題名: |
城 |
観劇日: |
05/1/14 |
劇場: |
新国立劇場 |
主催: |
新国立劇場 |
期間: |
{term}2005年1月14日〜1月30日 |
作: |
フランツ・カフカ・構成 松本修 |
演出: |
松本修 |
美術: |
島 次郎 |
照明: |
沢田祐二 |
衣装: |
太田雅公 |
音楽・音響: |
斎藤ネコ・市来邦比古 |
出演者: |
田中哲司 坂口芳貞 小田 豊 真那胡敬二 福士惠二 小嶋尚樹 高田恵篤 宮島 健 AKIRA 小河原康二 中田春介 佐藤 淳 石母田史朗 粕谷吉洋 若松 力 石村実伽 大崎由利子 石井ひとみ 葉山レイコ 秋山京子 井口千寿瑠 木下菜穂子 太田緑・ロランス 金子智実 平川 愛 松浦佐知子 |
「城」
この芝居には映画やテレビでは到底味わえない舞台ならではのおもしろさがふんだんに盛り込まれている。松本修は実に摩訶不思議で猥雑でわくわくするエネルギッシュな劇世界をつくったものだ。これはカフカの「城」に違いはないが、少し大所から眺めると、60年代から始まる不条理劇や「新劇」解体、小劇場運動、あとに続く野田や鴻上たちを飲み込んで我が国の演劇文化を集大成したような様々の要素をカフカの世界で束ねた一種のパフォーミングアートになっている。
一昨年僕は「AMERIKA」の再演をはじめて見て松本修の変貌ぶりに驚いた。井手茂太の振り付けた群舞によって場をつなぐやり方や主人公カール・ロスマンを女性も含む複数の俳優によって演じさせるという発想、適度な省略によってできるテンポのよさなど演出家の感性が遺憾なく発揮された舞台であった。
僕は、この時の劇評をこう締めくくっている。
「・・・最後に、これほどやれるなら(というのは失礼!)演出家としての松本修をプロモートする方法を提案しておきたい。
まず、この芝居を新国立劇場にもっていき、もっと多くの国内の観客に紹介すると同時に海外のプロデューサーに見せる機会を作る。
次にイギリスかフランス、その両方で公演を企てる。その成功を逆輸入する。
(業界人だからすぐそういう発想する!)←僕のことです。
この芝居は、世界に知らせるだけの価値があると断言していい。」(2003年3月15日)
あれから二年になるが、僕の希望は案外早く実現できた。
「AMERIKA」との比較で言えば、最も大きな違いは「カフカとは何ものか?」という避けがたいテーマをこの芝居ではすっかりふっ切れたように洗い流していたことだ。このことによって、かつて「AMERIKA」を上演するにあたって彼が考えていたカフカの世界とは現代演劇、とりもなおさず松本が描きたい劇的なイメージをむしろ現出させる手段として使おうという野心が鮮明になったことだ。彼はこう書いていた。
「原作の小説をどう身体化、舞台化していくか、その結果が作品となる。この作業にカフカの『アメリカ(失踪者)』はうってつけである。その整合性のなさ、唐突な展開、中断、そして未完であること。現代演劇の必要十分条件を備えている。まさに二十世紀の世界、我々が知っている人生そのもののように思える。」
「AMERIKA」では、「変身」の冒頭部分やカフカの実人生を思わせるシーンを挿入して、作品と作家の関係について言及しようという構えを見せた。しかし、文学青年のような議論を留保して、山高帽の若い男が夜の列車に揺られてどこかへ運ばれるという暗示的な場面でうまく終わった。(若い人の中には社会性や政治性をほのめかすのは余計という評もあった。)こう言うことから作家にこだわった形跡は見えるが、本音はやはり「現代演劇の必要十分条件」をその物語の中に「発見」したことがカフカを取り上げた理由なのだった。
この「城」にはもはやカフカの影は見えない。ヨーゼフ・Kはカフカが創造した自分の化身であるが、あくまでも小説の主人公である。松本は小説に忠実な世界をつくりながら紛れもなく演出家の中にうずまく演劇とはなにか?という想いをさまざまなイメージを繰り出して表現した。「現代演劇の必要十分条件」をこの様な方法論として確立したと見えて、少し性急な言い方かもしれないが、次はカフカでなくて十分やっていけるという自信を示した舞台でもあった。
城を目指して雪深い村にやってきたK(田中哲司)が、よそ者を怪しむ村人たちに尊敬される職業をと、とっさに測量士だと名のるところから、この果てしなく奇妙な物語が始まる。城は目の前にありそうだが、様々の障害によって決してたどりつけない。測量士の助手として派遣されたスパイとも協力者とも見える二人の男がつきまとい、愛想はいいが恐ろしく曖昧で官僚的な村長(坂口芳貞)や狡猾そうな酒場の主人などKは城と関係する村の人々によって翻弄される。そうこうしているうちに迷い込んだ酒場で出会った城の役人の愛人フリーダ(石村実伽)と恋に落ちて一緒に暮らすようになる。なぜか測量士の仕事は取り上げられ、困ったKは学校の用務員に職を求めるが、空いていた教室でフリーダと同棲しているところを教師に見とがめられ追いだされるはめに。馬喰の助手という最低の仕事にひろわれて一息つく。そんな苦労とは裏腹にKは何故か女にもてる。自分でもわけがわからず女の誘惑に乗ってしまうのをフリーダが気付いてKから離れていってしまう。結局この浮気性、女好きは最後までおさまることはない。「AMERIKA」のカール・ロスマンもそうであったが、カフカの主人公は一様にお調子者で女にもてる。自分がそうだったのか或いはそう望んでいたのか何れにせよこの意外な明るさは、カフカにおける救いだと感じる。
このKを演じた田中哲司はいつ見ても今起きてきたばかりというボォーとした顔で、心ならずも運命にもてあそばれる受け身の人間のイメージにあっている。長身でどこか女にもてるだけの愛嬌があって、初日のせいか台詞のあやしいところを除けばなかなかの出来栄えだった。寝起き顔の役者というのもめずらしいがこれほどの適役もない。
フリーダの石村実伽は、「AMERIKA」では複数いたカール・ロスマンのひとりであった。さわやかな「少年」らしさをつくりだして、倒錯的な演出の要求に応えていたのが印象的であった。この舞台ではKと恋に落ち身も心も一体になりたいという大胆な演技で、上半身をさらしてだきあいながら床を転げ回った。しかしこちらは役人の情人としては適役とも言えず、劇中文句無しのヒロインというわけでもなく、終わってみればKのいい加減さに圧倒された損な役回りだった。ただ表現力は確実であり、もっと活躍していい役者だと思う。
この二人を除いて村人のほとんどは下まぶたに墨を入れ肌を褐色に塗ってKと相対する側の不気味な印象を作った。この群像によって松本が描き出そうとしたことは多い。
それは、総体として言えば演劇のもつ反社会性ということである。いや、むしろ芸術一般が包含する日常性へのプロテストというべきかもしれない。
あるときKが村人の家を覗くと何人かがたらいで湯浴みしているところだった。その中に村人ブルンスヴィック (AKIRA)がいた。その体は明らかに鍛えられた筋肉ででき上がっている。太い首盛り上がった胸浮き出た静脈、憤怒を表す強い眼差し、それらは暴力の象徴であり異形のもつ破壊力の喩えである。このような肉体は脈絡もなく置かれても十分に演劇的であり観客に野性的な興奮をもたらすものである。
異形といえば福士恵二が演じたゲルステッカーという村人も奇妙であった。腰をかがめ首を異様に前に突きだして群衆をリードする姿はまるで獣を見るようだった。この一団が消防隊として現れ、客席に向かって行進して消えていくのだが、それには民衆のとてつもない破壊力が潜在しているように感じさせる。
Kが用務員となった学校の校長(佐藤淳)と教師(大田緑・ロランス)の酷薄さも凄まじい。教室での同棲を発見した教師は半狂乱のあげく校長を呼び、校長は情け容赦なくKを首にしてしまう。Kの鷹揚さに比べると身をきりきり苛むような異常な怒りにみえる。
また、たまたま訪ねたバルナバス(石母田史朗)の家が何故零落したかという長い物語が挿入されるが、これはKと直接関係の無い話である。この劇中劇は消防団やらポンプ車などが運び込まれてはでに展開される。しかし、城を目指すKが村人に翻弄されるという本筋とは関わりの無い物語なのだ。不条理、唐突な展開、これこそカフカたる所以といっていいかもしれない。
これらは原作を忠実になぞったもののようだが、このようなイメージとして表現したことこそ、松本修が「現代演劇の必要十分条件」という言葉で示そうとしたものに違いない。
一体この言葉はあたかも現代演劇の理想に合致した形式を備えた劇と言う意味にとられそうだが、必ずしも必要十分条件が数学的に満たされているということではあるまい。
それはむしろ現代演劇が到達した地点をさまざまな方向から眺めてその場所を確認する態度のように僕には思える。このことを少し大急ぎで語ってみたい。
築地から始まった我が国の新劇の歴史は戦後俳優座、民芸、文学座によってリードされた。とりわけ俳優座の千田是也の影響力は絶大だった。千田は日本共産党のシンパであることを隠そうとしなかった。彼の翻訳するブレヒトは装いは違っても内実は政治的なプロパガンダであった。60年安保のあとも日共はたいして傷つかなかったが、すでに異を唱えるようにベケットやイオネスコ、サルトルなど海外演劇の新しい波が押し寄せてきていた。そうした中で別役実や鈴木忠志、少し遅れて、清水邦夫らが現れて不条理劇と呼ばれるものが上演されるようになる。しかしながら政治的な影響力は続いていた。自由舞台の担い手だった別役は何をやるかは党中央の方針を気にせずには決められなかった、とどこかで書いている。まもなくそうした脈絡とはまったく異質の寺山修司、唐十郎が現れ独自の展開をはじめる。小劇場運動である。ベトナムの戦火は止むことなく、これに反対する反米帝国主義、安保粉砕を叫ぶ若い人々によって指示された。70年安保改定が近づくと67年当たりから各劇団の若い層が造反をおこしはじめる。俳優座では中村敦夫がリーダーとなってゲバ棒を握った。結果、若い役者の多くが劇団を去った。しかし千田是也の老害は遅くまで残って現在の俳優座の無残な姿をもたらした。(ダイエーの中内功も似た存在だ。)思想的に堅固というわけではなかったが文学座は四分五裂し、民芸は鳴りを潜めた。寺山、唐のあとに続く者たちが大勢出てきて七十年代初頭は小劇場の時代だったといっていい。70年安保の興奮が冷めていくにしたがって演劇はやや沈静化するが、80年代に入るころから野田秀樹、続いて鴻上尚史らが現れそれまでとは全く別の若い観客を獲得して演劇の世界は一変した。この後は誰が注目を集めるということもなく多様な表現テーマ、多元的な方法で個別の活動を続けているという状況である。97年になって国立劇場ができるが我が国の新劇の不幸な歴史がわざわいしたのか「演劇界」の関心が高いとは言いがたい。これをつくるときに俳優同志がどんな劇場にしたいか話しあったらしい。その時のことを平田オリザが書いている。滝沢修の発言には失望したと。「自分は年寄りでトイレが近い。だから舞台の袖にひとつ作って欲しい。」といったのだそうだ。若いときに自分を監獄にぶち込んだ国家が今さら何を言うと思って嫌みを言ったのだったらたいしたものだ。平田はこんなことは書きにくいといっているが、書きにくさのあるのが「演劇界」らしい。(言いたいことをいってどんどんケンカしたらいいのだ。)
さて、この「城」は言うまでもなく戦後の不条理劇の系譜に入る。世界はこのような理不尽で整合しない事柄に充ち満ちている。劇中スライドで挿入されるカフカのアフォリズムは、「AMERIKA」の時よりも過激で、論理的に明らかに矛盾する二つの項を並列するやり方で観客に強い違和感をもたらす。意味があるかといえば、あってない。また、あの敵対的で苛酷な群衆は僕らに他者の世界の存在を示唆する。異形なる肉体は僕らに暴力的で破壊的な身体性を自覚させ、日常性をうち破る。俳優の踊りは言葉が記号化して意味が希薄になったポスト構造主義の世相の演劇(野田たち)を彷彿とさせる。
こうして僕には松本の作り上げようとした「城」が奇しくも戦後の演劇の歴史をなぞっているように見えるのだ。無自覚であるかも知れない。しかし、扇田昭彦がまとめた松本の足跡をながめていてもそんな気がした。「AMERIKA」で発見したカフカを振りきるために寺山の不気味な非日常性を利用して、松本修はついに現代演劇の出口に到達したのである。
この芝居はおもしろい見せ場が随所にあってここで書ききれないが、いくつか上げておこう。
まず踊り、井手茂太の振り付けは前にもましておもしろかった。ドアを何枚も並べて動き回り、終いには一列に並んだドアを次々に開けていく、無限ドアは象徴的だった。
また、音楽は例によってボヘミア調で始まったが、二幕に入るとジャズが多用され、自由に振る舞う寝起き顔のKの行動に軽さが出てきた。カフカ離れである。
ジャズといえば、セッションのソロ演奏のような場面が作られたのもたまらない楽しみだった。一幕の途中で現れる村長の寝室での出来事である。坂口芳貞の長い独白はまるで独り芝居を見るようだったが、これが舌を巻くほどのうまさで、堪能できた。二幕の後半には、Kが間違ってはいった役人の部屋でやはり真那胡敬二のソロが演じられた。これも俳優が工夫に工夫を重ねてつくりだした演技で、本人が十二分に楽しんでやっていることがよく伝わってきた。こう言うものは舞台以外ではめったにみられない。小田豊のソロは奥まった二階の下手だったからよく見えなかったが老人の役で力を発揮するところはあまりなかったようだ。福士恵二、高田惠篤の二人の天井桟敷出身者が醸し出した怪しい雰囲気、独特の身体感覚はこの芝居のイメージを作る中核になっていたような気がする。彼らは「奴婢訓」の経験者である。松本は過去にジャンジュネの「女中ごっこ」をやったらしいが、スイフトの作品にそれを加えたものが「奴婢訓」である。この芝居にはどこか寺山修司が香ってくるなと思っていたが、それだったのか?
とここまで書いてあることに気がついた。
坂口芳貞(文学座)小田豊(早稲田小劇場)真那胡敬二(自由劇場)福士恵二、高田惠篤(天井桟敷)石井ひとみ(状況劇場)松浦佐知子(夢の遊眠社)・・・偶然かもしれないが戦後の演劇史を見ているようだ。
さて、とりとめなく書いてきたが、結論めいていうとこの芝居によって松本修は明らかにカフカから開放されたという意味で思想としての「AMERIKA」を越えた。ただし、芝居としての完成度から言えば不満である。それは長すぎることだ。ひとつひとつのシーンは充実している。もっと見ていたいと思う場面もある。5時間の構成をここまで縮めたというが、もっと切り詰めるべきだ。具体的に言う暇はないが、「AMERIKA」にあった切れ味、テンポのよさをこの劇の中に回復することだ。
これからのことを言うと僕は、まず「AMERIKA」をヨーロッパにもっていくべきだと思う。そこでの批評に耳を傾けもう一度練り直す。そして再再演を国立劇場で行う。そのあと、「城」を同じようにして完成度を上げていく。
寺山修司の「奴婢訓」はワークショップで始まって、作品としてそれから30年間もっている(稼いでいる)。同じことになる可能性は十分ある、と僕は思っている。
松本修は、いま我が国の現代演劇の到達点に立った。これからどこへいくのか?楽しみである。
(2005.2.9)