題名:

死の刺

観劇日:

05/6/17

劇場:

シアタートラム

主催:

演劇集団ガジラ    

期間:

2005年6月17日〜7月3日
原作:
島尾俊雄

作:

鐘下辰男

演出:

鐘下辰男

美術:

島 次郎     

照明:

中川隆一    

衣装:

小峰リリー

音楽・音響:

井上正弘

出演者:

高橋恵子 松本きょうじ
高田惠篤 石橋祐 小島尚樹


「死の棘」

鐘下辰男の芝居を観るといつも「劇画」を思い出す。劇画をどう定義したらいいか?つまり、荒々しい筆致でリアルに描かれた絵に擬音の文字が重なり、濃厚なストーリーが展開する。時には凄まじい暴力や激しい性描写があって、平常な心が波立つこともある。劇画と言うくらいだから、そういうものはどこか「劇」的なのに違いない。
鐘下辰男の感覚の中にこのような傾向が潜んでいる。それが「劇的」なるものだという信念があるのかもしれない。
劇画は、劇的な場面の描写をいくつかのこまに連続して見せる。台詞はあるが、それ以上に絵があることによって情感をビジュアルに表現することが出来る。見ればわかるのである。ところが、見終わって、はて今のはなんだったのかと思い返すと言葉にならない。つまり、情緒に流れて対象化することが難しいのである。
鐘下辰男は、この情感に流れるということに自らが感情移入して、それに観客を巻き込もうとする。
一方、観客の態度は基本的に舞台と対峙している。目の前で展開している物語に引き込まれついその中にはまりこむことはある。しかし、のべつ劇画では入り込むきっかけさえつかめない。
例えば、新国立劇場2000年の「マクベス」で高橋恵子のマクベス夫人が乳幼児を抱いて長く独白するところがあった。あの激しい気性のマクベス夫人に子どもがいなかったことに注目して、もしありせばというのである。ここは母親としての情感を訴える静かで非常に長い場面だったが、とってつけた感じは否定できなかった。単に情緒に訴えただけで、そうした必然性もなければ、マクベス夫人の新しい解釈によって「マクベス」劇を止揚したのでもなんでもない。
芥川竜之介の原作をもとにした「新・地獄変」(2000年3月)や川口松太郎の「新・雨月物語」(99年1月)もまたおどろおどろしさにおいて、あるいは粘性の情念を描くという点で劇画を思わせるものだった。
こう言うものを見せられていると、鐘下辰男に知性や論理性というものがあるのか、と言う気になってくる。
この芝居は、島尾敏雄の原作を鐘下自身が本にしたものだ。「死の棘」というタイトルだけは目にしたことがあった。なんの興味も湧かなかった。
こんどわかったことだが、自伝的な、と言うよりは島尾敏雄の身に実際に起こったことを小説に書いたものである。完全な私小説といってよいが、これを16年もかけて完成させたいわばライフワークのようなものだ。
あるときトシオ(松本きょうじ)は妻ミホ(高橋恵子)に浮気がばれた。何年もよそに女がいたのを知られることになった。妻は夫を責めた。鐘下辰男によると小説は冒頭から「三日三晩に及ぶ執拗なまでの夫トシオへの休み無い尋問のあけくれ。」が続くということだ。
この芝居もまたそこから始まる。
四角いプールの真ん中に円形の板敷きの舞台をおいて、真ん中に四角く切った穴、やや前方にむき出しの水道管と蛇口、バケツが置いてある。周りのプールはひざ下くらいの浅いもの、下手前方に書き物机があり、原稿用紙の上にインク瓶が転がって文字は判別できない。
トシオは異常なまでの妻ミホの怒りと狂気にただひたすら頭を下げ、もう二度としないと誓うのだが、ミホは、新たな疑いを持ちだし自ら嫉妬を駆り立てるように燃え上がり、再びいつ果てるとも知らない修羅場へと戻っていくのである。
その女の影が近づいてくると言う妄想、女と夫がどこかで一緒にいるという想像、それらがまた夫に対するあるいはその女に対する憎しみをつのらせ、罵声を浴びせ包丁を持ちだして、一緒に死のうと責め立てる。
その周りを海軍中尉時代の制服を着た敏雄(高田惠篤)、背広姿の敏雄(小島尚樹)、学生服の敏雄(石橋祐)の三人が取り囲み、時に批判がましいことをいい、時に理解を示し、また時にはミホと一緒になってトシオをなじり投げ飛ばしたりする。
これは、責められるトシオがそれに真摯に向き合って、徹頭徹尾、妻に謝罪しようとする態度なのだが、三日も続くと言うのはどこか奇妙とも言える。
ようするにミホには別れる気はない。愛情が憎しみと表裏一体となってまともな判断が出来なくなっている状況といえばいいのか?(最近、逮捕された奈良の騒音おばさんの異様な顔を思い出しいた。)こう言う精神の異常な昂進は病気として扱う領域のものだろう。
それがわかっているから、トシオも丁寧につきあっているのだ。
観客もいやいやながら「丁寧に」つきあわざるを得ない。水道管から漏れる水のしずくがバケツの底をたたく規則正しい音に苛立ち、時にプールに投げ込まれ水浸しになるトシオとミホに目を見張り、こんな格闘をいつまでやる気かと言う思いになる。二人の子どもは半透明のプラスティックで出来た人形だ。それが傍らに投げ出されているが、実際、こうして親の諍いにたちあったのかと思えばやりきれない気持ちになる。
そんなねちこく、直接感情に訴えるような描き方は鐘下辰男のもっとも得意のところである。しかも「こう言う経験をした者、つまり妻に浮気がばれて同じような修羅場を味わった者には見ていて辛いものがあるだろう。」などとわかったようなことを書いている。(パンフレット「いずれが"狂気"か?」
これはミホの狂気が問題なのかといえば、そうではない。トシオは、ひたすら耐えている自分を極めて客観的な視点で捉えている。自分の過去の人間像=人格まで動員して今の自分を責める。実際のところこの劇は、ミホが主人公のように見えるが実はトシオの心象をひたすら表現しているといえる。
トシオには、妻のほかに女をつくったことによって、究極的には「愛」とは何かという解決不能のテーマが住み着いてしまっている。この「愛」も通俗的な愛情というものではなく、信仰という自らの存在の根幹を揺るがす重大事である。
島尾敏雄は、海軍の特攻であった。奄美大島で終戦直前の8月13日に魚雷艇特攻命令が出て、出撃を待機している間に玉音放送を聞いた。ミホとはその前に会っている。敏雄が出撃したらミホは死のうと覚悟していたらしい。
士官学校出で飛行機乗りに志願した政治家の加藤六月が「自分の立っている地面が真っ二つに割れるような気がした。」(「朝まで生テレビ」7/1放送)と終戦の体験を語っていたが、島尾のような出撃命令が出た特攻なら(しかも当時既に29歳)もっと深刻であったろう。
恐らくその体験が深く関わっていたに違いない。島尾は39歳の時にカソリックの洗礼を受けていた。
鐘下がパンフレットの最後にこう書いている。
「桶谷秀昭が『島尾敏雄断片』という評論文に『あれは島尾さんの方が重症なんですよ』という吉本隆明の発言を書いている。私たちの稽古は、ここから始まったといっていいのである。」
また、志村有弘(文芸評論家)によると、「『死の棘』と言う題は、『聖書』コリント人の手紙に拠る。」ということでもともとこの小説=島尾の意識の中に神という存在が影を落としていたのである。
それでは、鐘下辰男がこの点をどのように評価し、描いたのか?
吉本隆明は当然、島尾の洗礼について知っていた。しかし彼は、キリスト教の信仰について理解を示したとは到底考えられ無い。「重症」という言葉は吉本一流の皮肉だろう。
鐘下は、ここから出発したと言っているが、「重症」という言葉が示しているように、これは島尾の心を病気として外から眺めているものの態度である。
しかし、その時島尾の心を占めていたものは、「病気」ではない。
何か大きな超越的な存在があって自分の精神はそこに帰依しているはずだが、それに背いて、人の倫に外れたことを平然とやってのける自分が現実に存在する。島尾はその相克に苦しみ悩んだ。愛人との恋愛を継続しようとすれば、神は自分の心に棘のように突き刺さってくる。人間として感情のままに生きようとすれば自分は信仰を失い、それから先の人生は恐らく闇に違いない。西田幾多郎ではないが「絶対矛盾的自己同一」を迫られたのである。
このようなトシオの神との相克は、見たかぎり舞台には、描かれていなかった。
ミホとの関係は、どんな難問にも当てはまる定理「時が解決する。」をもって、次第に修復されていくという道筋をこの劇では選択した。無論原作に忠実なのだろう。
闇を切り裂くような汽笛が長く尾を引いて、機関車は走りだす。トシオの故郷八戸へ子どもを連れて旅をすることが、ひとつのきっかけを作った。ただし、ミホの精神的病いが完全に癒されることはまだなかった。
そうして、もういいよと、僕の心が悲鳴を上げはじめたところでようやく幕がひかれて、ほっとすることになった。
鐘下辰男はこれを純愛物語と考えたようだ。ミホの狂気とそれに真摯に応えようとしたトシオとの間にあるのは最大の圧力をかけられて変形した「愛情」だと思ったのだろう。近ごろ流行の恋愛ものとは一味違うが底流にあるのは、愛情物語なのだという理解が鐘下の中にあったのは明らかだ。愛憎、狂気、格闘、劇画の劇的な要素はそろっていて、まさに鐘下ごのみである。そういう背景が無ければ今ごろこのような出し物を選んだ動機がわからない。
しかし、島尾敏雄はこの出来事を自分の信仰の危機として受け止め、それを超克するために試みたさまざまな思考を克明に記録し、それを自虐的に公開したのである。
考えてみれば、こんな話はそこいらに山ほど転がっている。男と女がいるかぎり止めようもないことだ。だから人の倫と言うものがあるかのように定めをつくって自らを律するようになる。そんな禁忌がどのように成立してきたかについては民族学者や文化人類学者に任せるが、それが絶対だとは言い切れない。所詮、吉本隆明ではないが「共同幻想」に過ぎないからだ。こんなありふれた話を延々と読まされるほうにとって、「神」の存在でもなければ退屈で仕方がないだろう。しかし、こんなことが、いま僕らの最大関心事でない。「神」などというものが例えば、現在の中東の状況を見たら一目瞭然だが、どれほど無力か明らかではないか。小説が今日のように思想に対して力を失ったのはこんなくそ私小説を書いてきたからだ。今となっては望むべくもないが、芸術家はもっと時代感覚に鋭敏でなければならない。
「せかちゅう」だとか「冬ソナ」だとかありもしない恋愛物語を望む気持ちは、一方で、いかに男と女の関係がそれとは正反対になっているかという現実を表している。「恋愛=ロマンティックーラブ」がたかだか二百年前の欧州の発明だったことを、しかも信仰=宗教が背景にあったことを思い出してほしい。
こう言う状況がでてきたのは「フェミニズム」を十分議論してこなかったせいだ。と言うより田島陽子らの狂信者がぶち壊しにしたのがまずかった。もう一度イヴァン・イリイチまで遡行すべきではないかと、僕は思っている。話があらぬ方へ行きそうだからここいらでやめよう。
鐘下の勘違いに丁寧につきあったせいで、ひどく疲れた。役者も疲れたことだろう。さぞかし水は冷たかったろう。真冬の公演でなくてよかった。それにしても、プールで、水で、水道で、水浸しだったのは何故だろう。まさかトシオが海軍の特攻だったからではないだろうな。円形の舞台の縁に線路をまいて、その上を玩具の機関車が走るのだが、何だか滑稽だった。鐘下辰男を見るのはいつもしんどいことになる。
                      

            2005.7.11

                                                                                       

 


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