題名:

世紀末のカーニバル

観劇日:

04/2/27

劇場:

紀伊国屋サザンシアター

主催:

地人会     

期間:

2004年2月17日〜29日

作:

斎藤 憐

演出:

木村 光一

美術:

横田 あつみ     

照明:

室伏 生大    

衣装:

宮本 宣子

音楽・音響:

日高 哲英・斉藤 美佐男

出演者:

渡辺美佐子 武正忠明 順みつき  佐川和正 高安智実 田中壮太郎  鈴木慎平  飯田和平 沢田冬樹  日下由美  花王おさむ
 
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「世紀末のカーニバル」

  この間、宮城県沖地震の時浅野知事が不在で問題になった。ブラジル移民80年とかの行事に招かれて地球の裏側にいたのだ。こんなことで責任追及しようというのは卑しい根性である。地震は知事なぞの人格や行動にかかわらずいつでも起きる。そんなときほど役人連中など当てにならないと心得たほうがいい。いかなる天変地異も起きうるのだから自分がどう対処するか、肝心なことは普段の覚悟の問題である。
 いや地震は本題ではなかった。
 宮城県からブラジルへ移民して80年といえば既に三世代以上代替わりをしている。他の県でも事情は同じようなものだろう。80年たっても遠く隔たった先祖の土地を忘れない。それどころか律義に現在の知事を招いて紐帯を確かめる。人間とは不思議なものだ。
斉藤憐によると移民は、英国からの借金で賄った日露戦争の戦費を返すのに、税を取り立てたのがきっかけに始まったという。現金収入が無い農村は疲弊した。大正から昭和初期にかけての経済恐慌と冷害による飢饉もまた移民に拍車をかけた。当時の人口は、今の半分以下であったろう。〈少子高齢化といって恐れているのは片腹痛い。〉それでも我が国は飢えた。食えなくなったらやがて不満がつのり政権は危うくなる。そうなる前に人口を減らすには移民しかない。
 外務省は南米に交渉していくつかの受け入れ先を見つけた。だましてでも入植させるのが国家戦略だから、後で随分恨まれた様子が芝居の中に描かれている。こんな役人は憎まれて当然である。斉藤憐はこれを称して「棄民」とどこかに書いた。しかし棄てられたほうも頭からお上を信じていたわけでもあるまい。ごみのような言われ方は不本意であろう。どうせ小作農の次男三男、日本にいてもいいことはあるまいと覚悟して故郷をでたのだ。覚悟とは、野垂れ死にしても責任は自分で引き受けることである。
 同じ頃、日露戦争に勝って以来の足がかりがあった分満州には行きやすかった。満州は中国には違いないが、万里の長城の外で、十以上の軍閥が覇を競っている無法地帯である。〈アフガン戦争を思い出したらいい〉この連中をてなづけた帝国日本は、特に関東軍はほとんどここを自分のものという気分で見ていたふしがある。働き場所はいくらもあった。南満州鉄道はソ連などの妨害はあったが大威張りで営業していたし、開墾すべき土地は勿論〈中国人の土地だったが〉、牡丹江の露天掘りの炭坑、国策会社、日本産業株式会社〈日産自動車の前身〉などがあった。相当の投資を続けていたのは、ここに植民地を作ろうと言う意図があったからである。途中から五族共和の独立国に変更したまではいいが、時の勢いは止めることが出来なかった。
 
  永瀬タツ〈渡辺美佐子〉は、満州からの引き揚げ者である。夫がシベリアに抑留されて行方不明になったので息子ミツル(武正忠明)を連れて青森野辺地へ帰った。帰っても食えないから下北の開拓村へ入植し、そこで出あった男と所帯を持った。子どもが出来たところへ死んだと思った夫が帰ってくる。迷ったあげく長男だけを連れて下北の家をでて、夫とともに飯場を転々としているうち東京でブラジル移民のポスターを見て応募したのであった。この時期にも海外で一旗組は存在したのだ。
 だから、ブラジル移民一世といっても戦後何年も経ってからの移民で、しかも戦前満州移民を経験しているという点では珍しいケースである。
 永瀬一家は、孫であるマリオ(佐川和正)と三人、電機会社の吉井(花王おさむ)の持ち家で暮らしている。この家には他に沖縄出身の移民阿波根義雄〈飯田和平〉と息子シーロ〈沢田冬樹〉と今は、通訳をかねて日系人の生活の面倒を見たり情報発信したりしているがもともとサンパウロ大の社会学助教授であるイネス〈日下由美〉が住んでいる。
ミツルには大学病院の医者である妻へジーナ〈順みつき〉がいて、ブラジルで一人頑張っていたが給料の遅配などで生活してゆけなくなり、ついに日本に出稼ぎにやって来る。医師免許は日本で通用しないから、看護婦の仕事につこうというのだ。
 吉井の電機会社の様な部品メーカーへ出稼ぎの労働者を斡旋したりその家族の面倒を見ているのが、沖縄出身で自らも移民であった謝花紘一(鈴木慎平)である。イネスもジーナも謝花の世話で職場を得ている。
 当面のトラブルは、ブラジルしか知らないマリオが電機会社で朝礼をしたり日本風にしつけられたりするのに反抗的で、一向に定着しようとしないことである。
マリオはすったもんだのあげくに日本人の娘とブラジルに帰ってしまうのだが、何年もしないうちに日本の良さを見直したといって舞い戻ってくる。
 そのうち、タツが下北に置いてきた息子上村耕作(田中壮太郎)が突然現れ、恨み辛みをぶつけるということになる。しかし耕作が陸奥小河原開発で手にした金をちらつかせると、ちゃっかりそれを出資させて、タツは日系人相手の雑貨屋を開いてしまう。これが成功して、暮らしは順調に見えたが、日系人社会と日本社会には微妙なずれが生じていることを誰もが気づくようになる。
 結局、ミツルとへジーナ夫妻はブラジルへ帰ることになり、阿波根もまた息子をおいて帰国を決心する。
 物語は平成元年に始まり、平成七年のナガセ夫妻の帰国で終わる。
この間、日系人の出稼ぎは増加の一途をたどり、受け入れる自治体もポルトガル語教育や行政サービスの面でそれなりに対応策を打ち出してきた。しかし、バブル崩壊の影響が徐々に現れ、働き先が安定しているという状況は望めなくなった。
 「ミレナ」の後というのが少し腑に落ちないが、こんど斉藤憐は、日系ブラジル人の出稼ぎという問題に注目した。何故にという問いに対する答えがとりもなおさずこの芝居である。日本社会の中に一時的に異質の文化が入り込んで、それがどのような影響を与え、いかなる結末を迎えるかということである。異質と言っても元は日本人、あるいは日本文化の影響下にある日系人のことである。肌の色や宗教や習慣を大きく異にする人々がこの規模で日本に入ってきて新たにコミュニティを作ったとしたら、それはまた別の話である。
 ブラジルの日系人は優秀だというのは定説である。ナガセミツル夫妻は医者であり、イネスは大学の助教授である。こういう人たちが食えなくなるというのも困りものだが、出稼ぎ者の実態はそんなところである。一方受け入れる日本人も電機部品の組立という労働集約的事業を営んでいる工場主で、単純労働を引き受けてくれる働き手はありがたい。住宅を提供するなど当然と思っている。それを斡旋する仕事をやっている人間ももとはといえば移民一世で、彼らの苦労はよく知っている。異文化?同志とはいえ、このように善意を絵に書いたような人々の間にそれほど深刻な問題が起こるだろうか?果たして大したことは起きないのである。
 芝居を構成するそれぞれのエピソードは面白い。特に主軸である永瀬タツの半生は、波乱に富んでいてスリリングでしかもしたたかである。肝っ玉「かっちゃ」〈津軽の方言〉そのものといってよい。雑貨屋を開いて周辺を巻き込み、多少のトラブルにもめげず楽しんでいる様子は、この人生が、自分の足でしっかりと大地を踏みしめてきたという覚悟のほどを表していて、見ていて心強い。マリオが日本の習慣になじめないという話はかえって日本人のやり方を見直す機会になるし、シーロが車を買って日本に定住しようというそぶりを見せるのも若者が国というものをそれほど深刻に意識してはいないことを表していてある種ほほ笑ましいともいえる。ミツルにしても、物心つくまで暮らした祖国にいるとは言え、もともとブラジルに医師というしっかりした生活基盤があったわけで、帰国は当然のことであろう。また、謝花紘一が日系ブラジル人の出稼ぎ者を集める苦労も物語の背景を示唆していて重要だが、陰惨な気配などみじんも感じられない。
 これらのエピソードを通じて僕が感じたのは、「よかったね。」ということだ。先祖の国がとりあえず暖かく向かえてくれたのは幸いであった。しかし一方で、僕が最も強く感じたのは日本人は随分変わってしまったということだった。礼儀正しさ、家族の絆、互助の精神、故郷を思う気持ちなど昭和三十年代までは確実にあった素朴な生活信条が日系ブラジル人の社会にはまだ濃厚に残っているにもかかわらず、我が国ではすっかり姿を消してしまった。そのことに気づいて、やりきれない思いになったのである。この物語は僕らが豊かさを手に入れる代わりに失ったものの大きさを教えてくれたのであった。
しかし、斉藤憐が言いたかったことはそれよりも、、国策としての移民と入管法改定の背後にある国家のご都合主義を告発するという主題にあったであろう。確かに日系三世や四世は日系人か?という問題は重要である。イタリア人系はどこまでさかのぼってもイタリアのパスポートを取得できるらしい。それもひとつの考え方である。日本は単一の民族が同じ文化〈言葉〉のもとで長年暮らしてきた。異質な文化の移入に果たして耐えられるかという問題は誰もが懸念するところだろう。
  しかし、国際化〈インターナショナル〉とはいわずグローバル化の時代である。つまり、今後長い時間をかけて国家は実質的にも概念的にも解体されていくのであり、地域共同体あるいはもっと小さなコミュニティがひとつの単位を形成して生きていく時代が来るかもしれない。国家に帰属して生きるという幻想が消滅したらもっと別のルールをあみだしらいいのである。
 そう考えてくると、この物語はそうした時代に先駆けた、もっともおだやかで納得のいくフィージビリティスタディ(Feasiblity study)になっていると気がついた。
それはそれで未来の問題だが、最も現実的で重要と思われるブラジルの現在と将来展望についてこの芝居ではなにも言及していないことが不満として残った。
 ブラジルのハイパーインフレは、ある日突然始まった、という印象がある。その後ストリートチルドレンが大勢射殺されるなど治安の悪化が伝わってきた。一体何が起きているのかこっちは知るよしもない。この間日系人はこうした事態にどのように対応してきたのか?ペルーでは日系人が政治家に、大統領になった。ブラジルの日系人は政治に参加しないのか?彼らが帰っていくブラジルの今後はどうなるのか?この点の見通しについて斉藤憐には少しなりとも見解を入れて欲しかった。そうでないと、ブラジルにおける日系ブラジル人というものが、僕などには、何だか収まりの悪いものに見えてくるのだ。

 演出の木村光一が、肩からぶら下げる巨大な携帯電話をもちだしたり、甲子園の高校野球を話題にしたり、懸命に時代背景を描こうとしているのをみて、それが大した意味を持つのかと思ったものだから、おかしいというよりもほほ笑ましく見ていた。この失われた十年のさなか記憶に刻まれた事柄はいくつかあるが、自分達の生活と結びついた「リアリティ」という意味でなにがあったか、解読された歴史は何一つなくすべては遠いことのように思えるというのが僕の実感である。携帯電話の小型化と多機能化は確かに時間の経過を示して象徴的といえるが、それは便利さの進化というよりはむしろ過剰と停滞を印象づけて、うまい喩えとも言い難い。この芝居の中の日系出稼ぎブラジル人社会もまた時代に翻弄されるというよりは、むしろ時代に関係なく牧歌的時間を過ごしていたのではないかという印象があったので、木村演出の力みが目立ったということである。
 
  さて、役者は脇がよかった。花王おさむはもと喜劇の人だが、いかにもいそうな中小企業の経営者をけれん味なく演じて説得力があった。飯田和平も移民一世としての苦労を滲ませて存在感を示した。そして鈴木慎平。達者な役者である。最近こういう役柄が多いような気もするが、僕は必ずしも適役と思っていない。「夜明け前」の番頭役で見せたような、知的な閃きを表情の裏に隠してきびきびと動き回る、というようなわき役を是非見てみたいと思う。
田中壮太郎のワルぶりも印象に残った。

                         (3/12/04)

 

 


新国立劇場