題名:

犀        

観劇日:

04/5/14        

劇場:

梅ヶ丘BOX   

主催:

燐光群   

期間:

 2004年5月10日〜23日    

作:

ウージェーヌ・イヨネスコ       

翻訳:

加藤新吉(台本:坂手洋二)      

演出:

大河内なおこ          

美術:

松井るみ              

照明:

武藤聡         

衣装:

大野典子

音楽:

友部秋一
出演者:
鴨川てんし 猪熊恒和 下総源太朗 江口敦子 向井孝成 宮島千栄 樋尾麻衣子 内海常葉 宇賀神範子 工藤清美  桐畑理佳 久保島隆 杉山英之 小金井篤 亀ヶ谷美也子 塚田菜津子

 


「犀」

人間が次々に犀に変わるという話である。象でも虎でも豚でも巨大な昆虫でもない、犀である。犀は、草食で硬い皮膚を持ち頭に角を持っている。象に似た巨体だが、象ほどの愛嬌はない。第一、何を考えているのやら、突然向かってきそうな危険な気配がある。うまい喩えだ。
この犀がある日、街中に現れる。
一幕一場は、とある町の広場に面した八百屋と隣りあわせのカフェという設定。
八百屋の夫婦にカフェの主人、店員やらウエートレス、客の老紳士に論理学者、近所のマダムと、ごくありふれた街の普通の人々のがやがやした日常がある。
もっとも、梅ヶ丘BOXのせまい空間で、このどこかアンニュイな日曜の昼下がりを感じさせるパースペクティブを確保するのは無理というものだ。
松井るみは、地下の細長いBOXの内側にわざわざ黒い壁をぐるりと回して窓やら出入り口を開け、客席を左右に振って真ん中を舞台と見立てた。その舞台は実は、「すのこ」で明りが下から入る仕掛けだから、床も持ち上げてある。よく工夫したものだ。肝心の場面で、すのこの間から立ち登る明りが意外な効果を上げる。照明の気配りは他にも随所に見られ、武藤聡の繊細な仕事には感心した。頭をひねって狭くした分客席は左右あわせて40あまりと採算が心配になるが、狭い椅子に「長い足」がつかえて身動きが取れないのも運動不足の身にはこたえる。
台本通りにいかないのは割り引くとして、そこを補ってくれるのが間近に感じる役者の息遣いなどというものなら大した足しにはならない。何が描かれたか、それが問題だ。
町の住人が三々五々姿を現したあと、カフェにヤン(下総源太朗)が登場する。ほとんど同時に客席の後ろからジェー(向井孝成)が現れる。ヤンはジェーの遅刻を責め、二日酔いらしい、だらしない格好にいらだちを隠さない。ヤンにはこの友人が生き方に迷っているように見える。仕事にはやる気のない態度、酒に逃避する自堕落な生活、ヤンはジェーにもっとしっかりしろと説教するのだ。「君は普通の人が果たすべき義務さえまっとうしようとしない」。
話しているうちに外が騒々しくなって誰かが「犀だ!」と叫ぶ。口々に犀の出現に驚き通りの向こうを指さす。舞台には土ぼこり。犀はどこかへ走り去る。
騒ぎが収まると、ジェーは「僕は自分が何ものかわからない。人生にも興味がない。」「生きるって異常なことだ。」などと無気力で退廃的な態度を示してヤンに反論する。ヤンは「いってることがちっとも論理的じゃない。」と説得にかかる。
彼らの側に老紳士(鴨川てんし)と論理学者(猪熊恒和)がすわって話し始める。「あらゆる猫は生きている。ソクラテスは生きている。故にソクラテスは猫である。四つ足の動物は猫である。犬も四つ足である。故に猫は犬である。」などという噴飯物の三段論法について論理学者が滔々と説明するのに掛け合うようにヤンとジェーの会話が続く。(この4人による交互に入れ子になった台詞の掛け合いは、少し硬さが見えて必ずしもうまくいっていなかった。)
「君にはその才能がある。」とヤンは言う。精神力、意志の力を養うことだ。そうすれば君が密かに心を寄せながら諦めている美しいタイピストのデジ(宮島千栄)が振り向いてくれるかもしれない。前途有望な同僚、法学士ダール(久保島隆)よりも君に。酒を飲まずにその金を美術館に芝居に、雑誌に講演会に使うことで教養を積み、文化に通ずることだと言葉を尽くして言うと、ジェーは次第に説得される。
その時再び騒ぎが始まり、二頭目の犀が現れ、マダムの猫を踏みつぶして去る。実際の被害がでたのである。
人々は、犀が一角だったか二角か、アフリカ種かアジア産かなどと囂しく言い合い、まだ異変に気づかいないまま「場」が変わる。
ジェーのオフィスでは、犀のニュースにボタ(猪熊恒和)だけは懐疑的である。本当にあったことか疑わしいというのである。パピヨン部長(鴨川てんし)にダールとデジ、遅れてきたジェー(デジが出勤簿をそっと渡して遅刻から救い、好意を見せる。)が加わって、喧々諤々議論しているところへ欠勤していたブゥフ氏の夫人(江口敦子)が飛び込んでくる。犀に追いかけられてここまで来たという。壊された階段の下で暴れる犀を皆が確認すると、ブゥフ夫人は犀の挙動からあれは夫だと言いだす。夫人はこのまま放っておくわけにいかないと窓から犀の背中に飛び降りるとどこかへ走り去ってしまう。これが身近な人間が犀に変身したことを確認した最初の出来事であった。
次のプロットはジェーがヤンのアパートを尋ねるもっとも恐ろしい場面である。
ヤンは引きこもっている。すこぶる機嫌が悪い。昨日のカフェでの出来事を話しているうちにヤンの息遣いが激しくなる。次第に皮膚が緑色になり、硬くなっていく。バスルームで確認する度にその度合いが進行している。声もまたどすの利いた悪意のある野太いものに変わってきた。もはやジェーの身を案じた昨日のヤンではない。「ブゥフ氏が犀に変身したのは不幸なことじゃない。彼が嬉しいんだからいいじゃないか。」ヤンは犀にも生きる資格があると擁護する。しかし、ジェーは人間に危害を加える可能性をいい、犀にはそれを制御するモラルがないと指摘する。ヤンは人間が作ったモラルは自然に反する、人類の築いた文明などぶち壊して、原始の姿に帰るべきだと主張し始める。ヒューマニズムも人間の精神ももはや陳腐だといいながらヤンは急激に犀になっていくのである。完全に敵対的になったヤンはジェーに向かってほえる。「踏みつぶしてやるぞ!この野郎。」
この出来事にすっかり傷ついたジェーは、、いつか自分も犀になってしまうとおそれてヤンが引きこもったようにアパートに身を潜めている。ダールが訪ねてきて、慰められるが、パピヨン部長はじめ同僚が次々に犀になったと聞いて愕然とする。話をしているところへデジが食事をもってあらわれると、ダールはそういうことだったのかと悟ったふうにでていく。
ジェーはデジを愛しているといい、デジもまたそれを受け入れる。ジェーはアダムとイブのように子どもを産んで人間を最初からやり直そうと提案するが、デジは子どもは嫌いだと拒絶する。それどころかそこここに見えている犀の姿に、あの多数派の方が美しく幸福な生き方ではないかと思いはじめる。結局デジはアパートを飛びだして犀の側にいってしまうのだ。
ジェーはひとり取り残された。心は激しく動揺する。デジの後を追ってあっちの世界へ行くべきか、それとも人間として踏みとどまるか?そして最後に決断する。「僕はいかないぞ。僕は最後まで人間でいる、負けないぞ、絶対に!・・・」
この冗舌な芝居を二時間の上演台本に刈り込むのはなかなか大変だったと思うが、坂手洋二のこの仕事は、筋書きを追うのに過不足がなかったという点でまずは成功していたといえる。ただ、腑に落ちないことに、主要人物の名が異なっている。ジェーはもともとBerenger(ベランジェ)、ヤンはJean(ジャン)のはずである。いつか理由をきいてみたい。もっとも見ているほうには関係ないからいいのだが・・・
それにしても、全体のつくりはやや迫力不足、人物造形が大雑把という印象だった。小劇場ゆえのハンディは考慮しても。
演出の大河内なおこは長く蜷川幸雄の助手をやっていたそうで、この芝居が初演出ということだった。そのことに坂手洋二はパンフレットでエールを贈っている。「イヨネスコ作品きっての問題作は、イラク・イスラム危機と狂牛病・エイズに蔽われた世界恐怖のネットワークを背景に、新たな命を吹き込まれようとしている。初演出作品に『犀』を選んだ大河内さんの世界感覚は、その顫動を確実に捉えていたのだ。」
ここで問題作と言っているのは、例えば過去に、この作品がコミュニズム批判あるいは作家の社会参加(企投)という議論を呼んだことをいっているのかもしれない。人間の自律的な精神と全体主義や専制政治との対立とみればそういう正統的な批評にたどり着くだろう。ただし、坂手がいっている「世界恐怖のネットワーク」とは人間が突然理由もなく伝染病のように犀に変身していく不気味さの方にむしろ注目してのことと思う。
しかし、こう言う視点で「犀」を描くとすればなかなか難しいことになりそうだ。冗談だが、ハリウッドお得意のホラー動物映画のようなコンセプトにするのか?
僕はイヨネスコが考えていた個人の自律的な生き方もそれと対立関係にある全体主義も当時のままで存在しているとは思わない。だから、僕らの時代に置き換えて「新たな命を吹き込む」のには賛成だ。ただ現代においては「個人の自律性」といってもそれは構造であり絶対的なものではない。仮にそういう目で見た場合、例えば米国にある、あるいはイスラム圏にある宗教的原理主義を犀に見立てるのか?それでは犀にならないジェーとは誰か?・・・
少なくとも舞台からは、大河内なおこの考えた「新たな命」を窺い知ることは出来なかった。
問題はむしろもっと手前にあって、芝居の説得力が今一つ弱かったという点である。その原因は第一に、主人公ジェーの人格がやや平板にみえたことである。もっと豊にしかもきめ細かく表現されなければならなかった。第二に、デジのジェーとの関係の作り方が自然に見えなかったことと、最後の翻心にはあまり納得できるきっかけがなかったことである。
ジェーの人生観や生き方については、ヤンとの会話の中に、パスティーシュの名手であるイヨネスコらしい引用(ニーチェ、キルケゴール、サルトル、デカルトなど)をふんだんにして流行の実存主義的な思想を投影した。これは日本語の観客にはとりあえずそれとは気づかなくてもいいことだが、ジェーは感覚的(論理学者のように思弁的でないという意味で)であろうと存外かなり真剣に人生について思慮している。
向井孝成のジェーは状況に押し流されそうで慌てふためいている自分を表現した。しかし、それを理性の目で見るもうひとりの自分が存在するということを忘れた。モノローグは、この二人の分裂した自己のダイアローグでなければならない。
デジの描き方は多分に演出の責任である。この若い美しいタイピストがどんな生活を送ってきたのか、どんな人生観を持っているのか、その上で状況をどう見ているのか、この娘が肉体と心をもってそこに存在するという実感がなかった。僕には演出のサボタージュのように思える。宮島千栄が経験豊かな俳優ならばもう少しめりはりをつけられただろうが、そこまで器用でなかったようだ。それにつけても、ブゥフ夫人の江口敦子には登場しないブゥフ氏の存在とその暮らしを背後に感じさせる存在感があり、感心させられた。
俳優について言及したついでにいうと、下総源太朗のヤンはなかなか達者なところを見せた。犀に変身するところでは、全身からアナーキーな気配が漂ってこの芝居のハイライトである不気味さを表現することに成功した。
この場面で、例えばバスルームの壁をみしみしいわせるとか、壁の一部を壊すとか出来なかっただろうか?少し迫力に欠けたと思った所以である。
もしも、大河内なおこが蜷川幸雄と同じタイプの演出家なら初演出に「犀」を選んだことにあまり感心しない。
この芝居は、不条理劇のイヨネスコにしては筋立てがはっきりしていてやりやすいといえるが、実はおしゃべりに価値がある。会話に中にさりげなくデカルトのテクストを挿入するなど、つまりそういう側面を色濃く持っている。ヤンとジェー、論理学者と老人のやりとり、ジェーとダールの会話、デジとジェーのからみ、など原典に当たってみるような、きめ細かな気配りを必要とするシーンばかりである。
蜷川幸雄は、チェーホフにてこずるくらいだから、こう言うフランスサロン的なおしゃべりはあまり得意でないはずだ。もっと骨格のはっきりしたダイナミックな人間ドラマを描いて、世界のNINAGAWA なのである。
断っておくが、こう言う先入主のせいでジェーとデジの人物造形が大雑把にみえたわけではない。
どうしても「犀」のような芝居が好きで、やりたいというのなら、とりあえず師匠を反面教師にすることだ。                                 

                           (5/23/04)
   



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