題名: |
芝居〜朱鷺雄の城 〜 |
観劇日: |
05/11/11 |
劇場: |
紀伊国屋サザンシアター |
主催: |
兵庫県芸術文化協会 |
期間: |
2005年10月29日〜11月13日 |
作: |
山崎正和 |
演出: |
鵜山仁 |
美術: |
島 次郎 |
照明: |
勝柴次朗 |
衣装: |
緒方規矩子 |
音楽・音響: |
斉藤 美佐男 |
出演者: |
辻萬長 宮本裕子 大沢健 田島令子 水野龍司 勝部演之 |
「芝居〜朱鷺雄の城」
日本料理の厨房で少し古くなった素材のことを符牒で「アニキ」という。差し障りの有る状況でベテランが若い衆に「おい、あそこにアニキがあったろう。あれ持って来い。」などと使う。
演出の鵜山仁が「『芝居』はなんの役に立つのか」(パンフレット)という文章の中で、芸術一般は人生を表現するものといえるが「芝居は中でもとびきり欲張りで、猥雑なアートだ。こんなもの食えるかと思うような食材までもテーブルにのせて、実にどん欲に人生を賞味する。」と書いてあったので思い出した。
この芝居は、兵庫県立芸術文化センター、中ホールのこけら落としとして、芸術顧問山崎正和が書き下ろしたものである。こけら落としだからかなりこだわったと見えて、主人公が劇作家で、劇中劇もどこまでが芝居で何が現実かわからないという手の込んだ構成になっている。
暗闇に雷鳴が轟き、男の野太い声が響く。「撃て!矢を放て、その大弓の鋭い矢を、早く!」明かりが入ると、目に飛び込んでくるのは舞台中央奥、「セントセバスチャンの殉教」というタイトルの絵で知られているシーンそのものである。半裸の八洲朱鷺雄(辻萬長)が支柱から下がったロープに手を縛られて一本の矢が身体を貫いているように見える。いかにも神戸の街の劇場で初めてやる「西洋風演劇」の開幕にふさわしい朗々たるせりふ回しだ。サザンシアターでは客席を五列分外した空間の真ん中に大きなテーブル、両脇に劇場用のイスを二列並べておいてある。その床に立って弓を構えているのは下沢耕治(大沢健)、朱鷺雄の秘書で弟子、居候で、大学のアーチェリークラブの経験者。しかし、そういわれても撃てば死ぬ。どこまでが芝居なのやら。
このプロローグは、聖人受難図そのものだが、エイズでなくなった映画監督のデレク・ジャーマンが撮った処女作(ユ76年)でも有名のとおり、ゲイという意味が隠されている。ゲイは芸術的才能において優れているという世評を山崎が肯定的にとらえている設定であろう。したがって、下沢耕治はその相手である。(このシーンのために辻萬長の鍛えられた肉体が欲しくてキャスティングしたわけでもなかろうが、うーむ、なかなかのものだった。ただし、惜しむらくはタッパが足りない。)
[11/20/05挿入:ここは、デレク・ジャーマンよりもむしろ三島由紀夫のエピソードを入れるべきだった。というのも、偶然ある本を読んで、この戯曲がかなりの確率で三島をモデルに書かれたものだと思ったからである。三島は若い頃、このセントセバンスチャンの殉教図を見て、強い性欲を覚えたといっているらしい。また、「仮面の告白」には園子という名の女が登場する。この戯曲の園美というネーミングは多分に意識したものだろう。しかし、だからといって、この感想文のいくつかの部分を変更する必要があるとは考えない。それにしても、山崎正和は本気で三島信奉者なのだろうか?]
ここは作家であり、劇作家、演出家、俳優でもある八洲朱鷺雄の自宅(スペインバロックの外観だそうな)に作った百人収容の小劇場で、プライベートなものとはいえ設備は本格的である。大きな窓の外には白樺の林が見えるが実はスクリーンに映した実景というややこしい仕掛けだという。世間は、朱鷺雄の才能に見合った収入を与えたものと見えて今どきずいぶんぜいたくな暮らしである。何しろ、四十才にして十五巻の個人全集、映画三本の監督、八本には主役として出演、その間参議院選に立候補するという二十世紀最後の行動する天才作家である。
その家へ招待されたのは、マイナー政党の中堅政治家で朱鷺雄を選挙に担ぎ出した、鰐淵悟朗(勝部演之)と編集者の伴野瑠璃(田島令子)、それに文芸評論家滝黎一(水野龍司)の三人である。この三人は、朱鷺雄とともにかつて風間敏という才能ある作家のもとに集まっていた。
招待した本人が現れなかったがケータリングの「うまいフランス料理のフルコース」にピアノの生演奏があって、いかにも朱鷺雄らしい趣向のもてなしだ、といいながら三人は、舞台に登場する。何だか成金でもなければ、浮世離れした暮らしだと思うが、どこかにそういう生き方もあるのだととりあえずは納得する。
亡くなった風間敏は、やはり青春の英雄、天才と評された作家であった。朱鷺雄はいまの下沢耕治のような役割で弟子、秘書兼身の回りの世話役をしていた。鰐淵悟朗も書生のような立場だったが風間敏のわがままに付き合えず、離れて政治の世界に転身した。伴野瑠璃は、女子大の時に風間を知り、彼を取り巻く若い人々の群れに入った。風間に近づきついには愛人になった。風間が亡くなったあと出版社に入って今は朱鷺雄を担当している。やはり風間のもとにいた滝黎一は朱鷺雄の全集のすべてに解説を書き、「評伝八洲朱鷺雄」で文学賞をとった。朱鷺雄を飯の種どころか名声のもとにしてきた。
その朱鷺雄が最近は素人目にもわかる駄作ばかりで、才能が枯渇したのではないかといわれているのである。
しかし、これとても次の場面では朱鷺雄が書いたシナリオ「朱鷺雄の城」を彼らが演じているということなり、何が真実かはわからない。
次第に、風間敏が変死したこと、その時に朱鷺雄しか居合わせなかったこと、風間が残したはずの膨大な創作ノートがなくなっていることなどが本当らしいとわかってくる。
一方、舞台には三人とはかかわりなく、もうひとりの居候がうろついている。松田園美(宮本裕子)は一ヶ月前ふらりと朱鷺雄の前に現れた。娼婦だという。母親も街に立って男の袖を引く商売をしていた。父親はわからない。落ちていた週刊誌の実話小説の悲しい主人公の名が園実であったと語る。朱鷺雄は園美にだけは心のうちを見せる。先生は天才だといわれているという園美に「私は凡庸だ。もっと悪いことに凡庸だとわかる程度に才能はある。この世に天才というものがいて、それが自分でないとわかることほど不幸なことはない。」と自嘲する。
話が進行して、風間敏の死因はがんであったことがわかる。朱鷺雄が手を下さずとも寿命はつきていた。創作ノートもあったのかどうか関係者の記憶があいまいであった。ところが、下沢耕治が捜し出して暴露する。
結局、朱鷺雄はこのノートに書かれた創作のための断片に力を借りて、自らの作品を作り上げたことが明らかになる。その種がつきたところで、書いても駄作しかものに出来なくなったというわけである。
山崎正和は書いている。(パンフレット)
「一般に作家という人種の中には、実は二人の違った人間が住み込んでいる。ひとりは神の恩寵を受ける人間であって、多彩な物語や登場人物、気の利いた比喩やせりふが天から降ってくるのを待つ受信機である。もうひとりはそれらの材料を自分の手で織り上げ一遍の作品に仕上げる勤勉な人間である。ひとりは天才、もうひとりは職人だといってもよい。」
なんだ、そんなことか。それなら「アマデウス」一編でつきているではないかと思う。モーツアルトとサリエリの曲を聴けばたちまち理解できるテーマである。いや、音楽と小説や戯曲では違うといいたいのかもしれない。
続いて彼はこういう。
「世間は職人の芸を楽しみながら、ひそかに彼にたぶらかされ、操られることを憎んでいる。彼は手仕事で夢を織ろうとあくせくするが、賢くなった現代人は人の手で夢が作れるとは、容易に信じられなくなっているからである。」
つまり、小説なり芝居なりを現代人は素直に信じ、楽しめなくなっているといいたいのだろう。だからいっそのことそういう雑念から解放されて純粋にニュートラルな世界を作りその中で自分を解放したいというのが現代人の願望ではないか?と問うている。
劇中、朱鷺雄が園美のブラウスのボタンを外し、むき出しの胸を見ながら、完璧な女の美しさを備えていると感嘆する場面があるが、それは生身の肉体を超えた究極の「美」であり、それこそが朱鷺雄が信じられる純粋な世界だといいたかったのに違いない。(宮本裕子もまた筋肉トレーニングをしてきた体つきでこの場面にふさわしい魅力あるキャスティングといえるが、なんとも惜しいことにやはりタッパが足りなかった。)
「正直な自分でありたいと渇望しながら、何が正直であるのか自分でもわかりづらくなった。だとすれば、ひょっとするとこの『芝居』のように、今では誰もが『聖なる娼婦』の降臨を待っているのではないだろうか。」
山崎はこのように締めくくっている。
僕は、この劇を観ながら、開幕からずっと違和感をもっていた。
まず、設定のペダンティックな趣味性である。70年代の学生運動の延長上にあった風間敏たちの集団のリアリティはとりあえずあったとしても、高踏的なせりふまわしといわゆる典型的「上流」の生活様式が合っていない、著しく大時代的で観念的なのである。これを「現代劇」として見るのはとりあえずあきらめて、戦前のいつか、という設定を勝手に頭の中につくって対応せざるを得なかった。しかもそれで一向に差し支えないとはどういうことだろうか。
そして、天才と凡庸という山崎正和の変わらぬテーマ(一種の物差し、「批評」としてなら成立する概念であろう。)が単なる推理劇の手段に使われたのではないかというある種の軽さを感じるところだ。
さらに、あたかも絶対的な「天才」という概念が存在し、それに合致するような人間がいるかのような思い込み、一種のプラトン主義に至っては相当な時代錯誤だといわざるを得ない。「多彩な物語や登場人物、気の利いた比喩やせりふが天から降ってくるのを待つ受信機」が仮にあったところで、いったい誰がそれを価値ありと判断するのか?いったい誰が、彼は凡庸な職人に過ぎないと断じるのか?その小説なり、劇作なりが「売れる」という実績によって天才と凡庸の差が確認できるのか?あるいは、高名な先生方の推奨によって権威ある文学賞を受賞すれば天才といえるのか?
そして、八州朱鷺雄の男色やベストセラーになった「真昼の悪徳」という本のタイトルなど否でも三島由紀夫を思わせる仕掛けには、芸術至上主義の傾向を見ることが出来る。読者も観客もいない世界は不毛である。
「聖娼婦」園美の描き方は迷いに迷って冗長であり、彼女が語る半生の物語は類型的で聞いていて恥ずかしくなるくらいだ。しかも娼婦が純粋だという考え方は古典的でうそ臭い。第一、「春を鬻ぐ娼婦」などというものは今日どこを探しても存在しないではないか。いまは街角に立つよりもっと簡単で手軽な「援交」の時代である。
このような印象を作り出した責任の一端は、演出の鵜山仁にある。鵜山の段取り仕事は、あまり深く考えないで物語をひたすら進行させるところに特徴がある。どんでん返しの推理劇などという惹句に期待していったのだが、たいして盛り上がりもなく、するりと終わってしまったのは、遅筆堂のようなことがあったか、あるいは大部分を観客に預けてしまう魂胆だったのかもしれない。園美と朱鷺雄のダイアローグなど「場」によっては、戯曲と足を止めて殴り合ってもよさそうなところがあったのに。
そうはいっても、やはり山崎正和が、時代をとらえていない!という決定的な欠陥がこの芝居には宿っていることを指摘せざるを得ない。
「社交する人間」などという最近の評論についていうなら、グローバリズムというアメリカ帝国主義ムアラブテロリズムの時代を啓蒙主義と「倫理」で乗り越えられるという発想がすでに無効なのである。
この芝居には「なぜだ?」という山崎正和の戸惑う姿が端なくも現れた。
「賢くなった現代人は人の手で夢が作れるとは、容易に信じられなくなっている」と書くが、ほんとうだろうか?現代人はむしろ、「せかちゅう」を百万部のオーダーのベストセラーにし、Web上で創り出した「電車男」を本に、あるいは映画にテレビ番組にした。片山恭一は天才だとだれも言わないが、凡庸な職人ともいわない。「電車男」については、著作権者つまり書いたものがいない。いや、いるにはいるが誰と特定できるものではない。にもかかわらず、実にお手軽に「夢」のようなものを創り出したのである。
僕は小説を読まないが、話題になれば立ち読みくらいはする。しかし、近ごろ山崎のいう「多彩な物語や登場人物、気の利いた比喩やせりふ」などに出あったことはない。山崎の頭の中にあるのは、小説家が書く世界や批評家の発言がまだ「あて」にされていた古き良き時代のことに違いない。
先に「時代錯誤だ」と指摘したことについて、二つのことをいって終わりにしたい。
一つは、物語はコンピュータが書く、いや、書ける時代だということ。もう一つは、「聖なる娼婦」などというロマンティックなことをいっている場合ではないということ、である。
コンピュータが処理する以上は物語とはどういうものか整理されていなければならない。大塚英志の「物語消費論」(89年)及び「物語消滅論」(2004年)に全面的に寄り掛かって書くが、根拠は文化人類学的な方法にある。周知の通りこの学問の特徴はフィールドワークにあって、つまりは人間が昔から親しんで語り継いできた物語を素材にしている。有名なレヴィストロースの構造主義的な物語論は主題を可視化していくものであったが、これに対してロシアのプロップの方法は形態論といって、採取された説話の分析を通じて、そこにある文法、規則性、法則性を発見していくというやり方をとる。こういう方法なら、物語はいくつかの要素と、パターンに分解が可能である。これを再構成して主としてゲーム用ソフトの作成に使用するソフトとして開発されたものがあったのである。
そのように作られた物語が面白いかどうかは別の問題である。とりあえずゲームを成立させるだけのストーリーは出来る。また「電車男」にしてもこの創作にかかわった人数は不明である。つまり、この時代においては物語の独創性(作家の独創性といってもよい)などは取るに足らない要素であって、物語は「消費される」(換金できる)という目的を果たすことによって完結するのである。
少なくともこうした事実が存在する以上は、天の啓示によって鑑賞に堪えうる独創的な芸術が生まれるとする山崎の思い込みがややあやふくなることは認めざるを得ないだろう。と、消極的な言い方になるのは、必ずしも大塚英志は上のような事情を肯定しているわけではないからだ。もちろん、論拠は違うところにある。
「動物化するポストモダン」を書いた東浩紀と「身体の比較社会学�」の大沢真幸が対談した「自由を考える」(2003年NHK出版)は議論がよく噛みあっていて、面白い読み物であった。どこを引用したら適当か迷うほど僕たちの時代がどんなところにあるのか、あるいはどんな病理を抱えているのかをレリーフを彫って見せるかのようにクリアにしてくれた。
「聖なる娼婦」のイメージはまさに身体性をそぎ落とした観念の産物である。この対談で話されたのはその「身体性」についてである。
東 ・・・一方に「愛」というのはしょせん性欲処理に過ぎないという諦念、というかむき出しの身体性への回帰があり、他方には「愛」というのはもはやコミュニケーションではなく運命なのだという極めて抽象化された観念があって、この二つがどうやらべったりとくっついている。・・・そういう乖離と短絡の現象について、なぜそれが今急に目立つようになってきたのかという状況論的な疑問です。・・・この十年くらいで乖離と短絡がどんどん激しくなってきている・・・その変化を支えている社会的条件は何なのでしょう。
大沢 比喩に託していうと、こんなイメージで考えています。マルクス主義に従えば「労働価値説」は普遍的な真理です。が、その真理性が現れ、実際に、それが学説として説得力を持つのは、資本主義が登場して、貨幣経済が全面化した場合ム要するに労働力そのものも商品化した段階ムです。このように、普遍的な真理が特殊な段階において、真にその姿を現すということがある。これと似た構図で考えています。・・・
これだけでは分かりにくいかもしれないが、あれだけ売れに売れた「世界の中心で愛を叫ぶ」という小説はここで言う純愛ものであり、一方でまったく同じ次元で美少女ゲームと称するポルノアニメがもてはやされる現実があるということである。(愛という)人間的コミュニケーションの純化をあるところまで突き詰めると、逆に動物化に逆転する。そうしたことが起こる社会的条件として「後期資本主義」があるのではないかというのが仮説として提示されている。
かつて「柔らかい個人主義の誕生」という極めて納得できる社会認識を示した山崎正和が、こんなところで足踏みをしているのを見るのは残念だ。東浩紀は71年生まれ、大沢真幸は58年生まれ。この間、東と48年生まれの笠井潔の往復書簡(「動物化する世界の中で」集英社)を読んでそのかみ合わないことにがっかりしたばかりだが、どうだろう、この際丸谷才一とばかり対談していないで、東、大沢の世代と話して見たら。
さて、最後に、役者のことを少し。その前に島次郎の装置がよかった。ただし正面の楕円形に開けたスクリーンをのぞいて。
久しぶりに勝部演之をみた。津嘉山正種のピンチヒッターだったらしい。よく透る声で健在ぶりを示したが一本調子で退屈だった。多分に演出の責任のような気がするが。
水野龍司は相変わらずうまい。しかし、やや存在感に欠けるのは手の位置が悪いせいだ。癖かもしれないが手からあと少し力を抜いたほうがいい。宮本裕子はもともと表現力の有る役者だが、今回ばかりは、役をつかみかねていた。演出の責任である。辻萬長はキャスティングミス。
Yは別の芝居を見に行くといっていたが、山崎正和と聞いて急きょ無理やり変更してもらった。鵜山仁は「こんなもの食えるかと思うような食材までもテーブルにのせる」場合があると書いていた。ちゃんと食えたからよかったが、この食材、少し古くはなかったか?
(2005年11月17日)