)
第一地域は、端っこにあったためにそれを免れることが出来た。免れている間に、その暴力と破壊力を撃退するだけの知恵と力を蓄えていたのである。
近世になってようやく遊牧的暴力がほぼ鎮圧され、この地域における四大帝国、中国、ロシア、インド、トルコが成立する。しかし、皮肉なことにその頃になるとこんどは第一地域がそれら第二地域に対し、暴力をもって襲いかかるようになるのである。
このように、第一地域は生態学でいう、オートジェニック・サクセッション、つまり自成的な遷移によって社会を変化させてきた。それに対して第二地域では、共同体の外部からの力によって他成的(アロジェニック・サクセッション)に遷移させられてきた。
結果として二つの地域は、その歴史のなかに、封建制時代を持つか持たないかという点で大きな違いを見せている。
そろそろ結論を急ごう。
いま、第一地域、第二地域それぞれの人々の目標は「よりよい暮らし」つまり生活水準を上げるという点で一致している。
「しかし、今度は、文明は、第一地域と同じように運転されるかどうか、それはわからない。何か非常に変わったこと、第一地域では思いもよらないことが起こるような気がする。例えば、いわゆる人海戦術などがその例になるだろうか。」
と、 梅竿は、1957年の時点ですでに懸念を表明していた。
「封建制をとおってきた社会の人間と、封建制をとおらないできた社会の人間とでは、行動の仕方、考え方に何かちがいがあるだろうか。よく分からないが、どうもあるような気がする。封建制をへてきた社会の方が、一般的にいって、個人の自覚が進んでいる、それに比べて、封建制をとおらなかった社会では、個のあり方がいっそう集団主義的である。というようなちがいがありはしないだろうか。それは、
文化人類学あるいは社会人類学における今後の大問題の一つだと思う。」(P128)
さらに今後の第二地域への懸念はつづく。
この地域は
「将来四つの巨大なブロックの併立状態に入る可能性がかなり高いと思う。中国・ブロック、ソ連(この当時はまだソ連、いまはロシアというべきか)・ブロック、インド・ブロック、イスラーム・ブロックである。」
「それらはかつて彼らが属し、革命によって破壊したところの昔の帝国の『亡霊』であり得ないであろうか。」
「亡霊」がよみがえったとき、それらの周辺の異民族や小国はどのように取り扱われるか、それはこの第二地域の人々の課題であろう。

梅竿忠夫は、こうしたアイディアをさらに充実させ、1980年代になってコレージュドゥフランスで講演するなど『日本学』を世界に向かって提唱する活躍を見せるが、必ずしもその体系が大きく育ったとは言い難い。
それは、当時はまだ第二地域の人々の存在感がいまほど大きくはなかったことに起因すると思うが、もっと根本的には西欧の人々の伝統にとって、受け入れがたい考えであった可能性がある。
サッカーのブロック区分けで、日本と中東諸国が同じというのはおかしいと思わない人々がまだ主流なのである。残念きわまりないが、世界はまだそのレベルなのだ。
いまだから言えることだが、梅竿は第一地域の人々にいっても無駄だった。むしろ第二地域の人々にこそ西欧流ではない歴史観もあるぞ!といったほうがよかったかもしれない。
このあいだの尖閣デモの時、コメンテーターの宮家邦彦氏があまり脈略もなく『それにしても、どうして中国の人たちはあれほど暴力的破壊的行動にはし(れる)るのか・・・・・・」と慨嘆しているのを見たが、こんなコメントははじめて聞いた。誰が聞いてもそんな嘆き節は無意味に思えただろう。しかし、僕はおそらく、この人は『文明の生態史観』のことを思い浮かべているのだと直感した。
そうだ、むしろ生態史観は第二地域の人々と話すべきなのだ。
中国は、世界で二番目のGDP大国になった。梅竿はそれを見ないでなくなったが、そうなることは見越していた。やがて、米国を抜いて世界第一位になることは確実である。
イアン・ブレマー(コロンビア大学教授、国際政治学)の「『Gゼロ』後の世界―主導国なき時代の勝者はだれか」(日経新聞出版社)は読んでいないが、米国が凋落し、中国が台頭してきた場合の備えについて、すでに第一地域の人々は考えはじめている。
第一地域の一員である僕らも備えなくてはならない。とはいえ、あえて敵対するものでもないだろう。
何が人間にとって『よりよい暮らし』なのか、その価値観を共有するためには、まず、『ちがい』の認識からはじめる以外にないのではないか?
だからむしろ。生態史観は第二地域の人々と話すべきなのである。
シェイクスピアの歴史劇を見ながら、以上のようなことを考えていた。
西の端で、グロスター公リチャードの野望と専制の物語が繰り広げられていたちょうどそのときに、東の端では、征夷大将軍の後継者を巡る泥沼の戦いがつづいていた。その不思議について、気づかせてくれるのだから、シェイクスピア病もあながち悪いものではないといえるかも知れない。

 

 


題名: リチャード三世
観劇日: 2012/10/05
劇場: 新国立劇場
主催: 新国立劇場
期間: 2012年10月3日 ~ 10月21日
作: ウイリアム・シェイクスピア
翻訳: 小田島雄志
演出: 鵜山仁
美術: 島次郎
照明: 服部基
衣装: 前田文子
音楽・音響: 上田好生
出演者: 岡本健一 中嶋朋子 浦井健治 勝部演之 倉野章子 木下浩之 今井朋彦 吉村直 青木和宣 那須佐代子 立川三貴 小長谷勝彦 森万紀 清原達之 城全能成 関戸将志 篠原正志 川辺邦弘 松角洋平 津村雅之 前田一世 浦野真介

 

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