題名:

新・明暗

観劇日:

04/10/23

劇場:

世田谷パブリックシアター

主催:

二兎社・世田谷パブリックシアター     

期間:

2004年10月22日〜11月7日

作:

永井愛 (原作・夏目漱石 )

演出:

永井愛

美術:

大田創      

照明:

中川隆一    

衣装:

竹原典子

音楽・音響:

市来邦比古

出演者:

佐々木蔵之介  山本郁子
木野花  下総源太朗 小山萌子   土屋良太 鴨川てんし   中村方隆
 


「新・明暗」

モーツアルトの「交響曲第40番ト短調第3楽章メヌエット」が鳴り響いて明りが入る。永井愛の指定か市来邦比古の提案かどちらにしても漱石をやるぞ!と言う覚悟を感じるいい選曲だ。(僕は、ほう、そうきたか?と内心くすくす笑っていたが・・・)
パイプで組んだ二階建て、コの字型の回廊がほぼ舞台一杯に置かれている。その壁はランダムな矩形で切り取られ向こうが透けて見えるのがどこか大正モダンの印象を作りだしている。上手側だけは二階から階段が下りていて、一階正面は中央に二間ほどの腰高までの仕切りがあるだけ。奥の壁は左右にスライドする。この壁を直径とする回り舞台が設けられていて、役者や大道具の出し入れがある。床もホリゾントも黒一色。大田創は無駄なものを省いてこの上なくシンプルで機能的な舞台を創った。
明りが入ると津田由雄(佐々木蔵之介)がズボンを上げながら医者(下総源太朗)と話している。直腸に開いた穴をふさぐ手術が必要だと医者は言う。腸に穴とは穏やかでないがともかく、津田は痔瘻である。思わず笑うところだが、これは原作の冒頭と一致する。せりふまでほぼ同じところをみるとかなり忠実に翻案していると直感した。
この小説が大作でしかも未完であることはよく知られている。漱石がどんな結末を用意していたのか推理したがる人たち(とくに漱石の弟子筋)は昔からいたが、永井愛は、90年に水村美苗が発表した「続・明暗」に勇気を得てこの作品と「遊ぶ」事にしたと言っている。したがってこの芝居には永井なりに考えた結末を語るという目的がある。原作に忠実なのは当然だ。と言ってしまえば身もふたもないが、実は漱石の世界を描きながら、その語り口には随所に永井らしい諧謔や文豪の知性に対する揶揄、現代社会批判が仕掛けられていて、極端に言えば結論(フラレた理由)がなんであるかなぞどうでもよくなるほど楽しめる。
津田はお延(山本郁子)と結婚したばかりだがそれがストレスになって痔瘻が悪化したと思っている。それには思い当たる節がないわけでもない。お延は津田を心から愛していると信じながら津田の気持ちが自分にないとの疑いを持っていた。商社マンの津田は専務の吉川夫人(木野花)の薦めでお延と結婚した。お延の父岡本(中村方隆)はBSE問題で詐欺を働いた食肉会社の重役で、専務とは知り合いであった。由雄の父親は建設省の官僚で今は長野県の土建会社に天下っている。(ダムを造れないから暇しているとは言っていなかったが。)役人の息子が世間知らずのお嬢様と一緒になったわけである。津田には学生時代にフラレた相手がいて気持ちがまだ残っていた。彼女は何故俺をフって他の男のもとへ行ってしまったのか?その理由が知りたいと思っている。こう言う中途半端な気持ちがお延の心に微妙な影を差しているのだ。手術の日取りを決めて帰った夜、二人が互いの気遣いをするシーンで、抱きあったまま顔をこちらに向けて、言葉とは裏腹の本音や相手の悪意を先読みして独白するなど、内心の生な動きを表に出して見せるのはいかにも漱石である。いわば小説の演劇的表象とでもいえばいいか。恋愛におけるエゴイズム、大げさに言えば近代的自我とその葛藤とはこう言うことなんでしょう?と言わんばかりで笑ってしまう。
津田は病院で偶然妹秀子(小山萌子)の亭主庄太郎(鴨川てんし)と会った。庄太郎は下請け土建会社の社長である。津田は何故秀子はこんな俗物と結婚したのか?と思っている。梅毒を内聞にしてくれという庄太郎の言い方が面白い。「下請け会社の辛さと言おうか、のっぴきならない事情で一回性のメイクラブを余儀無くセットされ、それがたまさか当たりくじになってしまって・・・」。病院での出会いについても「偶然とはすさまじく希有なる確率の配合です。これには意味がある。」などといって、何かと出費の多い新婚生活に援助をしようと金による口封じを匂わせる。津田が家のローンを抱えていて楽ではないことを知っているのだ。庄太郎はなお偶然を侮ってはいけない、我々は偶然に支配されて生きているというが、津田は偶然は複雑すぎる原因の結果であってつまりは解明できる科学だと応じて援助を断る。こう言う「偶然性」にまともに付き合う気はないが、随所にこれに似たさまざまな事柄に対する議論が仕掛けてあってそれらが全体として漱石らしいペダンティックな雰囲気を醸し出している。
梅毒と言っても若い人にはピンと来ないかもしれない。ニーチェといったら思い出すだろうか?僕は昭和40年頃初めて東京に来て、国電の窓から「性病科、淋病、梅毒、○○医院」と言う看板がやたら目に付くのに驚いた。特効薬が出来て沈静化したが、今では罹るものも少ないだろう。だから芝居の時代を現在と見るには少し違和感があるかもしれない。実はそれがこの劇のもう一つの仕掛けで、漱石の時代と現代を自在に往来しながら矛盾を感じさせないところが永井愛の技量である。当然のことだが永井は物語の設定を現代に置きながらなお原作の香りをいかに残すかに気を配っている。ただしそれは「萩家の三姉妹」で翻案したようにチェーホフのエッセンスを現代に置き換えるような構造には見えない。この劇では梅毒もそうだが、管弦楽の重厚な音で場をつないでいくやり方などを見ると、むしろ漱石の世界へ狂牛病の詐欺や天下り官僚や土建屋を放り込むで時代性を偽装したような気さえする。おそらく漱石の小説を解体するのはいいが、時代を置き換えるにはあまりに惜しいものがあると感じたのではないか?それはとりもなおさず現代の日本人が失ってしまったもののはずである。意図したかどうかはともかく、物語がおよそ百年の時空を超えてなお同時代性を感じさせると言う不思議な劇空間をつくった事は確かである。
その時間感覚が非常にうまく表現されたのが、学生時代の友人小林(下総源太郎)の存在である。
その前に外務省ロシア支援室の役人と言う現代の代表選手(初演の時は話題になっていたはず)が出てくるのでそのエピソードを紹介する必要がある。手術を終えた由雄を放ってお延が妹継子(小山萌子)父親の岡本と親子でオペラに出かけた夜、吉川夫人の計らいでフランス料理店で会食することになる。夫人が伴って現れたのが外務省の三好(土屋良太)と言う男、継子の見合い相手である。ギャルソン(鴨川てんし)が料理を運んでいちいちフランス語の解説をつけるような気取ったレストランだ。三好はロシアマフィアに襲われ、たこ焼きを食わして煙に巻いた話などして、いかにも役人らしくそつがない。このときどういうわけか吉川夫人がお延に発言を封じる意地悪をして、お延は密かに由雄と夫人の仲を疑う。
こんなふうに昔も今も高級官僚となる若者には資産家の令嬢を妻合わせるのが普通のようだ。商社の専務夫人といい食肉会社の重役といい由雄のいる世界は典型的プチブル、虚飾に彩られた中流もとい上流社会だと言っていい。現代の言葉ではハイソでセレブな人たちの世界とでも言うのか?
これに悪態をついて攻撃しようとするのが学生時代の友人小林である。何故か小林は由雄につきまとう。偶然出会ったと称して一杯飲屋に誘い、「どん底」を思わせる酒飲み貧乏庶民を指さして留吉(土屋良太)だのトメだの叫び「見ろ!ここには上流社会のように高慢ちきで気取った連中は一人もいない」と由雄に毒づく。今どき日本に下層階級などいるかね?と由雄。「それがいるんだ。連綿と。彼らはひっそりと飢え死にし、ひっそりと自殺する。なんの抗議もしない。お前らブルジョワに絶望しきっているからだよ。だからといって日本に下層階級がいないなんて思うなよ。」無愛想な酒場の主人(鴨川てんし)が階下から(階段はないから仕草だけ)酒を持ってきて庶民と一緒に飲み始めると、「ああやってあらゆる運命を受け入れてひっそりと生きている。」と言い、ドストエフスキーが貧しい人々にいわせた台詞を引いて過去の津田の言辞を攻める。津田は本当に貧しくて教育のないものは高級な感情を持つはずがない。貧しい人々の台詞は作家のテクニックにすぎないといったのだ。ここで酒場の主人が留吉たちに言う。「・・・しかし、俺にはわからない。爆弾や正規の軍隊による大量の殺戮が、何故正しい形式と言えるのか。これは無力の兆しではないのか?」それを聞いて小林は興奮し、ラスコーリニコフの台詞だと叫ぶ。
このあと、津田をエリートとしてさらし者のにするように紹介して、帰ろうとする津田に「中国へ行く。」と告げる。トップ屋になって記事を書いて生きてきた小林であったが最近では過激な記事を買ってくれるころもなくなり、工場進出するアパレルに雇われて中国に行くのである。
この場面、と言うよりは小林の存在に、漱石の時代から今日まで貫く時間軸が設定されており、この劇の原作との関係性が明示され、その通時的な問題意識が芝居の骨格を形成している。
居酒屋の庶民は小林とともに明治の貧しい職人留吉であったり、大正リベラル派や無産者労働者であったり戦後の特攻帰りや革命派市民運動家、ゴールデン街の飲屋の親父果ては全共闘崩れとなって津田たちの「うさんくさい欺瞞だらけ」の世界を激しく撃つのである。
しかし、小林は一敗地にまみれて中国へ行く。(これが満州だったら「歴史は繰り返す」だ!)「津田!俺は淋しいよ」と言う悲痛な叫びは、庶民とともに声を上げるものがいなくなり、自分だけが取り残された淋しさと悲しさなのだ。談合、天下り、あやしい政治家外務省ロシア支援室、牛肉詐欺企業とならべたら僕も淋しい気分になってくる。
さて、津田は吉川夫人の唆しによって、自分をふった女清子(山本郁子)がいる温泉へ出かけることにする。清子はアパレルメーカーの社長天道(鴨川てんし)とその妻と名のる女露子(木野花)に付き添われて温泉療養をしている。この場面でホリゾント一杯に紅葉の様子が描き出され印象が変わる。
津田は散歩の途中、宿の近くのだるま滝で、一年前そこに飛び込んだ商社マンの墓碑銘を作っているという書家、寒凪(中村方隆)と出会って自分とよく似た境遇のその男の話を聞いて不吉な予感がする。一刻も早くとあせるが津田は躊躇してなかなか清子に会えない。
ようやく会うことになった。登場した清子は楚々として小首をかしげ少女の様に言葉少ない。なるほどこんな女だったか。あなたは何故僕を捨てて関のもとへ走ったのか?ようやくの思いで問いただす。
この後の展開は清子が態度を二転三転させる所が面白い。つまりなかなか結論が出ないのだが、僕のなかでは次第に興味が薄れていった。どんな理由だってかまわないのではないか。とにかくフラレたのが「あっという間の出来事で」というなら前後の事情を知らない赤の他人が推理のしようがない。
ジョン・キューザックの映画「ハイ・フェデリティ」もフラレた理由が知りたくて半生の失恋事件トップ5の相手を歴訪する傑作だが、結果は現在の恋人に戻ってくるというものだった。こんなふうに言うとすれっからしのようになってしまうが、過去は過去、所詮は過ぎ去った時の抜け殻なのだ。
津田はそれを聞いてどうしようとしていたのか?おそらく何も考えていなかった。大事にならずに済んだが、津田の優柔不断の態度はあまり褒められたものではない。永井愛が用意した結末は順当なものであった。結局津田は清子の唖然とする決断にもかかわらず状況から逃げ出すことになるのだが、どのみち待ち受ける吉川夫人、お延や妹の秀子ら女共にいじくられて生きていくのであろう。
女を描けないと評判の漱石だが、水村美苗にしても永井愛にしてもあんなふうな清子を代わりに書いてくれて幸せなことだ。(かどうかはわからない。)
再演ということもあり完成度の高いアンサンブルであった。一人何役もこなすことになったが、小山萌子の造形はそれぞれの距離がもっとも離れていて楽しめた。渡辺淳一やエーリッヒ・フロムの「Art of loving」の引用、アンダースン夫人(正体不明)の言葉など愛についてのご託宣を話すところでは腹の皮がよじれるほど笑った。山本郁子がやったお延と清子の落差も面白かった。清子の小首をかしげる仕草などはお延の姿から想像も出来ないことであった。
下総源太郎のやさぐれていてアナーキーでセンチメンタルで不気味なキャラクターが僕にはもっとも生き生きと見えた。軟弱な津田の対極にあって、この劇のもう一つの軸を作ったことは間違いない。ただし、僕の見方が正しいとして、悪役のように誤解されやすいこともあったかもしれない。あのやくざな小林が永井愛の正体ですぞ、皆さん!
木野花はじかに見るのは確か初めてだと思う。なかなか達者だということがわかった。大学で同じキャンパスを歩いたはずだが、どこにいたのか?
期待にたがわず極めて面白い、完成された芝居であった。
わかったことは永井愛の「新・明暗」は完結しなくて十分面白い、「明暗」は補完部分がどうやってもたぶん面白くならないこと、であった。

 

(2004.11.4)
 

 


新国立劇場

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