題名:

獅子を飼う〜利休と秀吉〜

観劇日:

06/1/21

劇場:

サンシャイン劇場

主催:

兵庫県芸術文化協会      

期間:

2006年1月21日〜26日 

作:

山崎正和

演出:

栗山民也

美術:

堀尾幸男

照明:

勝柴次朗    

衣装:

緒方規矩子

音楽・音響:

仙波清彦

出演者:

平幹二朗 板東三津五郎 平淑恵 高橋長英 大鳥れい 立川三貴 三木敏彦 石田圭祐 渕野俊太 壇臣幸 篠原正 板東八大 板東大和 松川真也 大窪晶
 

                                  

 

 

 


 

 

 

 

 


「獅子を飼う」

千利休は何故突然死を命ぜられたのか?諸説あるが本当のところはわからない。しかし、その死には不思議に悲劇的なにおいを感じない。一つには年齢のことがある。さらにいえば、「わび茶」として自らの思想と様式を完成させ、多くの門人の敬愛を集めて後継者にも恵まれた。その茶道は今日に至るまで連綿と続いている。もし、いま少し永らえたとしても、何程のことがあったか?そう考えれば死の謎を詮索する興味もあまり強く働かないといえるかも知れない。
この劇はそこに一つの解答を与えるものではあるが、それだけに関心があるのではない。秀吉と利休、時の権力者と茶の湯の道を追求するいわば芸術家がどのように交わり互いに影響しあいながら生きたか?そこからパトロン足利義満との確執を描いた「世阿弥」に重なる山崎正和の主題が見えてくる。幸福なことに世阿弥の夢幻能は権力からも政治からも遠ざかってひとつの美学として成立したが、社交を基本とする茶の湯には人間臭い一面がついて回る。むろん利休の侘茶にはその関係を平易に保とうとする構えが十分だが、秀吉は利休に多くを求めた。利休は信長の茶頭の一人であった。つまり主筋の師である。「藤吉郎」時代に知りあい、天下人になって当然関係は逆転した。元来相反する二人の趣味嗜好にもかかわらず、権力者の孤独が利休を呼び寄せた。おそらく波長が合ったのだろう。しかし波長は少しずつずれてやがて、たがいに消しあうことになる。そしてついに独裁者とその側近というむき出しの人間関係があらわになり上下最大に振れた波が重なったときに関係は消えたのだ。山崎正和はそこに悲劇を見る。この二人の関係はそのようにして終わることを運命づけられていたというのであろう。
終幕近く、宗易=利休(平幹二朗)の独白の中に秀吉(坂東三津五郎)を獅子にたとえるくだりがでてくる。猛獣のそば近くで、いつ食い殺されるかも知れないひりひりするような緊張感の中を平然として過ごすのは一種の快感だったというのである。時には猛獣使いのように飼いならしていると思える瞬間もあったはずだ。しかし、獅子は野生を忘れていなかった。宗易は一瞬の気の緩みを捉えられたのかも知れない。
西国を平定して京に帰還した秀吉は、東国に残った抵抗勢力、北条攻めを何故かはじめようとしない。しかし、本能寺の変からおよそ五年、すでに関白から太政大臣の地位に昇り、ほぼ全国を統一してその地位は揺るぎないものになっていた。バテレン追放令はだしたが、貿易の魅力まで捨てる気は無くキリシタン禁止令も、まだ徹底していない。秀吉は、多くの城を造り聚楽第に代表されるような絢爛たる内装を施し、庶民をも巻き込んだ茶会を開催して太平の世をもたらした天下人の存在を知らしめた。これらの仕事の相談相手、芸術顧問を一手に引き受けたのが宗易であった。宗易の役割は、それにとどまらず、秀吉の身の回りに起こる政治向きの事柄や一族の問題まで相談を受けるというものであった。
そのために、信長の五茶頭の一人、津田宗及(三木敏彦)が蔑ろにされて宗易に恨みを抱いた。そしてもう一人、側近く使えている治部少輔、石田三成(石田圭祐)が役目を奪われて宗易の存在を快く思っていない。
宗易の評判が高まれば高まるほど、恨みを買うことも多くなり、讒言で悲劇が起きることを案じた秀吉の弟、大納言秀長(高橋長英)が兄に対して、茶の湯のこと以外宗易に相談すべきではないと諌め、しばらく休暇を与えることを承知させる。
秀吉は独裁の色を濃くし、北条攻めよりも朝鮮から北京を襲うことを思いついたりして家臣を困惑させていた。しかし、秀吉もすでに五十歳、もっとも強い憂慮は世継ぎの問題であった。
宗易の不在の間に石田三成や津田宗及の讒言が秀吉の耳に入る。
宗易が届け出のない屋敷を街中に構え、於絹(大鳥れい)という女を囲っている、しかもキリシタンの若者(壇臣幸)が出入りしているというものであった。しかし、秀吉はこれを咎めようとしなかった。また、宗易の見立てる茶道具が高値を呼び、大きな利益をあげているといううわさ話もあった。宗易の増長ぶりを言いつけることもあった。大徳寺に山門を寄進するという分をわきまえぬ振る舞いも許せないが、何体かの羅漢の間に宗易自身の姿を木彫にして納めたというはけしからんというものである。
そうしているうちに大納言秀長が病死する。秀吉にとっては頼りになる弟だった。宗易にとっては、ねね(平淑恵)とともに、秀吉との間に入ってくれる緩衝材であった。
秀吉に待望の子が生まれる。淀君との間に出来た鶴松だが、病弱であった。この子供がかなり悪いという知らせが入っていたところへ、久し振りに宗易が訪ねてきた。茶碗を交換して欲しいという用事だったが、それだけで済むはずがない。
宗易は、小田原攻めのやりかたは感心しないという。北条を撃つために目と鼻の先に城を築いたまでは良かったが、城下町を作って町人を呼びやたらに金と時間をかけた。それは「下品」であったというのだ。茶の湯で「下品」は最悪の批判である。宗易にしてみれば独裁に走る秀吉を諌めるつもりであったろう。かろうじて秀吉はこらえた。
宗易が帰ると、秀吉は鶴松が亡くなったと知らされる。僅か三才であった。独裁者に悪い知らせを告げるのはためらわれる。秀吉は世継ぎを失って悲嘆にくれるが、ふと宗易は鶴松が死んだことを知っていたのではないかと思う。石田三成に質すと、知っていたという答えである。それを聞いて秀吉は逆上した。三成が僅かに訪れた宗易追い落としの瞬間を見逃さなかった。
エピローグは、白布で巻いた宗易の木彫を後ろ向きに縛りつけた太い梁がおりてきて、於絹と新三郎がいまは亡き千利休への感慨を語るというもの。その人物は茫洋として像を結ばない。
能の足さばき、歌舞伎の「みえ」など古典劇の所作をふんだんにとり入れた格調高い作り、丁寧にじっくりと物語を伝えようとする方法は栗山民也のものである。
堀尾幸夫の美術も黒光りする矩形の板を張り出し、鈍色に殺した金泥塗り様の壁を腰高まで下ろして、桃山風を表現した。そのふすまに見立てた壁の間から鮮やかに彩色された洛中図がときどき顔をのぞかせて、華やかな時代の空気を感じさせる。
秀吉が金糸を多用した派手好みの衣装で、特に中盤に着たひだひだの襟の洋服の意匠が面白く、異国好みの秀吉の性格をよく物語っていた。宗易は白と薄茶のシンプルな取り合わせで、禅寺で修業をするという指向と万事ストイックに図る茶道の合理性を表現、二人の趣味の違いを示した。於絹は囲われものといっても、考え方も生き方も自由であり、宗易もそれを許しているようだったが、緒方規矩子は、若衆髷のような於絹に派手な緑色と赤の取り合わせの衣装を用意して、このよく分からない存在に当時のアバンギャルド「かぶくもの」のイメージを与えることに成功した。演出の注文ではあったろうが、緒方規矩子の衣装は豪奢で格調高く、極めて強い説得力があった。
音楽は打楽器だけで、効果あるいは場面転換に使われた。舞台の前の両脇に音楽ブースが設置され、パーカッションの高良久美子と山田貴之がときに激しく、時に幽かに過不足のない音を付け加えた。
この芝居の初演は92年ということだが、主要なスタッフ、出演者は同じで非常にアンサンブルのいい舞台であった。芝居がよく書けていることはいうまでもないが、十数年の歳月がそれぞれの役割に円熟味を加えたことも大きいと思う。三津五郎は秀吉の年齢に近づいた。平幹二朗は利休の年齢である。そして、なによりも栗山民也の充実ぶりがうかがえる仕上がりだった。
終盤の利休が長く独白する場面の表情の作り、せりふの調子の変化など平幹二朗の上手さを改めて思い知らされた。また。中盤の秀吉の激情と狂気を表す場面では、眼をカッと見開いて見えを切る姿が歌舞伎そのままの坂東三津五郎で、その呼吸にまったく違和感を持たなかった。なるほどこれが日本人の劇的感性なのだと納得したものである。
山崎正和は「世阿弥」よりもよく書けたといっているが、「野望と夏草」と比べても構成の確かさ、主題の強さと分かりやすさという点でこの芝居がややリードしているかと思う。ただ、千利休そのひとについて、あるいは彼が創造した茶道の世界についてあまり多くを語っていないことに多少不満が残る。たとえば、大徳寺山門の寄進と羅漢の間に自身の木彫を置くことの批判にたいして応えはない。また、茶道具の見立てによって財を蓄えているとの評判に対する反論もない。全体として「侘茶」とはどういう境地かという説明もなかったことは「世阿弥」に芸術論があったことと比べればどこか足りないと感じるところである。晩年の秀吉という強烈な個性の照り返しとして利休を据えたと考えればやむを得なかったかも知れない。
久し振りに完成度の高い劇をみた。

 


新国立劇場

Since Jan. 2003