題名:

請願        

観劇日:

04/6/25       

劇場:

新国立劇場   

主催:

新国立劇場    

期間:

2004年6月22日〜7月8日     

作:

ブライアン・クラーク       

翻訳:

吉原豊司      

演出:

木村光一          

美術:

石井強司             

照明:

沢田祐二            

衣装:

植田いつ子            

音楽:

斉藤美佐男 
出演者:

草笛光子 鈴木瑞穂 

 

「請願」


タイトルの「請願」(The Petition)は、「核兵器を先制攻撃の武器として使用しないこと」を請願する意見広告に由来する。サブタイトルの「静かな叫び」に該当する英文を探 したがこちらは見つからなかった。人類がHIROSHIMA、NAGASAKI を再び繰り返すことを永久に封じるという意志を表すには、この訳語では不十分とみた誰かが付け加えたものだろう。
明りが入るとソファに老夫婦が坐り新聞を広げている。上手奥に書斎机、前の壁には大きな地図、インド亜大陸だけを切り取ったものだ。下手の小さなコーナー は数枚の家族写真が掛かった壁に、女性ものと見える書き物用の机と椅子。舞台奥は一段高くなってティテーブルに椅子がおかれ、テラス風に張りだした窓から 明るい朝の光が差し込んでいる。カーテンが風に揺れその窓から時折、自動車の行き交う騒音が聞こえるのは、ここが街中の一角であることを示している。
その朝、「タイムズ」を読んでいた英国陸軍の退役大将サー・エドムント・ミルン(鈴木瑞穂)は意見広告の中に妻レディ・エリザベス・ミルン(草笛光子)の 名を見つける。知らなかったとはいえ、妻にそれを許した軍人として将校クラブでの物笑いの種にされることは必至である。しかし、妻は信念に基づいて署名し たという。
夫八十才、妻は七十二才、これは五十年連れ添った夫婦の半生を彫琢した登場人物二人だけの会話劇である。
1930年代のカルカッタで、夫はインド駐在武官として、妻はインドを統治する英国官吏の娘として出会った。インド生まれの妻エリザベスはガンジーの不服 従運動を知っている。夫エドムントもこれを迎え撃つ立場で当然この民族の抵抗を経験している。夫は英国の威信が傷つけれていく過程として捉え、一方妻はカ ルカッタを美しく楽しい思い出として語る。
この夫婦は、会話の中にいくつか登場するが、インド独立運動、欧州の大戦から冷戦に至るまで、戦争の世紀と言われる時代の生々しい現場近くを生きてきたことになる。
今は鉄の女サッチャーの時代。海の向こうでは強いアメリカを標榜するレーガンが登場し、カナダにもこれに同調する政権が誕生する。対向するソビエトはシベ リアから北極海越しに北米をにらむICBMを、また東欧諸国(ワルシャワ条約機構)にはNATO軍と対峙して戦略核、戦術核を配備する。これに対してアメ リカは北米に二万発とも言われる核弾頭を準備、ヨーロッパの基地にも大量の核を持ち込んで東側との戦争に備えた。
この時期は、世界的に反核運動が盛んになったが、とりわけ北部ヨーロッパにおける核戦争の脅威が高まり、そこでは「ダイイン」や「人の鎖」のデモンストレーションが行われ、万が一に備えて核シェルターが売られたことを記憶している。
このころ英国のグリナムコン米軍基地に巡航ミサイルを配備することに反対して三万人の女性が示威行動に参加したと言うのもこうした状況のもとであった。妻 エリザベスはこれに同調的である。ところがそれを女共の愚劣な騒ぎと決めつけるエドムントは「いや、核といってもピンポイントで使うだけさ。そんなに影響 はない!」という。つまり、この時代、軍人は戦術核なら使用しても大事には至らないという感覚だったことを示している。ヨーロッパの人々はこの空気を敏感 に感じ取っていたに違いない。
初演当時(86年)は「請願」広告の背景について説明がなくてもその切実さはよく伝わったであろう。しかし、それから僅か三年後のベルリンでの出来事、ソ 連のペレストロイカとグラスノスチへの政策転換によって状況は一変する。冷戦は終結し、核の脅威はひとまず遠ざかった。こうした時代を知らない若い人たち にとっては「Petition」と言う言葉のニュアンスが今一つ理解できないのではないかと思った。木村光一もその辺りが気になったと見えて、原本にはな い「サッチャー」云々のせりふを挿入して補ったといっている。(6/29「アフタートーク」で)
夫は国家と政府に忠誠を誓う典型的な軍人として陸軍大将にまで上りつめた。もはや夫の出世の妨げにはならないと判断した妻は、長年考えてきたことをこの日、公に表明したのである。夫は激しく叱責するが、妻は「もう私には時間がないのだ」と不思議なことを言う。
子宮ガンの手術から退院間もない妻は、「既にガンは転移していて、余命三ヶ月と診断されている」ことを告げる。自分が亡くなった後、この美しい地球が核爆 弾で荒廃していく姿を想像すると、それを阻止するために行動しなくてはと思ったのだと語る。夫は驚き、むしろ病気のことを話そうというが、既に話し相手は いるから心配ないという。毎週水曜日、夫が将校クラブへ出かける午後に、夫の友人のやはり退役将校ジェリーがやってきて世間話をしながら穏やかなときを過 ごす、それが何よりの慰めになっているというのだ。
夫は嫉妬を抑えながら許そうとするが、それをきっかけに、妻の自分の副官ピーターとの浮気を知っていたことを明らかにする。夫を陸軍という恋人にとられ、 自分はひとり放っておかれたというのが妻の言い分である。「二年の間」と妻が言うと「二年と十三日だ」と夫はいう。夫はすべて見通して耐えていたのだ。 ピーターの転勤によってそれは自然消滅した。その頃に描いた風景(情人といった旅の)が一枚色あせてエリザベスのコーナーにかかっている。夫はそれをとる と怒りを込めて床にたたきつける。
もはや「請願」広告から離れて、この夫婦は自分達の半生の問題をそれぞれの立場から激しく論じ合っている。
夫は自分の考えは「モノクロ映画の恐竜」のように古色蒼然と見えるはずだと自嘲する。事実、古い武士道あるいは騎士道のような精神を軍人の理想として今日 まで生きてきた。一方妻は、六十才になって大学で教養を磨き、いまでも芸術家や知識人との社交に時間を費やしている。議論はことごとく対立しているのに 「一年半前の私たちのセックスは素晴らしかった」などと言をはさんでそれが決裂することはない。
結局そのような論戦ともいえる会話が彼らの愛情のかたちなのだろう。人生観の違う結婚生活は成立しないという意見があるのを知っているが、これほどラディ カルな議論をしてなお壊れない男女の仲があるとすれば、人生観などという「ものいい」がいかにも軽薄に聞こえてくる。男と女の間に存在する愛情とはもっと 成熟した何かなのだとブライアン・クラークは言いたいのだろうか?
膨大な台詞をキャッチボールする俳優も酷だが、観客をかき立て、退屈させずに見せる演出家の方が数段大変だと思った。妻は手術後の身だからあまり動けな い。夫を歩き回らせることになるが加減がむずかしい。見ているほうも台詞を聞きのがしたくない。それぞれの事情で緊張する舞台である。草笛光子は時々と ちった。が、それは愛嬌といってもいいだろう。鈴木瑞穂は感情の起伏が激しい役柄だからかえってやりやすかったかも知れない。若いころのような台詞回しを 期待するのは無理としてももう少し明確な「言葉」が欲しかった。草笛光子は舞台経験の豊富な役者だが、二人だけの会話劇という説得力を必要とする芝居には 必ずしも向いていないのではないか?包容力は見せられても、深く刻むような感情表現は無理だと感じた。これまでは核戦争のことなど考えたこともない幸福な 人生だったとアフタートークで語っていた。それはけっこうだが、新劇の女優なら言わない言葉だ。再演のキャスティングは要検討。
核戦争の脅威とかものものしいコピーの前触れがあったが、それは物語のきっかけにすぎなくて、終わってみれば、ようするに老夫婦が自分達の半生について議 論することがテーマになっていたようだ。軍人の超保守主義を代弁する男=滅んでいくべき思想・体制に対して妻の自由で合理的で生産的な考えが対置される。 核兵器のイメージも人間が溌剌としていきていく「生」に対して、地球が壊れ人間が住めなくなると言う「汚れた、穢いもの」として描かれている。 「Petition」は必ずしも政治的な「反戦」を意味しない。この穢い武器はどちらの陣営であろうと「禁じ手にしてしまえ」という願いなのだ。「反戦」 の芝居と誤解したいのはわかるが、それは少し違う。
この芝居は「ザ・ゲーム」「線の向こう側」「手のひらのこびと」と続いた新国立劇場シリーズ「女と男の風景」の最後を飾る作品である。
僕は普通に「男と女の・・・」と読んでいたがあるとき逆なのに気がついた。なるほど「ザ・ゲーム」の老夫婦の主導権は妻にあった。戦場を日常と受け入れて たくましく生きるのが「線の向こう側」における妻であった。「てのひらのこびと」の高校教師は男子生徒と駆け落ちするという大胆な行動に出る。そして、こ の「請願」にもガンによる死を受け止めてなお古いイデオロギーを超え、人類の明るい未来を見ようとする妻の姿があった。
栗山民也はこのシリーズを企図した理由として、ハムレットの「演劇は時代を映す鏡である」と言う台詞を引いて説明している。(「請願」公演パンフレット) 多様化する現代世界を表現するキーワード、「差異」と「共生」と言うことを、女と男の関係性にも当てはめて見つめ直してみようと考えたのだ。
結果は始めから見えていた。近代化と工業化は男女のフィジカルな差異を強調した。戦争においては勿論である。しかし、高度に発達した消費社会、情報化社会 においては性差は次第に意味を変容させる。(たとえば、日本の女言葉がすたれようとしているように。)男にとっては自らの世界への女の浸出である。自分の 立場を侵された男は、女との間にあらたな距離を持とうとするが、その感覚がうまく作れなくて戸惑っているように見える。女が関係性をリードする時代になっ たのである。
シリーズ四作は、背景となった世界は様々だが、そこにある状況は紛れもない現代社会であり、その中に投げ込まれた女と男の風景は明らかにこれまでとは違う 色合いに変化しつつあることを示した。ただ、ひとつ気になることがある。「てのひらのこびと」に描かれた日本の状況認識は恐ろしくリアリティがあったにも かかわらず、僕はそれでいいはずがないという危機感を抱いた。鈴江俊郎の感性は自信を失ってとらえ所のない現在の日本の状況をほぼ正確に捉えていたと思 う。その風景の中に見える女と男の関係性には、リードする女の存在にもかかわらず、新しい状況を切り開く力強さを感じることは出来なかった。
栗山民也は、先ほど引用した文章の終わりをこう結んでいる。
「・・・そして、曖昧と無力さを自覚しながらもそれをのり超えるだけのエネルギーを持ちえぬ日本人である私自身は、それぞれの『私』をぶつけ合う凄惨にも強い真実の力に、潔く自己の責任をとる人間としての大いなる勇気を覚えるのです。」
勿論「請願」について書かれたものだが、この人の文章は、時々文意をとれないことがあるので困る。そこで勝手な解釈を施すと、「曖昧と無力さ」を自覚しな がらのり超えられない日本人とは「てのひらのこびと」に現れた「平和ボケ」とも言える現在の日本の求心力を失った状況をさしている。それに比べると、明確 な「私」を持つアングロサクソンは、「私」を守るために「私」をさらけ出して凄惨とも言える戦いを挑み続ける。つまり、急に乱暴な言い方で恐縮だが「毎日 肉を食って生きてる人種は、八十才になろうと元気で血気盛んだ。」と驚いているのではないか。
しかし、この老夫婦のタフさに驚いてばかりもいられないだろう。
僕らは既に現代世界の「差異」と「共生」の問題に無縁ではいられない。

                        (2004/07/1)

 

 


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