<%@LANGUAGE="JAVASCRIPT" CODEPAGE="932"%> 新私の演劇時評

「選択ー一ヶ瀬典子の場合」

久しぶりに劇団民芸の芝居を観た。
ついこの間、川崎で起きた尊厳死を巡る裁判に取材した物語である。末期ガン患者が苦しんでいるのを見かねて医者がカリウムを注射して患者を死なせた。訴えられたのが美人女医ということだったために、殺人罪で逮捕されるのではないかとTVカメラが追っ掛け回して大騒ぎだった。終末期医療のあり方が提起されているというのにただセンセーショナルで興味本位の報道に終始したTVをはじめ、マスコミの醜悪さだけが際立つ事件であった。
その後どうなったのか、起訴されて女医のモザイクが取れたもののいつの間にかこの話題は立ち消えになってしまったが、事件の進展を追求、判決までの過程を描いたのがこの芝居である。木庭久美子の本は、場所を千葉のどこかにかえただけで、感情を抑え淡々と事実を伝えようとつとめていた。
健友病院の女医一ヶ瀬典子(白石珠江)は、突然患者を安楽死させたことで告発された。末期ガンの患者で余命いくばくもなかった。半年も前のことである。カルテにはカリウムを注射したことが記録されている。
典子が兄で病院の院長をしている壮太郎(水谷貞雄)の所に相談にやってくるところから劇が始まる。壮太郎は告発された以上は裁判で勝つしかないといって、いい弁護士を紹介しようという。典子は自分のしたことは間違っていなかったと信じているから、白も黒と言いくるめてまで裁判に勝つという気はない。だから兄のいい方には抵抗を感じている。そのうえ、兄嫁芳江(塩屋洋子)に迷惑なことをしてくれたものだ、 病院の経営も苦しいから援助にも限界があるなどとさんざん嫌みを言われる。兄の病院というが実はもともと芳江の父親の病院を受け継いだもので兄は芳江に頭が上がらない。
典子は、兄は当てにならないと思う。それに弁護士はすでに決まっていた。弁護士、 保坂 (伊藤 聡) まだ若くて力は未知数だがまじめで弁護方針も正攻法、典子の考え方と一致していると感じられた。結局、典子は兄の紹介してくれた弁護士を断った。
典子には公判の前に、是非確認しておきたいことがあった。それは、なくなった患者の妻、村石ハル(戸谷友)に会って、あの日の出来事を互いに確かめておくことである。
何日もほとんどつきっきりの看病で疲れていたとは言え、村石ハルは冷静だったと思う。患者は苦しみ続けていた。あの時典子が様子を見に行くと、ハルが典子の袖口をつかんで「もう、見ているのがつらい。この辺で楽にしてやってください。」というのである。もはや手の施しようもなく、一両日の命であった。典子は患者を十五年も前から診ている。症状もわかっていれば、人柄もよく知っていた。その苦しむ様を見ているのは自分としてもつらい。「いいんですか?本当にいいんですね。」と典子は念を押した。ハルは何度も何度もうなづいて「ええ、お願いします。お願いします。」といった。
自分はこれが事実だったと認識しているが、果たして村石ハルもそれがあの日のできごとだったと思っているかどうかである。自分が勝手にやったことではないことを得心したかったのであったが、弁護士の保坂は、村石ハルと会うのは絶対にやめてくれと言っていた。
公判で、村石ハルは必ず証言台に立つことになる。そこには二人しかいなかったのだから、証言が食い違っても一致しても、事前に何らかの交渉あるいは取引、利害の調整があったと疑われてもしかたがない。保坂はそれを心配したのである。
ところがその禁を犯して、典子はある雨の夜、村石ハルの家を訪ねた。すると、ハルは連れ合いが亡くなって半年も経ってからこんな騒ぎになるとは思ってもいなかったと迷惑そうな態度だったが、事実は典子のいうとおりだとハル自身が頼んだことを肯定した。それを聞いて典子は一安心、裁判でもそのように証言してくれるかと訊ねると、ハルはそういう場所には出来るだけ出たくないと口ごもる。しかし、そうなったら事実を言うしかないでしょうという言葉を聞いて、納得した典子はハルの家をあとにする。
実はハルには心配なことがあった。なくなった夫には青森に兄弟はじめ何人も親類ががいる。自分が夫の命をわずかでも縮めたと言うことになれば、何と言われるだろうか。あの場合仕方がなかったというか、あるいはとんでもない嫁だと言われるか、どちらにしてもハルにとっては煩わしいことであった。
初公判の日、裁判所の前でハルは義弟、村石利男(岡橋和彦)に出会う。上京していたが、他の用事が済んで時間が出来たので傍聴しようと思って来たと言うのである。ハルは、事実を証言しようと覚悟してやってきたが、この義弟の思わぬ出現によって、気持ちが揺らいだ。
結局この日のハルの証言は、「楽にしてやってくれとは言ったような気がするが、それは安楽死を望んだわけではない」というあいまいだが、典子にとっては明らかに責任転嫁の内容になった。傍聴席に義弟がいるという圧力がそうさせたのだ。これでは。典子がハルの言葉を勝手に斟酌して、自分だけの判断で死なせたことになる。
裁判は、この線から一歩も進展することなく、結局執行猶予付きの禁固刑で決着することになる。典子は病院をやめて、一年間かけて身の振り方を考える、というところで劇は終わる。
裁判自体は医療裁判に多く見られる結論で、さして驚くような内容を含んでいない。なぜ、そうなったかというと、一ヶ瀬典子は別に確信犯でもなければ、裁判が安楽死、尊厳死の是非を争ったものではないからだ。結局、患者の妻が「夫が苦しんでいるのをこれ以上見るに堪えないから楽にしてやってくれ」と言うのに同情して、カリウムの静脈注射で患者を死に至らしめたということなのである。裁判は、村石ハルの依頼があったかなかったかを争うのが精いっぱいで、それにしても、もしハルが依頼したことを認めればハル自身もただではすまなかったはずである。
大げさに構えた割には、ずいぶんと安易な結論で拍子抜けしてしまった。実際の裁判がこういうことだったのだろうが、それなら「選択」という思わせぶりなタイトルは如何なものであろうか。安楽死、尊厳死についての生命倫理学や医療倫理とかの議論が前提にあって、典子がそれを考え、悩み抜いて究極の「選択」をしたというのであれば、なるほど医療の現場ではそのようなことがあるのかと考えさせられるところであった。しかし、典子の行動にはそれほど逡巡した形跡は見当たらない。苦しむ患者とそれを看病する家族に「同情」したというきわめて感情的な対応にすぎなかったと見えるのである。医者が情に流されるということなら、そのことの方が問題である。
久しぶりに、民芸らしいテーマの作品だと思ったが、どうも素材選びが間違っていたみたいである。登場人物が多くても別に混みいった話でもなく、劇の構造は、村石ハルが事実を証言するか否かという瑣末なこと(本人は義理の兄弟に対してちょっと具合が悪いな、ばつが悪いなという程度のことである。)が中心になっている。カリウムを注射したことはカルテに記録されていることであり、その事実を争う裁判ではない。しかも、その場に村石ハルは居合わせている。典子が勝手にやろうとしたら止められたはずである。さらにいえば、それから何事もなしにすでに半年を過ごしているのである。
劇は、典子の家族のことや村石ハルの家族のことなどどうでもいいことを実に丁寧に描いている。典子も主人公には違いないが、たいした考えもなく能天気に患者の家族に対応したに過ぎないということだったのだから、どうも始めから焦点ぼけしていたのである。安楽死是か非かなどという議論を期待してきた客は完全に肩透かしを食わされることになった。
それにもかかわらず、この劇は語り口がまじめで、終始世の中の重要問題を扱っているのだという力みが見られた。どうもこれが民芸、いや新劇の癖というものらしい。これがとれない限り、民芸が「新劇」の枠を超えることはおそらく出来ないに違いない。その枠とは歴史的なものである。
丸谷才一が「新派にとどめを刺したのが東宝現代劇だとすれば、新劇を滅ぼしたのはアングラだった。」という書き出しではじめたある劇評の中で、こういう癖を新劇の「誠実主義」とさりげなく書いている。続けると、「いまとなってみれば劇団四季の翻訳劇が築地以来の新劇の最後の花だったような気がする。その四季がミュージカルの劇団に転じてすでに久しいし、アングラにはもはやかつての活力がない。ところがいはば新劇の継承者ともいふべき新しい現代劇がいつの間にか形成されてゐた。それは中身があってしかも面白い芝居である。新劇主流の左翼臭や誠実主義も、アングラの情緒的な破壊意欲もここにはない。それは最上の場合には、知的で笑いに富み、観客を勇気づけながらしかもものを考へさせる。たとえば堤春枝の「仮名手本ハムレット」、永井愛の「萩家の三姉妹」。この流派はどうやら井上ひさしから始まったものらしいし、遠く祖先を訪ねれば・・・チェーホフかしら、シェイクスピアかしら。つまり作劇術の正統を嗣ぐといふことになるだらう。」(「新劇とアングラの次に来たもの」永井愛「こんにちは、母さん」劇評、「蝶々は誰からの手紙」マガジンハウス 所収)
民芸が新しい現代劇を模索しているのは痛いほどわかる。しかしこんな底の浅い問題意識で世に物申すなどというのはとんだ勘違いである。丸谷才一が、野田秀樹や鴻上尚史、平田オリザや岡田利規に言及していないのは、この場合当然だが、たとえばこの中でもっとも若い岡田利規が扱うのは彼の同世代の問題である。「ネットカフェ難民」「フリーター」「派遣」「若者の貧困」「下流」・・・。岡田の視点と扱う手つきは独特だが、これらは皆いうまでもなくすぐれて現代の社会問題といえる。
その原因がどこにあるかはすでに明らかである。二十世紀の資本主義国における社会主義が長い時間をかけて獲得した労働者(生活者)の権利をわずかの間に失わしめたことによる。二十世紀の社会主義国が破綻したからといって、社会主義そのものが効力を失ったと考えるのは早計である。マルクスが予言した事がいままさに目の前で進行しているではないか。投機マネーが石油の価格、穀物相場を混乱させ、飢餓があふれ、破壊された自然が環境問題を生んでいる。歯止めをかけなければ資本は暴走する。そういったのはマルクスではなかったか。いっておくが僕はマルキストでも左翼でもない。しかし、資本の増殖の歯止めとなったのが労働運動だったことは間違いないと思う。労働者という言葉はすでに死語だというのなら生活者と言い換えてもいい。生活者が資本に立ち向かう視点を再び取り戻さなければ、問題解決の糸口にはたどりつけないのである。
かつて社会主義に寄り添いながら「新劇」をつくってきた民芸がやるべきことは、出来もしない生命倫理とか医療倫理といった哲学的議論に参加しようとすることではなく、もっと身近なところにある問題に取り組むことである。しかも、かつての左翼臭も誠実主義もすでにどこにも通用しなくなっているから、年長者である自分たちと現代の若者の接点をさぐりながら両者が共感しあえる劇空間を創出する努力以外にやるべきことはない。
がんばってくれよ民芸。

題名:

選択ー一ヶ瀬典子 の場合

観劇日:

2008/01/31

劇場:

紀伊国屋サザンシアター

主催:

劇団民芸

期間:

2008年1月23日〜2月3日

作:

木庭久美子

演出:

渾大防一枝

美術:


内田喜三男

照明:


前田照夫

衣装:

宇野善子

音楽・音響:

鬼沢洋子

出演者:

白石珠江  水谷貞雄  塩屋洋子 青木道子 伊藤 聡 戸谷 友 貞永 淳 渡辺えりか 岡橋和彦 別府康子田畑ゆり 横島 亘 吉岡扶敏
望月ゆかり みやざこ夏穂 今野鶏三
岡山 甫 塩田泰久 庄司まり

 

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