<%@LANGUAGE="JAVASCRIPT" CODEPAGE="932"%> 新私の演劇時評
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「シラノ・ド・ベル ジュラク」

「これが男の心意気・・・」と声を絞り、中空をにらんだシラノ・喬三(新堀清純)が長い文机の上に突っ伏すと、あたりには次第に暗闇が迫る。白いものがひとひら落ちてきたかと思うとたちまち舞台一杯に雪が舞い降りてきて、見えるものといえば下手奥に建てられた白木の屋敷の縁側と空に照らし出された一対の障子だけである。やがてシラノ・喬三が静かに起き上がって、番傘を広げると降りしきる雪の中に歩を進める。ここで、大向こう(といっても中劇場の客席)から二つ三つ声がかかった。それを聞き届けたかのようにシラノ・喬三はすり足で白い花を付けた喬木の間を上手奥に消えていくというのが、終幕であった。
思えば、肩の高さほどある木が白い花をつけて舞台一杯に広がっている中を刀をかざした武士が走り、切り合うという派手な立ち回りで始まった芝居にふさわしい締めくくりである。
新国劇の「白野弁十郎」は見ていないが、かくやと思わせる日本の様式美が一貫している。いや、むしろこういう世界なら澤田正二郎が翻案した世界を下敷きにしたのかもしれない。
せりふは抑揚というものを徹底的に殺して感情を言葉の中に押し込めた。能のやり方に近い。下あごを大きく動かして母音を強く発音する。独特の発声法である。昔、たぶん利賀村の公演だったと思うが、白石加代子がこの粘着質のせりふ回しで演じていたのを中継録画で見たことがあった。これが「スズキ・メソッド」といわれるものの一つなのだろう。
さらに身体表現にもう一つの特徴が見て取れる。足の運びと所作である。徹底的なすり足で、どたばたと走り回ることはない。それと身体の重心のおき方である。最初に娘芸者たち5人(オーディションで採用された福寿奈央、日和佐美香、大川麻里江、佐山花織、斉藤志野)が登場する場面で、彼女らは腰を落としコサック踊りのように膝のバネをだけを使って現れた。頭の位置をずらさないであの広い中劇場の端から端まで移動したのは、ちょっとした驚きだった。これは少し極端な例であるが、一般的に、腰に重心をおいて身体を動かせばどんな姿勢も楽である。何よりも安定感があって見た目が美しい。こういう方法論は外国でも評価が高いときいた。しかし本音をいえば、昔から能でも日本舞踊でも歌舞伎でもやってきたことではないかとも思う。ことさらのようにいわれるのは、「メソッド」として鈴木が理論づけたというのかもしれない。誰かが日本の伝統的俳優術について紹介しなければ、外国で評価されることなどないのだからこの功績は評価されるべきだ。
それにしても、鈴木忠志には演劇論を語る著作が多い。
「1960年代にデビューした劇作家や演出家は、その後の世代と違って演劇論を盛んに書いたり語ったりしたが、鈴木忠志もその一人だった。というよりも、もっともよく書いたり語ったりした演出家が鈴木忠志で、それだけ影響も大きかった。」(大笹吉雄「鈴木忠志の世界」パンフレットより)
こういう指摘を見ると、確かに唐十郎の「特権的肉体論」を始め寺山修司の演劇論や別役実のエセーなどを思い出す。何故かということに大笹は言及していないが、鈴木の立ち位置を確かめる意味でも戦後の演劇史を考える上でも興味深い指摘である。
大笹吉雄の文から孫引きする。
「演技には『上手』も『下手』もなく、ましてや『芸』などというものが、それ自体で存続するものではないだろう。舞台上を生きる本人が、どの程度の全体像をもって生きたか、つまりどれだけの実在感を、その人なりの生活史的根拠において、見るものに感じさせることができたかという深さの問題の他に、演技について語るべき基準はないのである。ということは、演ずるという行為の中でこそ、この現実が多様にばらまくそれぞれの生活史を背景としながら、その人の固有の意味を、現実以上に、本然的な姿として顕現させ得るのだ、という可能性を信じていることに他ならない。」(鈴木忠志『側面的演技考』)
この晦渋さはまさに鈴木忠志のものであるが、要するに俳優論である。俳優は戯曲の意味を体現する手段であり、演出家の思い描く世界をつくる道具であった。ある役柄をどの程度のリアリティで表現することが出来たかによって、『上手い役者』かどうか評価されてきたが、ここで言う演技とは「舞台上を生きる本人=俳優」の『実在感』だといっているのである。唐十郎の『特権的肉体論』とは少し違うが、寺山にも通じる『俳優=身体性の復権』を主張する考え方である。しかも大笹は、『顕現』と言う言葉に着目して、鈴木忠志は他のものには見られない『能』の考え方にもっとも寄り添った劇作家だといっている。
何故この世代だけが、常識に反旗をひるがえして身体性の復権を唱えたり、反「新劇」論を語ったりしたのか?あえて一言でいうとすれば、60年代は、既成の価値が世界的な規模でラディカルに問い直された時期であり、日本の近代化とともに生まれ育った『新劇』もまた根底から批判にさらされたことである。具体的には、一つは教養人の趣味という狭い世界に閉じこもっていた『新劇』、一つは政治的プロパガンダ、あるいはその運動体としての演劇、という閉塞状況を打ち破る必要があった。特に、鈴木忠志にとっては、別役実らとともに参加していた『自由舞台』が日本共産党の早稲田大学における細胞の一つであったことが関係していると思われる。政治的な頚木から離れて演劇の可能性を模索することは、彼らにとって当時もっとも深刻な問題だったのである。かくて小劇場、小劇団が生まれ、演劇は多様な表現が可能になり、幅広い観客を獲得していくことになるのである。
こうした背景のもとで、鈴木忠志が到達した独自の方法論は上に述べた『俳優論』の中に現れている。演技における上手い下手はないというが、それは俳優が戯曲にある役柄を模写したり模倣するという考え方は、ハナからないからである。むしろ「俳優が自らの生活史的根拠に基づいて示しうる実在感」が重要なのである。
「まずは舞台が戯曲の再現ではないということ。ダイジェストでもない。たとえ劇中に役名らしきものが俳優の口から言われたとしても、その俳優は戯曲の中の役名の人物を、見慣れた舞台のように演じているのではないということ。そういう意味では『役』というものが姿を消した。」(大笹吉雄「鈴木忠志の世界」パンフレットより)
『役』が姿を消すともともと戯曲が持っていた物語はどうなるのか?物語は成立しないはずだ。では鈴木忠志が作る演劇とはどういうものか?実は、それは『戯曲によって触発された鈴木忠志のオリジナル舞台』だったのである。つまり、『シラノ・ド・ベルジュラク』は一旦鈴木忠志の中で解体され、再構築された『シラノ・ド・ベルジュラク』だったのである。
まず、作者エドモン・ロスタンの体験によるということを手がかりに、彼の中でどのように演劇『化』されていったのかを考えたのだという。さらにロクサーヌもクリスティンもシラノの幻想の産物であり、それを書くロスタンをさらに想像している日本人・喬三を登場させたのである。そして「物語はフランス的、音楽はイタリア的、背景や演技は日本的といった組み合わせによって舞台化を試みてみた。」というのだ。
さらにこの作品を作った動機として次のように述べている。
「思えば日本人は明治維新以来、西洋文化に憧れすぎたために自らの居場所を見失い、むなしいミスマッチともいうべき文化活動を続けてきた。そのミスマッチを、もうそろそろ偉大でかけがえのないミスマッチにして、世界共通の財産にしなければならないというのが、舞台芸術家としての私の仕事でもあると思っている。」(パンフレット『かけがえのないミスマッチへの試み』)
なるほどそうだったのか、と思える文章である。
日本人がシラノのようにロクサーヌを想い、クリスティンに義理を果たすというのは考えにくいとは思うが、それほどミスマッチとは感じなかったのはすでに『白野弁十郎』があったからかもしれない。日本人は十分西洋的な恋愛をわが事のように感ずることが出来るようになったのだ。
また、音楽はイタリアオペラだけからとったものとは思わなかったが、確かにミスマッチの部分はあった。日本的な背景や演技に西洋音楽をつけても違和感のない選曲はあるだろうにと思って見ていたが、あれはわざとやっていたらしい。
とまあ、鈴木忠志が書いていることは「理屈」であって、見ている観客にしてみれば、喬三=エドモン・ロスタン=シラノ=ロクサーヌ=クリスティンの何重構造などいちいち気にしてなどいられない。なんといっても物語の進行に関心があるといっていい。そして『カッコ良さ』である。劇中にでてくる殺陣やたちい振る舞いの美しさは十分観客を魅了するものであり、とりわけ最後の『これが男の心意気』というせりふは、「大向こう」から声がかかるくらい「決まって」いる。歌舞伎の西洋がかったものと思えば妙な理屈など知らなくても十分に『劇的』なのである。
それにしてもこの独特の方法論=スズキメソッドで三十年以上やってきたというのはすごいというより他にない。
「東京では16年ぶりの公演」というのを国立劇場が強調しているのに、毎日新聞が『東京至上主義』とかみついていたが、むしろ鈴木忠志が地方にこだわったことこそ問題ではなかったのか?あるいは東京の興行を引き受けるものがいなかったのか?新国立劇場10日間というのは鈴木忠志の名声の割に少し短い気もする。
ともかく、あの時代に曲がってしまったカーブはどれだけ世の中が変っても今さらもとには戻せない。独特のせりふ回しはいささか困るが、見ればくせになるような面白さはある。あの晦渋な文章と饒舌な演劇論に恐れをなして敬遠している人があるとすれば、存外理屈ほどのことはないといってあげたい。
ロクサーヌの鶴水ルイはオーディションで採用されたようだが、理知的で存在感があった。将来が期待出来ると思う。

 


  
               
    

             
  
               
                                                                                

 

題名:

シラノ・ド・ベルジュラク

観劇日:

06/11/2 

劇場:

新国立劇場

主催:

新国立劇場+SPAC 

期間:

2006年11月2日〜11月12日

作:

鈴木忠志  原作:エドモン・ロスタン 
翻訳 辰野 隆/鈴木信太郎

演出:

鈴木忠志

美術:

Art

照明:

Light

衣装:

Dress

音楽・音響:

Music

出演者:

蔦森皓祐 竹森陽一 新堀清純永井健二 吉見 亮 仲谷智邦 久保庭尚子 内藤千恵子     福寿奈央 日和佐美香 大川麻里江佐山花織 齋藤志野 斉木和洋榊原 毅 

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