<%@LANGUAGE="JAVASCRIPT" CODEPAGE="932"%> 新私の演劇時評
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「ローゼ・ベルント」

京王線仙川の駅から五分ほどのところに新しく建った公共の小劇場の招待公演。調布市もなかなかやるものだ。安藤忠雄の建築は、相変わらずコンクリート打ちっぱなしの愛想なしだが、とりあえず周りの住宅街に馴染んでいるところはよしとしよう。芸術監督はドイツ人のペーター・ゲスナー、桐朋芸術学園短期大学準教授、劇団『うずめ劇場』主宰だそうである。こけら落としは永井愛の『時の物置』だったというから外国人芸術監督だからといってなにほどのことがあろう。実に順当な採用で、いうこともない。
偶然だろうが安藤の建築とドイツや欧州北部の気候はよく合っている。安藤の独創はわかるが、肌合いはむしろ向こうのものだろう。それにしてもどうして日本の建築家はこうも西洋かぶれが多いのか?いや、嘆いている場合ではなかった。坂手洋二の芝居である。
これは百年前にドイツで上演されたノーベル賞作家、ゲアルト・ハウプトマンの原作を坂手が翻案台本を書いたもの。二年前の五月に見たイプセンの『民衆の敵』(坂手が翻案)も正統社会派の古典作品だったから、ドイツ自然主義の傑作と称されるこの作品も同じ発想のもとにとりあげたのであろう。坂手の感覚の鈍さは、残念ながらこういう勘違いなテーマの選択によく現れている。
『民衆の敵』も原作の主題とストーリーの上に現代の社会問題を重ねて、実は我々の時代が抱えている問題の下から百年前の同じような課題が透けて見えてくるではないかという効果をねらったものに相違ない。物事を単純にしてしまえばその結果、現代の問題の根は百年前と同じところにあって、それを解決するためにはそこまで遡行しなければならないという主張につながる。感度の鈍さと言っているのは、百年前と現在が、歴史の同じ位相の上にあると思っていることだ。もしもそうであるならば、現在の日本人がこれほどまでに途方に暮れているのが、実に不思議な光景だと言わざるを得ない。
結論を先に言ってしまって面白みがなくなってしまったから、大急ぎで物語を追いかけてみよう。
先の『民衆の敵』では主人公を女性にするなどの工夫を見せたが、この芝居では農場を精肉会社に変えたぐらいでさしたる変更をしていない。この精肉会社こそミートホープに代表される昨今の食品偽装事件を意識したものである。社会派、坂手洋二としてはこれによって時代を現代ということにしたつもりなのだろうが、中で展開される物語の背景には明らかに現在とは思えないおよそ古風な宗教的倫理が存在していて、いかにも『ノラ』の時代の虐げられた女性の姿が見えるのである。これでは、せっかく思いついた精肉会社も「時代」を「偽装」した道具立てにすぎなくなった。
何故精肉偽装は行われたのか、そうした商業倫理の崩壊の原因は奈辺にあるのか、時代が抱えている病巣とは、などという問題に多少なりとも触れるのかと思ったのだが、いっこうにそうはならなかった。早い話が古色蒼然たるドイツ自然主義をそのまま見せられて、途中からなんでいまさらこんなものをと主人公が自暴自棄になる前にこっちが憂鬱な気分になってしまった。自然主義文学なんて我が国のものもどこの国のものも大して面白いものなどない。

主人公ローゼ・ベルント(占部房子)は精肉会社で働いているが、社長のクリストフ・フラム(大高明良)と恋愛関係にある。フラムは九年前から車いす生活の妻(西山水木)とは別れる気はない。早い話が不倫の関係である。ローゼには教会の息子で孤児院出のアウクスト・カイル(大西孝洋)と言う許嫁がおり、 父親(鴨川てんし)は一日も早く結婚してほしいと願っているが、娘にその気はなさそうだ。カイルもまたローゼとの結婚を望んでいるが、愛のない結婚はすべきではないと、ローゼの気持ちが自分に向いてくれるのを待っている。しかしローゼとしては、カイルは人柄のよさにかけては申し分ないが、恋愛の対象とは思っていない。
一方ローゼに言い寄るものもいた。工場の技師、アルトゥル・シュトレックマン(猪熊恒和)は、たびたびローゼに近づき誘惑しようとするが、ローゼは冷たくはねつける。このシュトレックにローゼは社長との関係を知られてしまい、それをネタに脅迫される。やむなく、ローゼは技師と関係するが、このままではいけないと良心の呵責に思い悩み、牧師との結婚もやむを得ないと考えはじめる。ところが、ちょうどその頃妊娠していることがわかって、追いつめられたローゼは堕胎という最悪の選択をしてしまう。
一方、精肉工場では精肉加工の偽装が明るみに出て、シュトレックマンが会社ぐるみであったことをバラしたついでに、ローゼの不倫も公表する。
世間の目が冷たく自分にむけられるのに、ローゼは、自分はただ自分らしく、よりよく生きようとしただけなのにと社会の閉鎖性や偏見、性差別などにたいして抗議する。この場面のローゼ=占部の長い独白は、伊藤雅子が用意した舞台中央の五本の細い柱が教会のような効果を発揮したことも手伝って、髪振り乱しのたうち回り、嘆き叫ぶといった憑依の迫力であった。占部も、のほほんとした顔の割にはやるもんじゃないかと、その意外性に感じ入ったものも多かったのではないかと思われる。ただし、途中から理性に欠ける芝居で台詞の意味をきちんと伝えきれていなかったところはまだ力不足。それはともかく、虐げられたもの、抑圧された性と階級、そうしたもののプロテストの気持ちを代弁していると坂手は言いたいのかもしれない。
ところが、客席を埋める九十%以上がご婦人であって見れば、なんだかやっていることが滑稽に思えてくる。「なあに、それって馬鹿みたい」という声が聞こえてきそうである。いっそ、ローゼを男にした方が現代ではリアリティがあったのではないか?坂手さん。

 

 

 

 

 

 

題名:

ローゼ・ベルント Rose Bernd

観劇日:

2008/07/05

劇場:

調布市せんがわ劇場

主催:

燐光群+グッドフェローズ

期間:

08年6月30日〜7月13日
作:
ゲアハルト・ハウプトマン[底本 番匠谷英一訳 角川文庫『枯葉』]

上演台本:

坂手洋二

演出:

坂手洋二

美術:

伊藤雅子

照明:

竹林功

衣装:

伊藤雅子

音楽・音響:

島猛

出演者:

占部房子 西山水木 大鷹明良 猪熊恒和 大西孝洋 鴨川てんし 嚴樫佑介 樋尾麻衣子 安仁屋美峰 川中健次郎 中山マリ

 

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