題名:

千年の三人姉妹

観劇日:

04/3/25

劇場:

アートスフィア

主催:

アートスフィア    

期間:

2004年3月20日〜3月26日

作:

別役実 原作:アントン・チェーホフ

演出:

藤原新平

美術:

石井強司   

照明:

沢田祐二   

衣装:

浜井弘治

音楽・音響:

原島正治

出演者:

楠侑子 三田和代 吉野佳子     金内喜久夫 大浦みずき 小林勝也  三木敏彦 土屋良太 谷昌樹  飯沼慧 伊藤巴子
 


「千年の三人姉妹」

 銀河系を横の方向に覗いてみると、そこは漆黒の闇というわけでなく、白いガスのようなものが漂い、無数の星々が川のように連なり、ブラックホールとおぼしき黒点や強い輝きを見せる恒星あるいは爆発した超新星のまばゆい光が点在し、変転きわまりない宇宙の営みが見える。
 濃紺の下地にこのさんざめく宇宙のイメージを描きだしたホリゾントが舞台一杯に掛かっている。床にも同じような藍色の宇宙が拡がっていて、中央にぽつねんと置かれた実物大の雛壇が、そこがどこでもないどこかであることをファンタスティックにあるいは不安げに表している。雛壇に寄り添うように銀杏か楠か葉を落とした大樹が立っているだけのシンプルな舞台だが、構図といひ色使いといひこれほど日本的な美しさを本質において捉え表現できた舞台美術を見たことがない。戯曲に描かれた世界が石井強司を触発したものだろうが、ここまで飛翔できるとは驚きである。
 笙の笛の音が響いて幕開けを告げる。この東儀秀樹の手になる雅楽がまた舞台の光景にぴたりと合っていて、僕らはごく自然に長い時のパースペクティブに身をおくことが出来る。これが雅楽でなければならなかった理由は、「三人姉妹」だからであり、「三人姉妹」の幕開けには緊張感が過ぎる鼓の音はふさわしくないからだ。
 オリエ(楠侑子)が登場して舞台中央雛壇の前に座る。やがてマツエ(三田和代)、イリエ(吉野佳子)が現れ、アンゴ(金内喜久夫)が登場して、その衣装のよさに気がついた。浜井弘治は、草や木で染めた様な淡い色の素材で、あの時代の意匠を程よく省略して、軽々と優美な衣装を作り出した。高低のない平板な舞台でこれらの衣装を纏った俳優達が下手から上手へと動いていく様は、やや俯瞰気味に覗く日本の伝統的な絵画を見ているようで、浜井が所作と背景との融合を図って考え抜いた美しさだといえよう。これらのスタッフワークを統括した藤原新平の力量が光っている。
 いうまでもなくこの芝居は別役実によるチェーホフの翻案である。登場人物にはもともとの役名を指示してあり、例えば長女オーリガにはそれに近い日本名オリエを、兄アンドレイにはアンゴなどと与え、その人物として見立てている。ところがそれに相当の意味があるかといえば、そういうものでもない。この翻案ということを端的にまとめた文章があるので紹介しておこう。
「周知のように、下敷き(僕は翻案と同じ意味にとった)というのは作者が先行作品の筋立てや人物配置を借りて、自分の作品の骨組みとして利用する手法である。もじりやパロディーもひとつの形であるが、これらが主に原作の権威への風刺を眼目にするのにたいして、下敷きの手法の本来の範囲はもっと広い。英語では「アリュージョン」などというようだが、ある作品が単に古典への依存をほのめかしている場合も含まれる。日本の和歌の「本歌取り」や、浄瑠璃や歌舞伎でいう「世界」と「趣向」の関係などは、下敷き技法の典型だといえるだろう。」(「二組の三人姉妹ム下敷きの技法が救うもの」山崎正和「一冊の本」2001年3月、朝日新聞社「世紀を読む」所収)
 この文脈に従えば別役実は「三人姉妹」の筋立てや人物配置を借りて、自分の作品の骨組みとしたのである。下敷きの技法には、「本歌取り」のように本来の作品がどのように隠されているかを見いだす楽しみ方もあるが、この「千年の三人姉妹」の場合、およそそんなことは気にもならない、二つの作品の間にあるのは何か茫洋とした関係のように思えた。
都から遣わされた田舎で父親が亡くなり、いつの日か京へ帰ることを夢見ながら館で近郷の男たちに春をひさいで生きている三人姉妹という設定である。チェーホフの三人姉妹は貴族的で誇り高く教養がある。この芝居でも一見そうは見えるのだが、実は娼婦であるというところが大きな差異であり、別役の凝らした「趣向」である。
 これにからむのが娼館の主である姉妹の兄アンゴ(=アンドレイ)とその妻ナミ(=ナターシャ、大浦みずき)、それに次女マツエ(=マーシャ)の夫クロー(=クルイギン、小林勝也)がいる。ある日都からこの姉妹の幼いころ親交のあったという恋の中将ブエモン(=ヴェルシーニン、三木敏彦)がやってくる。ブエモンはマツエを誘い、いい仲になる一方、アンゴを博打に誘って浪費させる。クローは妻の元にブエモンが来るたびに家を出て気を紛らわすていたらく。一家は次第に零落していく運命に・・・。
 この三人姉妹は娼婦というなりわいのまま王朝時代のひな祭りの季節(第一場)、そして少し時代が下った七夕の頃(第二場)、更に江戸期と思われる時代の河原、満月にススキを飾る宵(第三場)、最後に戦中と思われる地方の町の大みそか、道端の電柱の下 (第四場)、と、このおよそ千年の間を同じ場所で生きるのである。
 この四つの場は三人の姉妹によって連続しているが、同時にそれぞれが独立している。第一場はチューべー(=チェプトイキン、飯沼慧)がぽっくり亡くなって、遺したビクの中から、五人囃子のひとつが欠けているために金に替えられなかったひな飾りの人形がひょっこり出てくるという暗示的な場面で終わる。果たしてチューべーがオリエに抱いていた心根は?ところがこのチューべーは第二場で再び何事もなかったかのように蘇る。また、それぞれの場で、恋の中将ブエモンが巻き起こす色恋ざたは血なまぐさい、あるいは死にまつわる事件となって展開する。そして、第三場で借金のために首をくくったアンゴもまた次には生きて登場するという具合である。
 圧巻は第四場である。時代は進んで落ちるところまで落ちた姉妹は、もはや都の方角もわからぬまま、戦争の気配の中を漂うように生きている。大みそかの夜、アンゴと思われる男が卓袱台を背中にくくりつけ市民に追われているといって逃げていく。
町外れの街灯の下に座り込んだ三人の姉妹。
「風が吹いていた。」という台詞。電柱を照らし出す一条の光。舞い降りる雪。すなわち、紛れもない別役実の独自世界である。
オリエがぼんやりと「もう死のうかしら。」というとマツエがいざというときのためにと、ブエモンがくれたという青酸カリを取りだして、やかんの酒に溶かす。一同飲むが何事も起きない。「どうしたのかしら・・・」
しばらく間があって「・・・そうだ、私たち、生きていかなくちゃ・・・」とオリエ。マツエもイリエもうなずく。
 こうして、別役実の趣向はチェーホフの「三人姉妹」に重なるのだが、この終幕は何か中空に投げ出されたような身の軽さと、それと矛盾するが、けだるい重さを同時に味わうような奇妙な思いにさせられる。
 もともと、チェーホフは新しい時代の到来を予感しながら、それを迎えることに躊躇している人々を描いた。自身がおかれた時代も立場もそうであった。社会主義の時代にはそのような歴史観のもとで、リアリズム演劇として評価された。社会主義以降は、もっと自由な解釈が許され、いわゆる古典として様々なチェーホフが上演された。
あれから百年経って、僕らもまた新しい時代を迎えようとしている。ところが、立ち去ろうとしている時代さえもはや捉えられず、いま僕らの目にはチェーホフが見ていたような確さで未来が見えているわけではない。
 別役にとって、そのどれもが、自分にとってのチェーホフではないと思われたのであろう。別役がいったん解体した「三人姉妹」の中からとりだした本質は、その「女性性」ではなかったかと僕は推量している。それは女性の「性」と「生」ということである。男を引きつけ惑わし、虜にしはねつける。誇り高い貴族の姉妹が娼婦であるという設定が、そのことを端的に表している。しかも、それを生きる糅としている点で、「生」を同時に表現している。繰り返す男と女の物語、このことに思いをはせたなら、どんな季節の移り変わりも、どんな時代の変化も単に背景として過ぎ去っていくものにすぎない。
 「いつの日か帰る」という望みもあったのかなかったのか?ここいらで「もう死のう」と思うが、死ぬことにそれほどの意味があるだろうか?では「生きていこう」ということに何程の意味があるのか?
 終幕は、生きることの意味が漂白されたように軽く時空を超えていく感覚と、僕らが結局身体をもっているという実存の感覚がないまぜになって、不可思議な気分を味わうことになった。これが別役実の不条理の世界なのか?あるいは、僕らの「生」というものは、冒頭に写し取った書き割りではないが、その宇宙のなかのある「運命(さだめ)」に従っていることの喩えなのか?
いっそドーキンスが言うように僕らは遺伝子の陰謀によって生かされていると考えたほうが気が楽かもしれない。

 キャスティングは現代演劇が望む最高の俳優を揃えたと言って過言ではない。
中でも楠侑子の長女オリエの存在感は、三田和代がいたにもかかわらず、他を圧倒していた。また、すべての「場」を通して飯沼慧が作り出したキャラクターのひょうひょうとして味わい深い老人ぶりは強く印象に残った。それとともに小林勝也の気の抜けたようなろうばいぶりも、おそらく彼でないと加減できない微妙さで表現出来ていたことも書き留めておきたい。

 別役実はこのチェーホフ翻案について、ロシアの貴族社会にあるサロン文化というものを背景にしたおしゃべり、つまり原作にある人生論や哲学談義の様な部分を取り入れてみたかったといっているが、この芝居では明らかに果たせなかった。意外な発言であったが、それをやらないでよかった。
 あのダイアローグを移し替えるには、別役実はあまりにも詩人すぎるのである。                   

      (4/8/2004)

 


新国立劇場

Since Jan. 2003