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「6週間のダンスレッスン」

男と女が身体をくっつけて動き回るダンスというものは、公然と行う疑似的性体験であるという意味のことを、訪ねてきたダンス教師のマイケル・ミネッティ(今村ねずみ)がいう。公の場で男女互いのからだに触れあうことは我々の社会では一応禁忌である。しかし、ダンスだけは唯一の例外らしい。音楽とリズムに乗せて身体を動かすという快感の他に、身体を触れあうことを通じて生じる心理的な駆け引きもまた刺激になっているのがダンスの本質的な部分なのであろう。しかも、自宅に教師を呼んで個人レッスンをするというのである。マイケル・ミネッティならずとも一体どんな理由で雇われたのか興味が湧くのは当然というものだ。しかし、雇い主のリリー・ハリソン(草笛光子)は六十八歳、夫と一緒に暮らしているが、社交のために、もう一度ダンスを踊りたくなったので予約したのだと至極まともなことをいう。リリーは、見透かすような言葉を投げつけるマイケルに腹を立ててキャンセルしようとするが、妻が失業中で金が要るから雇われた以上は仕事をして帰るといって、やや強引に最初のカリキュラム、スウイングを教える。リリーの踊りは思ったよりひどくない。調子に乗って踊っていると突然電話のベルが鳴り響く。階下に住むリリーの友だちがドタバタうるさいというのである。以後、踊りはじめるとまもなくこの電話によってレッスンはおしまいになるというのがパターンになる。
舞台になっているのはフロリダのセントピーターズバーグにある高層マンションの十四階、ベランダから海が見える見晴らしのよい部屋である。リタイアした金持ちが暮らす典型的なマンションの一室で、一階下の住人も同じような境遇らしい。陽光さんさん、ヨットにクルーザー、海辺の風景は申し分ない。気候は暖かく穏やか、年一回くらいのハリケーンをのぞけば老後を過ごす場所として最適の条件を備えているといっていいのだろう。
ところが二週目のタンゴ、三週目のワルツと進んでいくうちに、実はお互いについていた嘘が明らかになる。リリーの夫は既に亡く、歳も六十八でなく七十二才であった。マイケルもまた妻がいるといったのは嘘で、実はゲイであった。ブロードウエイで踊っていたが差別に合って嫌気がさし、故郷のフロリダの母の元に帰ってきたというのが真相であった。
最初は傷つきたくないという思いから自分の殻に閉じこもって出てこようとしない二人であったが、あの最初の喧嘩をきっかけにして少しずつ自分のことを話しはじめ次第に打ち解けていく。リリーは、わがままで自分勝手な夫を許せなかったが、亡くなってから懐かしく思い出すことが多いと語り、また、娘を二十歳のときに事故で失ったことも長い間癒されない心の傷であったと告白する。一方、ゲイであることであらゆる差別を受けてきたというマイケルは、母親の介護のためにダンサーをやめることには躊躇しなかったという。それは彼が受けた差別のすさまじさを物語るものであった。
その間、スイングで始まったレッスンはタンゴ、ワルツ、フォックスロットと進んでいく。そのうちに階下からかかってくる電話が途絶えた。そして、一人暮らしだった友人がなくなっていたことを訪ねてきた息子が発見することを知るのである。リリー自身も胸に悪性腫瘍が見つかって、病院に通うことになってしまう。次第に体力を失って、ダンスレッスンどころではないと断ろうとするが、マイケルは病院の送り迎えを買って出て、ふさぎ込むリリーをレッスンにひき出そうとする。
親子ほどの歳の差を越えて育まれた友情は、もはや互いの存在を認めあい離れ難いものになっていた。ガンであることに打ちひしがれたリリーは部屋に引きこもっている。そこへ最後のレッスン、コンテンポラリー・ダンスのためにやってきたマイケルがドアをたたく。やや強引に部屋にはいったマイケルが、微熱を理由にしり込みをするリリーの手を取った。ダンスの魅力には抗し難く、リリーはマイケルの誘いに応じついにはこの最後のレッスンを楽しんでいるのであった。
タイトルを見ただけで話が想像できる芝居はたまにはあるものだ。ダンスというものは最初に書いたように男と女が抱きあって身体を動かすものだから、六週間のレッスンときたら、その間に男と女の関係がどうにかなるという話だろう。若い男と女ならそれなりに、中年の男女なら、あるいは壮年の教師と若い女ならそれなりに、筋書きはいくつか思い浮かぶ。たまたま老年の夫人と中年のおかまというパターンがこの芝居だったわけで、展開は想像の域を出なかった。
話は飛ぶが、僕は二十五年前に突然囲碁を始めた。会社の片隅に碁石と碁盤を見つけてひとりで並べていたら人が集まってきて毎夕誰かと打つことになった。引っ込み思案はリリーどころではないからいまでは、他人と打つよりもっぱらTVの囲碁番組を見るだけになっているが、ある時解説者がしきりに面白くない碁だといっているのに出くわしたことがある。定石ばかり並べて、予想した通りの展開になっていたのだ。そういう意味では、この芝居も、次の話が予想出来て、わくわくするとか意外性に驚くとかいった面白さには全く欠けるものであった。作者のリチャード・アルフェイリはそれなりのキャリアらしいが、この芝居を見る限り才能は凡庸、ただのストーリーテラーに過ぎないと感じる。常田景子の訳にもあまり感心しないが、(詩もなければ人生の機微に通じてもいない)この場合訳者の問題よりも元の話がつまらなさすぎるというべきであろう。
フロリダは「真夜中のカーボーイ」でホームレスの二人が憧れ、暮らすことを夢見たところだ。フロリダに何があったのかと考えて見るとどうしてもあの太陽、それがもたらす気候くらいしか思い浮かばない。彼らが欲しかったものはせいぜいその太陽だけだった。フロリダの太陽は余生を照らし出すが、その光線が強すぎて人生を漂白してしまうのではないか?リリーが過去にどこで暮らしていたのかを語る場面はなかった。娘が事故に遭った話も夫のエゴイズムもリリーの過去はこの太陽によって影が薄くなったようだ。同じようにマイケルが暮らしたNYの過去も現実感が乏しいのである。この芝居のつまらなさは、二人の過去が十分に迫ってこないことだ。人生の陰影が強い太陽光線によって消されてしまったように思える。米国の(プチ)成功者の余生がふきだまっているところ、彼らはどこかに過去をおいて、「ディズニーワールド」のあるここフロリダにやってきたのだ。これが、西に海が開けたカリフォルニアの太陽であったら・・・あるいは、もっと緯度の高い斜めに光線が差し込む例えばケープコッドであったら・・・などといらぬことを想像しながら見ていた。
ダンスレッスンがそれなりに充実していたらもう少し楽しめたはずだと思うが、演出の西川信廣にもその気はなかったようだ。レッスンといっても舞台を一往復もしないうちに階下の老人から電話がかかって中断してしまうのでは、二人の踊りをあまり長く見せたくないという意図があったのかと勘ぐりたくなるほどだった。「場」をつなぐところに大きなスクリーンがおりてきて、二人が踊っている様子と、フロリダの街の風景がスライドで映し出されるのはいいが、それでなんだかごまかされているような気分であった。
久し振りに朝倉摂の舞台装置に出会った。マンションの十四階のベランダは海に開けているという想定だったが、残念ながらべたっとしたホリゾントが見えているだけで少しつまらなかった。後ろが狭すぎたのかしらないが明かりを仕込んで雲でも見せるべきだった。部屋の色合いは淡いブルーを基調にしていて品よく仕上がっていたのはさすがである。
草笛光子が衣裳を取っ換え引っ換え結構派手に見せてくれたのを、楽しんだ観客もいたのではないかと思えばそれが唯一の救いだったともいえる。草笛のリリーはそれなりに貫録があって踊りも何とか無難にこなしていた。肌もあらわなドレスも年齢を感じさせず、草笛にとってはもうけ役である。ただし、腕を上げると・・・
今村ねずみのストレートプレイは「蜘蛛女のキス」以来二度目だが何故か両方ともゲイの役である。単なる偶然なのかも知れないが、ゲイの役柄は誰がやっても難しいものだ。特に厳しい差別に嫌気がさしてフロリダの太陽のもとに帰ってきたマイケルという男の「うちなる怒り」などというものを表現しようとしたら、そういう社会にはない俳優にとっては至難の業といえるかもしれない。我々の社会は同性愛に対してはかなり寛容な社会である。戦国武将のたしなみから現代風俗に至るまで、宗教的なあるいはなにかの禁忌として排斥されるということもない。それは人として「ある状態」であるに過ぎなくて、それがたまたまマイノリティであるだけなのだ。そういう文化的風土に生きている日本の俳優が米国のゲイを表現することがどんなに難しいかは考えて見ればすぐに分かる。それをストレートプレイはほぼ初めてという今村にやらせる方も随分大胆である。あるいは買いかぶりが過ぎる。つまり、今村ねずみのゲイはこの芝居も含めて二つながら大失敗である。彼の演技力ではおかまは無理だということをはっきりさせたという意味では、今後の役柄の選択基準になったであろう。彼のゲイのもっともいけないところは「泣き節」であるところだ。最初から媚を売って人の気持ちを惹きつけようなんて思う人間は女でもそうたくさんはいない。今村ねずみに難しいことを要求しても無理だからこれ以上はいわない。今後は役を選んだほうがいい。踊りも「ショウ」で見せるならいいが、こういう舞台ではやらない方がいい。なぜなら彼の踊りは我流に過ぎないからだ。そうはいっても彼のファンは大勢やって来る。NHKの朝ドラに出ている強みのある草笛光子を目当てのファンも多い。なにしろ博品館劇場だからね。こんなことを書いている僕など、知られたら袋だたきにあいそうだ。

“Six Dance Lessons in Six Weeks.” ああ、これだったら見なくたって分かる。だったら見なきゃいいじゃないかといわれるかもしれない。そうはいかない理由もあるのよ・・・。

 

 

題名:

6週間のダンスレッスン

観劇日:

07/8/17  

劇場:

博品館劇場 

主催:

博品館劇場

期間:

2007年8月16日〜9月2日

作:

リチャード・アルフィエリ
翻訳: 常田景子

演出:

西川信廣

美術:

朝倉摂

照明:

大石真一郎

衣装:

宇野善子

音楽・音響:

高橋巌 

出演者:

草笛光子      今村ねずみ