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「シェイクスピア・ソナタ」

能登にある蔵元の庭先にしつらえられた仮設の小屋で、「マクベス」が上演されている。シェイクスピアを出し物にするこの劇団の公演ツアーの最後の日程は、毎年ここで行われるのが恒例になっている。「リヤ王」「オセロ」「ハムレット」と、四つの悲劇が四日間にわたって地元の人々を楽しませるという趣向である。それというのも、この劇団の座長である沢村時充(松本幸四郎)の妻であり女優である菱川加代子が、酒蔵の当主、菱川宗徳の長女であることから、劇団が菱川から援助を受けている、そのお礼の意味も兼ねて公演が行われるというわけである。
舞台はその酒蔵の建物の二階、事務室に使われているようだが、机が置かれているのはホンの一角で、板敷きの床は片づけられて広々としている。その両端を使って役者の化粧台を置いたり、着替えをするための蔽いで囲った一間四方の空間を俄仕立てに作ってある。廊下を隔てた奥は、少し張り出したような板の間で、目の荒い縦格子越しに床から天井までガラスが嵌まった窓からは樹木の生い茂った庭が臨まれる。上を見ると、元は巨木と思われる長く太い梁が舞台の端から端まで延びていて、組み上げられた柱が、見切りのために手前で切れてはいるが、厚い瓦葺きの屋根を支えている。その屋根のてっぺんはすぐに照明器具がぶら下がっているような舞台最上部にあたるのだが、棟(瓦屋根の最上部)の伸し瓦のところに装飾を施してあり、それが上手から下手へ端から端まできちんと並んでいるのには感心した。ここに目をやる観客は僕くらいのもので、なにも屋根まで細かく作り込むことはないと思うが、磯沼陽子はどういうわけか妙なところにこだわりを見せている。(照明屋は邪魔だったろうな)極めて古風で重厚な老舗の造り酒屋を表現して、少々浮ついた芝居の内容を引き締めるに十分であった。奥に広く開けたガラス窓がさりげなくモダンで、シェイクスピア劇なのだからと意識して見せたところがにくい配慮であった。
さて、この公演は恒例とはいえ、いつもと違っていた。実は妻の菱川加代子は八ヶ月前に亡くなっていたのである。沢村時充は劇団の二番手女優であった松宮美鈴(緒川たまき)と最近になって再婚したが、この結婚は、劇団内部だけでなく、菱川家の人々にも様々な波紋をひろげた。沢村自身が、早すぎる再婚を菱川家、特に当主の宗徳がどう受け止めているか気掛かりであった。ところが、やってきて見ると、宗徳は不在、いよいよ不興を買ってしまったかと、いつもは真ん中で見ているはずの宗徳の空っぽの席を見て動揺していた。その様子を見て松宮美鈴もまた不安な気持ちにさせられる。察知した沢村が、何かと体に触れるばかりに近づいてはなぐさめるといった少々怪しげなぬれ場が展開される。ぬれ場といえば、劇団員の若い二ツ木進(豊原功補)と菱川家の二女、夢子(伊藤蘭)も不倫関係にあり、なにしろ一年にいっぺんの公演でおおっぴらに会えるのはこの時とばかりにこそこそ抱きあったり、逢引の約束などを交わしている。夢子の夫は造り酒屋の専務で婿養子の菱川友彦(高橋克実)であるが、妻の浮気に気づいている様子はない。開幕早々こういうドタバタした男女関係を見せるのは、岩松了の得意とするところで、はらはらドキドキさせられながら劇に素早く引き込んでいくところはさすがになれたものだ。
沢村と先妻の加代子とのあいだに生まれた息子、沢村美介(長谷川博巳)も劇団員のひとりである。父親の再婚を快く思っていないのか何かと対立して、ときには激しい口調で沢村に食ってかかる。好きではいった道ではあるが、まだ歳も若く将来に漠然とした不安を抱えているのであろう。菱川家にとっては、血のつながった後継者としては、夢子のところに子がないので、この美介しかいない。菱川宗徳の心積もりとしては、美介が役者などやめて家を継いでくれることを期待しているという話が聞こえて来る。この後継者ということを巡って菱川家ではある陰謀が密かに進行中である。当主菱川宗徳の経営方針が陋古として保守的であり、不満を抱いた専務の菱川友彦が宗徳の弟で姫路に住んでいる菱川修司と結託して株を集め、実権を奪おうとしているのだ。なんだか「ハムレット」と「リヤ王」をまぜこぜにしたような話で、松本幸四郎+松竹+パルコの「シェイクスピア四大悲劇を演じる役者を襲う第五の悲劇を」という注文に応じて、一応岩松了としては工夫したつもりなのであろう。
他に劇団員には、女優の横山晶(松本紀保)、その姉トミ子と婚約しているという山田隆行(岩松了)が登場するが主筋にはからんでこない。ただし、山田が劇団の世話を焼いて忙しい男なのに婚約者のトミ子としょっちゅう電話を交わしていておあついところをみせているのは、横山晶はじめ劇団員の顰蹙を買っている。「もてない中年男がようやくこぎ着けた婚約」という設定を書いた本人がやっているのをみて、実話なのか、あるいは願望なのか、いずれにしても岩松の強い女性コンプレックスがでているとYがいうのに僕も賛成である。もっとも岩松本人の女性事情について知っていることはこれっぽっちもないが・・・。
一幕目は登場人物の人間関係と物語の背景がすっきりと頭にはいってくる。ユーモアただよう気の利いたせりふ(だからどうだっていうんだ、というしろものが多い)がぽんぽん飛び出すのは岩松了の特徴で、おまけに怪しげなぬれ場もたっぷりあって楽しめる。菱川夢子の伊藤蘭が劇団の若手俳優二ツ木進に迫るところなど、あのキャンディーズの欄ちゃんがそんなことしていいの?という気分になったから記憶というものは不思議だ。
二幕目に入っても、当主菱川宗徳は帰ってこない。自信をなくした沢村時充が突然ハムレット役を二ツ木進にゆずるということがあって、そのために夢子との逢引が出来なくなる。そのあたりから二人の関係がぎくしゃくしはじめて、夢子は次第に現実に引き戻される。二ツ木はこの年上の人妻のあからさまな攻勢を持て余しぎみで、どうやらほっとした様子である。松宮美鈴も周囲の目を気にするあまり、時々なにかの時に失神してしまうという癖がついてしまい、沢村はいらぬことに気遣いしなければならないと苛立っている。おまけに美介の反抗的な態度はエスカレートして、父親に対する感情がむき出しになって現れそれにも対応しなければならない。その間に、沢村と夢子が過去になにかあったようなことを想像させる場面や夢子の夫の友彦が会社の乗っ取りのたくらみを沢村に告白する場面などが挿入されて、話も人間関係も複雑にもつれてくるのであった。
依然として菱川宗徳は帰ってこない。灘で行われた組合の会合に出かけたのであったが、この公演が予定されていたわけだから、とっくに帰っていいはずであった。ところが、灘の後、何故か姫路の弟のところに寄っているとの触れ込みで、さては陰謀がバレてしまったのかと専務の友彦も不安である。そうこうしているうちについに千秋楽の日を迎えてしまった。その日、宗徳が姫路からタクシーに飛び乗って能登に向かったという連絡がはいる。タクシーに延々揺られて帰るというのもあまりないことだが、突然その気になったからたまたま乗った車を走らせたのだろう。千秋楽の演目「リヤ王」には間に合ったが、沢村始め劇団員へ挨拶したのもつかの間、待っていたタクシーに乗って再び能登を後にしたのである。何かしら心配していたことの結論が出たのかどうかはとうとう不明のままである。そのあと、美介がちょっとした騒ぎを起こして救急車を呼ぶはめになるが、どうにか公演は終えることが出来て、何もかも取り残されたまま、一応めでたしめでたしということになる。というか、勝手に終ってしまったのだ。
「舞台と客席の相互復讐劇」というのは作者岩松了の言である。「シェイクスピア・ソナタ」という芝居はそうであって欲しかったという願望を表しているのかも知れないが、客席にいた僕としては不幸なことに舞台から復讐されたという覚えもこちらが舞台に向かって復讐してやったという気にもならなかった。このわけの分からない言葉は、岩松了特有の「勝手な思い込み」というやつで、あまり意味がない。あったとしても実際から大きくずれている上に事大主義というものだ。こういう独りよがりこそ岩松の真骨頂というむきがあったら、僕としては何も言うことはない。
そんなことよりも、第一幕で準備した物語の構想・骨格はそれなりのスケール感と説得力を備えていた。能登の老舗の造り酒屋、この能登という設定もそこはかとなく鄙びて古く風情がある。その当主の娘が女優で、資産家である父親は劇団のパトロンとなって、自分の家の敷地でシェイクスピアを上演させる。薪でもたいて明かりとし、揺れる焔の中でマクベスやバンクオーが動き回るなどと想像したら雰囲気がでるなあとも思う。それにシェイクスピアばかりやっている劇団の座長が「沢村」時充とくる。こういう芝居がかったところは嘘でもほんとらしくていい。そうした背景のなかで、気の利いたせりふをおりこみながら次第に登場人物の関係を明らかにしていくのであるが、それが説明的でないところに岩松の特徴がある。まず、ディテールが示される。それが積み重なることによって関係性が浮かび上がるという手法は、劇全体の構成にも当然影響する。つまり、ディテールの面白さにこだわってそれを積み上げていく方法を演繹的とするなら、岩松了の方法はそれである。結論はどうなるか書いて見なければ分からないという小説家がいることは事実だ。書き進むうちに思いも寄らなかった結末が頭に浮かぶこともあるだろう。それを期待してとりあえず面白いディテールから描きはじめるのだ。これに対して、帰納法的な方法とは、まずしっかりとした構成、「起承転結」のルールに沿った書き割りを作る。大概の映画のシナリオはこうして作るのだが、劇も同じことである。物語の進行途中に何本かの柱を立てて、しっかりとした骨格を作る、こうすれば劇の全体像は、最初のページを書く時に既に明らかになっている。
演繹的な手法は、別に悪いことではないが、途中で話が混乱したり、つじつまが合わなくなったり飛躍したりするリスクが高い。岩松了の芝居を見ていると例えば「『三人姉妹』を追放されしトゥーゼンバフの物語」「マテリアル・ママ」(いずれも新国立劇場)などはとりわけ二幕目が混乱して訳が分からなくなる。この芝居もそれで、第一幕目が比較的好調であったが、二幕目は停滞するうえにしまりなく終ってしまう。当主の菱川宗徳がなかなか帰ってこないのはいいが、帰ってからなにも結論を出さずに再び出て行くというのでは観客はおいてきぼりにされてしまっている。また、過去の人間関係を描くのでも、それがどういう意味を持つのか、思わせぶりなだけである。一幕目で、夢子が俳優の二ツ木進を追い回すところは、そんなに会う機会がないのだから、二人きりになりたい(はっきり言えば身体の関係のことだ)と異常なくらいに積極的である。もともと年に一回の公演でこの地にやって来るだけの俳優と造り酒屋の専務の妻がどうやってこれだけ濃厚な男女関係を結ぶことが出来たのかおおいに疑問であった。しかも二幕目になるとこれがあっさりと分別ある女に変貌してしまう。沢村時充と後妻の松宮美鈴の関係も一幕目は新婚ほやほやということもあって、べたべた抱きあってばかりいたのは納得出来るが、二幕目になるとはっきりした理由も示されずに急によそよそしくなってしまう。二幕目の混乱は、この劇の結論を考慮しないまま書き進め「終らせることが出来ない」うちに舞台にかけてしまったことによると推量される。沢村も松宮も、他の劇団員も自分たちの存亡は、菱川宗徳の出す結論にかかっていることを知っている。専務の菱川友彦も夢子も陰謀に対して宗徳がどのような態度に出るのかを待っている。結局、宗徳は支援を続けるといって再びいなくなってしまうが、何故いなくなる必要があったのかは説明されない。おそらく作者は最後まで、宗徳にどの結論を選択させるか決めかねていたのだろう。しかし、沢村に「再婚したのはけしからん」といって今後の支援は断るという結論にした方が「悲劇性」は強まった。
それにしても、またしても岩松了の独りよがりに付き合わされた。一幕目の期待は二幕目の混乱で打ち砕かれてしまった。もう少し考えてから書きはじめてくれよ。
松本幸四郎は芸達者である。動作も機敏で美しい。しかし、作りすぎてよそよそしいところが玉に瑕だ。今さら変えられるものではないが、「歌舞伎」をすっかりどこかに置いてきてやって見たらどうだろう。それにつけても亡くなった松緑がジャン=ポール・サルトルの「悪魔と神」で演じたゲッツ・フォン・ベルリッヒンゲンを思い出す。彼は、このドイツの勇将をまるで「新劇」俳優のように作り上げたのだ。(相手の日下武史との相性もぴったりだった。ということを考えれば、誰か名優と共演することでもなければ永久に殿様で終るのだろうな。)
菱川友彦の高橋克実は、もともと陰謀を巡らすようなキャラクターでもないし、事業家にも見えはしない。ほとんどなにも作らない素で出ているようなお人好し丸出しの造作だったから、論じる必要もないだろう。老舗の婿養子の如才ないおっとりとした態度の陰にどす黒い陰謀を秘めた実は野心家の悪党という役柄を勉強したいなら鈴木慎平を連れて来るのがよい。
最初に夢子が登場した時は、なんてスタイルがいい女優だと思って見ていた。誰が出ているのかろくに知りもしないで見ていたから分からなかったが、そのうちに伊藤蘭ではないかと思いはじめた。しかしあんなはしたない役柄では出ないだろうと思って半信半疑だったが、いよいよそうだと確信してからは、感心した。適役だったかもしれない。前田文子が当てた衣裳がよく似合っていて、前田はいつもながらいい仕事をしている。
美介をやった長谷川博巳の繊細でストレートな表現には好感が持てた。緒川たまきは、あの女優らしい風情をもう少し生かす演出手法はあったはずだが、特に二幕目は失神ばかりしている損な役回りで、あまりいいところがなかったのは残念。
これが「シェイクスピア・ソナタ」である必要はあったのか?岩松了は自分でもいっているがシェイクスピアを好きなわけではないそうだ。「シェイクスピア好きの人間は、自己主張が強く、いつも勝ちたがっている人間だ。」(パンフレットの文章)自分はそれとは正反対の人間だといっている。従って、なにかシェイクスピアの作品を投影させてこの劇を書いたわけではないらしい。それはそれでほっとするところでもある。同じタイトルでシェイクスピア好きに書かせたらあっちから引用するわパロディは挿入されるわ大騒ぎになりそうで、それは閉口である。
シェイクスピアについて日本人は基本的な認識を誤っているからついでに書いておくが、まず、彼の生きた時代は日本では西鶴や近松が活躍した時代に当たる。次に、残っている原稿は四十何作かあるらしいが、すべて彼自身の書いたものかどうか怪しい、ということである。四百年前のことだから調べるのもたいへんだろう。そして肝心なところだが、世界でもっとも引用されるのは「聖書」次に多いのがシェイクスピアのせりふということになっているのだが、この理由は簡単である。英語圏の多くの国々では子供のころからシェイクスピアを聴かせ読ませ覚えさせる。日本の百人一首みたいに暗記してしまうのだ。今こそ日本では盛んでなくなったが、江戸期から明治大正昭和初期まで百人一首は日本国民の基礎的教養であった。正月のカルタ取りといえば大概の家では百人一首をやった。「千早ふる・・・」も「瀬をはやみ・・・」も「恋すてふ・・・」も知らなければ寄席にいっても面白くない。歌舞伎の出し物も楽しめない、と、それが日本人にとっての百人一首であった。英語圏の人口は日本に何倍あるかしらないが、その英語圏でシェイクスピアが共通の教養ならそれが引用される機会も多くなるというものだ。昔ギリシャ神話の神々を覚えられなくてコンプレックスに悩まされたことがあったが、あれはケンブリッジやオックスフォードの基本的教養だと知ってからは覚える気が無くなった。そういうものである。シェイクスピア好きは自己主張が強いなどというのは馬鹿げた言い分である。日本人でシェイクスピアを有り難がっている連中は、単にかぶれているだけのものだ。西洋かぶれ、西洋コンプレックス。西鶴や近松は読まなくても平気なくせに、シェイクスピアを持ち出されると大騒ぎになる。シェイクスピアは西鶴や近松と同時代の英吉利人にすぎないと冷静に対応すべきものである。知っても知らなくても悩むことはない。
というわけで、岩松了の「シェイクスピア・ソナタ」がシェイクスピアと格別の関係がなかったことに、あらためて僕は安心したのである。なにしろシェイクスピアを素材にして書かれた劇で感心したものは一つをのぞいてなにもない。ヨルダーノの「ゴンザーゴ殺し」がそれである。

 

 

 

題名:

シェイクスピア・ソナタ

観劇日:

07/8/31  

劇場:

パルコ劇場  

主催:

パルコ 

期間:

2007年8月30日〜9月26日

作:

岩松 了

演出:

岩松 了 

美術:

磯沼陽子

照明:

沢田祐二

衣装:

前田文子 

音楽・音響:

藤田赤目

出演者:

松本幸四郎 高橋克実
緒川たまき   松本紀保 
長谷川博己  豊原功補 岩松 了
伊藤 蘭

 

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