題名:

セパレート・テーブルズ

観劇日:

05/12/15 

劇場:

全労済ホール・ゼロスペース 

主催:

自転車キンクリート    

期間:

2005年12月15日〜12月23日

作:

テレンス・ラティガン

翻訳:

マキノノゾミ 

演出:

マキノノゾミ   

美術:

奥村泰彦 

照明:

中川隆一            

衣装:

三大寺志保美          

音楽:

堀江潤
出演者:
久世星佳 神野三鈴 山田まりや 菅原大吉 坂手洋二 歌川椎子 南谷朝子 林英世 大家仁志 奥田達士 小飯塚貴世江 秋山エリサ 木下智恵

『セパレート・テーブルズ』

ロンドン郊外の町にあるホテルでの話。リタイヤした年寄りが長期滞在するホテルというのは日本では見かけない。賄い付き下宿屋といったところだろうが、普通のホテルなのだからいくら金がかかるか知れない。その金を払えるだけの資産か年金かは持っているのだろう。要は暇な金持ちが暮らしている宿である。そのレストランのテーブルは、それぞれ坐る位置が決まっていて、皆頑なに守っている。窓際のテーブルは、何となく敬遠されている人物が占める。それに、各人とも好奇心をかくして互いに干渉しないという不文律があるようで、二重の意味でセパレートされたテーブルズなのである。
舞台は同じホテルだが、話は関係のない二つの物語で構成されたオムニバスであった。何故そうしたのか意図はまったく分からない。どちらも一時間半ほどの長さがあるから、何も無理にくっつけることはないだろうと思った。テレビシリーズみたいな作りだと理解したらいいのか?それなら話はいくらも出来そうだ。
しかし、そういう仕掛けになっているとは知らないから、一旦終わったあとの話は何だかおまけのような気がした。
ホテルの支配人のミス・クーパー(久世星佳)は、一幕二幕とも登場して、有能なマネージメントぶりを発揮する。だからといって狂言回しというわけでもなく、存在感は希薄で、久世星佳にしてはやや損な役回りであった。
二つの話に共通しているのは、英国特有の階級社会をシニカルに見ている視線である。
ホテルをねぐらにしている新聞記者のジョン・マルカム(坂手洋二)は、飲んだくれの皮肉屋で、ためにホテルの住人から冷たい目で見られている。
ある日、肩の大きく開いたドレスに毛皮のストールをまとった美しい婦人が現れる。リタイアした爺さん婆さんの煤けたようなホテルにおよそ場違いな格好である。このアン・シャンクラント夫人(神野三鈴)は、ジョン・マルカムの八年前に別れた妻だ。ジョンの居場所を突き止めてホテルにやってきた。しかし、ジョンは話をしようともしないばかりか早く帰れと言うのである。
何があったか、二人の途切れ途切れの会話から次第に明らかになる。
ジョンは、港湾労働者から組合活動を通じて労働党に入り、政務次官まで務めた。その頃モデルをやっていたアンに惚れて、惚れ抜いて結婚した。結婚生活は、モデルという職業と両立は難しく、政治も激務であった。アンもわがままだったに違いないが、このいさかいの原因をジョンはすべて育った環境の違いだと思い込んだ。自分は労働者階級の生まれだが、アンはハイソサエティ、言葉も、習慣も考え方も異なっている。そう思えば思うほどアンを愛している自分が許せない。酒におぼれ暴力を振るうようになったジョンが、とうとうある日アンの額を殴りつけて、傷害の罪で告発される。身柄を拘束されたまま六ヶ月が過ぎ、その間に離婚が成立した。ジョンは、党には戻らず、地方紙の記者に職を得て身を隠した。アンは、モデルの仕事を続けながら、再婚したが一年半ほど前に離婚して慰謝料の年金で暮らしていた。もう四十才になって、容姿の衰えが気になりはじめている。
何故、アンは別れた前の夫を探したのか?それは自分の愛しているのはジョンしかいないと思ったからに違いない。だから、もう一度やり直そうといいにきたのだ。
ジョンは、それを察知していた。だから、アンを避けて話そうとはしなかった。しかし、二人の過去をあげつらっているうちに、自分がいかに深くアンを愛していたか、そのために自分を卑下し、足下にひざまづいてアンを畏れたことを思い出した。あの苦しみを二度と味わいたくないと言うが、自分にはまだアンに対する気持ちが残っているのではないかという不安に駆られる。そのいらだちが酒になり、酔って嵐の中に飛び出すという所業は、見守っていたミス・クーパーを心配させる。実は、二人は密かに出来ていた。ホテルの支配人と客という関係は、大ピラに出来るものではないが、ミス・クーパーはジョンを愛していた。
ジョンは、アンに自分がいない間にロンドンに帰ってくれと言い置いてホテルを出たのだが、嵐の翌朝戻ってみると、アンは朝食のテーブルについている。ジョンは離れたテーブルに坐るが、お茶を一緒にしようというアンの提案に応じる。ジョンに昨日のいらだちはない。終いにとうとうジョンは、愛していると告白してハッピーエンドに。
役者としての坂手洋二には初めてお目にかかった。非常にきまじめに、少し固いのではないかと思ったがとりあえず無難にジョンを演じていた。ただ、演出にも言えることだが、この役は、アンが現れたときからおしまいまでの感情の起伏が断固たる拒絶から受容まで激しく大きい。それを一本調子でやるとやや退屈になってしまうものだが、そういう気味がなかったとは言えない。それに、せりふが少し漏れる。活舌が悪いわけではないが、発声法が嘘なのだ。確か「転移21」では役者をやっていたはずだが、山崎哲はその辺に気を配らなかったのか?
神野三鈴のアンは、よく考え抜かれていて、説得力があった。この域まで出来ていたら何も言うことはない。
二幕目の「七番目のテーブル」は、ポロック少佐(菅原大吉)を巡る話。これも階級社会が背景にある。一幕目に登場したホテルの住人はそのままだが、レイルトンーベル夫人(歌川椎子)のところに娘のシビル(山田まりあ)が加わっている。シビルは三十才にもなって対人恐怖症のような症状があり母親の世話になって暮らしている。自立しようと会社勤めをしたことがあったが、一週間ともたずに母親が呼び返した。ポロック少佐はこのシビルの心許せる数少ない友人の一人である。
ある日、ポロック少佐は隣町の新聞を手に入れようと躍起になっている。このホテルではレイルトンーベル夫人が定期購読者でそれを借りればことは済むのだが、彼女が目を通す前にある記事が載っているかどうか確認しておきたいのである。ところがタイミングが悪くて、この口うるさい夫人が記事を読んでしまった。
それによると、ポロック少佐が、隣町の映画館で女性の隣に座って痴漢行為をして、逮捕されたというのである。シビルは、女性の誤解ではなかったのかというが、記事はご丁寧に数時間も映画館にいて三人の女性に不快な行為を繰り返したとあり、もはや逃れようのない事実であった。しかも、勇猛果敢で知られる部隊の少佐というのは真っ赤な嘘で、後方の部隊で賄賂を使って昇進し、中尉で除隊したという経歴まで暴露されていた。
英国の軍隊で佐官級は上流階級出身で、大学を出ていなければほぼなれない。ポロック「少佐」はイートン校をでたといっていたが、普通の公立出の下層階級出身だったのだ。
ここでも、イギリスの階級社会が顔をのぞかせている。
レイルトンーベル夫人は、驚くと同時に、この事実を長期滞在者に知らせ、ポロック少佐をホテルから追い出すべきだと主張する。住人はそれしきのことで追放することあるまいと内心思っているが、破廉恥犯とテーブルを一緒にするのは我慢がならないというレイルトンーベル夫人の剣幕に押され、追放に一票を投ずることになる。
ミス・クーパーは、あくまでも冷静に、ニュートラルの立場でことの推移を見守っている。客の決定に反対を唱えるわけには行かない。
ポロック少佐はシビルの前で自分の性癖について説明する。幼い頃から自分は他人が怖かった。成長するにつれ特に女性が苦手で、女性と親しくなりたいと思ってもそれは恐ろしくて出来なかった。最初に痴漢行為をしてからやめようと思っても、繰り返したという。シビルは、それを聞いて自分と共通するものを感じ、少佐の行為は免罪されるものではないが、同情すべき点はあると思う。そんな人間がいると分かって、シビルはかえって自信を取り戻し、自分は自立すべきだと思う。そして母親の呼びかけに反対の意思を示して驚かせる。
ミス・クーパーは、ポロック少佐がホテルを出ていくべきだというのが長期滞在者の意見であると告げる。彼は、それに対していいわけも抵抗もしなかった。ただ、自分は人間関係を築くことに自信がない。だからこの先どこへ行けばいいか分からない。と途方に暮れているので、ロンドンの系列ホテルに予約を入れてやることにする。
荷物をまとめて七時の汽車に乗ることにするが、ぐずぐずしているうちに夕食の時間になり、なんとポロック少佐はテーブルの席に現れる。
最後はレイルトンーベル夫人と一人を除いて長期滞在者の気持ちが反転してめでたしめでたしとなるのは第一幕と同じで、後味が良い。
良く出来た話だが、最初に言った通り、オムニバスでも二つではなんとも中途半端な気持ちになる。ポロック少佐のエピソードは、シビルとの関係がもう一つはっきりと描けていないために不満が残った。それが「付録」と感じたものである。
菅原大吉のポロック少佐はこの人の飄々とした持ち味が生かされていて、適役だった。相手の山田まりあがここに登場したのには驚いた。グラビアアイドルが何をしようとしているのか、と思ったのだが大きな破綻もなく、神経症の三十女を何とか演じられた。ただ、表現力という点では平板な印象を免れない。
ウエイトレスをやった小飯塚貴世江が面白かった。乱暴でがさつで、そのくせ人をよく観察している。人情もある。もうけ役だったかも知れない。
この芝居は50年代のイギリスが舞台だが、いまと違ってまだ、階級社会が色濃く残っている時代で、こういう話はよくあったのだろう。心理描写が細かく構成もしっかりして如何にも英国の戯曲だと思わせる。ラディガンを演劇人が好きだというのもうなづける。
しかし、こう後味がいいと、それですましてもいいのかねと言いたくもなる。何でこんなにすっきり劇を終わらせることが出来るのか、と少し不満が残る。
ただ、考えてみたら、僕らにとってこのハッピーエンドは甘いおとぎ話に見えてしかたがないのだが、英国階級社会の現実にとっては、特にハイソサエティに対する強烈な皮肉になっているという構造を見逃してはならないと気付く。
日本は、明治維新と大東亜戦争の敗戦で二回もガラガラポンをやっているから、幸い英国のような階級は存在しない。

だから、この劇の締めくくりが甘すぎると感じるのは、かえって幸福だと考えるべきなのである。

新国立劇場

Since Jan. 2003