題名:

セールスマンの死

観劇日:

02/11/22      

劇場:

世田谷パブリックシアター  

主催:

無名塾  

期間:

2002年11月14日〜23日  

作:

アーサー・ミラー     

翻訳:

倉橋健    

演出:

>林清人    

美術:

磯沼陽子             

照明:

森脇清治            

衣装:

若生昌         

音楽:

池辺晋一郎  
出演者:
仲代達矢 小宮久美子  赤羽秀之 西山知佐  野崎海太郎 進藤健太郎  中山研 松崎謙二 滝籐賢一  佐藤一晃 篠山美咲 桂木有紀 村上新吾  須賀力

 

「セールスマンの死」

林清人〈演出〉にお願いしたいことがある。後生だから、第一幕目の仲代をできる限り押さえて欲しい。「仲代らしさが出ている」と僕の連れなどはいうが、あれはどこからみても、Over Action でしょう。

「60歳をこえ、体力が落ちて疲れやすくなっているところへ、セールスの仕事がうまくいかなくなって、少しノイローゼ気味ではあるが、まだ希望は失っていない。ニューヨーク勤務になれば、遠くまで車を走らせることもなくなるし、家から通えるから体も楽になる。」ウイリー・ローマンはそう思っていたはずである。だから体の不調も、幻覚におびえることも、妻リンダに甘えるように、すがるように訴えかけるのは少し不自然である。まだ、男としての自信をすっかりなくしたわけではないからだ。

このあたりを滝沢修はどう演じたのか、僕はみていない。各国の俳優が演じたウイリー・ローマンを見ている仲代が、こうしようと決めたのだから、それなりの理由があるに違いない。

しかし、芝居全体の流れから見て、一幕目を押さえれば、後半の躁鬱から鬱病気味に変わっていく過程で、この芝居の持っている深い悲しみがもっと強調されて見えると思う。自殺は一種の鬱病であり、心の病だ。こういう狂気の表現については、仲代の右に出るものはいない。だからこそ、前半のOver Action が惜しまれると僕は言いたい。

NY勤務を申し出るつもりが、逆に長年勤めた会社を馘首になる。しかも、会社草創期には、ほんの子供だった二代目社長からにべもなくいいわたされる。ウイリー・ローマンの誇りは傷つけられ、その精神が大きく崩れだすきっかけになるできごとである。ここから先は仲代の独壇場と言ってもいい。

家を出ていた長男ビフが久しぶりに帰って、職探しをしているがこちらもうまくいかない。ウイリーは、自分の浮気が原因でビフの可能性の芽を摘んだことを認めたくないが、それを責められていると感じているために、長男に対して素直な気持ちになれない。 一方、生命保険の支払い、月賦が終わったと思ったら故障する冷蔵庫、家の修理の代金と次々に支払いが必要になるが収入は途絶えた。

子供の教育も思うようにいかなかった、自分の人生は失敗だったのか?アフリカで成功した兄の誘いにのっていたらよかったのか?彼方に去ってしまった成功と今ここにある挫折?さまざまの想念がおそってくる。 人生のたそがれ時に待っていた過酷な運命。観客としてもいやおうなく自分の人生と重なって見え、それぞれの思いにひたるところだ。

実際、終幕近く、ウイリーが狭い庭に出て月明かりの中、植物の種を植えようとしてしゃがみ込む場面では、不覚にも涙が出て止まらなくなった。 いつか芽吹くであろう小さな生命に、おそらく本能的に自分たち家族の未来を託そうとしていたのだろう、そのいじらしさが胸を打つ。

この芝居はよくできた物語である。ただ、考えてみれば非常に腹が立ってくることがある。ウイリー・ローマンの人生観(アメリカ社会では当たり前の男性性の勝った)、ビフの清教徒的潔癖症、セールスマンというものを売る職業、月賦で物を買う仕組み、生命保険・・・。芝居の中ではいやなものに感じるが、実はそれが普通のアメリカの暮らしなのだ。いや、今や僕らも、ひょっとしたら世界中が同じような仕組みの中でいきている。その当たり前のことに囲まれて生きていることを腹立たしく感じてしまう、という意味でもよくできた芝居である。

ここで、直接関係ない話を挿入しようと思う。ウイリー・ローマンが庭に種を植えようとしていたときに、僕の頭に浮かんだある光景のことである。

9・11テロをテーマにして、世界の8人の映像作家がつくった短編(誰がどうしてこの人たちに依頼したか、いきさつは忘れた。)の中の一つが非常に印象的だった。 他はすべてドキュメンタリーなのにその一本はプロの俳優をつかった短編である。 俳優は、アーネスト・ボーグナインただ一人。このオスカー老優は確か80歳をこえているはずである。 老人は、狭いアパートのベッドに寝起きしている。新聞を読むのも食事をするのも、顔を洗うのも二三歩の範囲でやれるだけの空間である。高いビルに囲まれて、一日中陽が射さないから、暗くじめじめしていて、鉢植えの花もしおれている。来る日も来る日もなんの希望もなく暗い部屋でわびしく過ごしている。(延々と変化のない日常を老優が演じているので、いったいこれは何なのだと思ってしまう。)

ある日、外に轟音がこだまする。暗い窓の方を眺めていると、ゆっくりと朝陽が昇ってくるように、陽が射し始める。老人は、はじめ驚くが、次には満面に笑みを浮かべて、シャワーを浴びるように太陽の光をうけとめる。その時背後の壁には、ビル影が静かになくなっていく様子が映っていた。明るく照らされた部屋は輝きだし、枯れていた花も生き生きとよみがえる。老人も若返ったように見える。

この短編をつくったのは、意外にもあの俳優ショーン・ペンである。 僕はアメリカの健全な批判精神がこういうところにもしっかりと存在していることにひそかな安堵を覚えた。

さて、この舞台は、仲代達矢俳優生活50年記念公演である。黒沢明「七人の侍」の通行人役で一週間も同じ芝居をさせられたエピソードは有名だが、確かにディテールを作り込むような細かな心理描写などよりは柄の大きい男っぽい役が似合う俳優だと言えるだろう。自らも、自分の先祖は歌舞伎役者だった(らしい)と発言して、その大仰な身振りのルーツを血筋に違いないとわらっている。〈「徹子の部屋」)今回の「セールスマン・・」にもその傾向はあるが、これ以上はもはや演出の責任だろう。

初演は二年前、「無名塾」25周年記念公演として上演されたが、僕はこれをサンシャイン劇場で観た。 全体としての印象は前回の公演の方がまとまっていたように思う。

まず、森脇清治の照明プランは変わっていないのだろうが、何だかもたついた印象を受けた。場面の転換、時間の移動、場面の部分フォーカスなどもっとシャープで、めりはりのあるものだったように感じたが・・・。劇場のせいなのか?

キャスティングでは、前回高川祐也に代わって佐藤一晃のビフだが、つくりが若い。34才といえば一応分別のある年齢だ。自分の人生を他人のせいにできないことくらいわかっているはずなのに、父親に対する突っかかり方が、実際の年齢の半分程度のガキにみえる。これが一番の不満だった。 伯父ベンの中山研は、どうしたことか前回の力強さがなくなっていて、少しがっかりである。 「女」の西山知佐は前回同様難役をこなしていて、はまり役になりそうである。 ところで、あの抹香臭い「エピソード」は、少しばかりヘビイだと思っているが、どうだろう。


新国立劇場