題名:

スキップ

観劇日:

04/12/3

劇場:

サンシャイン劇場

主催:

キャラメルボックス     

期間:

2004年11月23日〜12月25日

作:

成井豊 (原作)北村薫

演出:

{director}成井豊

美術:

キヤマ晃二     

照明:

黒尾芳昭    

衣装:

丸山徹

音楽・音響:

早川毅

出演者:

坂口理恵 岡内美喜子  岡田達也 西川浩幸 岡田さつき 
細見大輔 前田綾 畑中智行 温井摩耶 大木初枝 三浦剛 實川貴美子 藤岡宏美 
左東広之 松坂嘉昭 青山千洋 筒井俊作 多田直人
 




「スキップ」


キャラメルボックスは去年に続いて二度目だ。
大変テンポがよく、見ていて気持ちがいい舞台だった。同名小説を成井豊が翻案したものだが、朗読が多用されているのは原作をそのまま採用しているのだろう。文章の筋が素直で、それがいい効果を上げている。映画ではよく使われる手法だが、内面を描写したり物語を進行させたり実に説得力がある。
十七才の高校性、一ノ瀬真理子(岡内美喜子)がある朝目覚めると四十二才の自分、桜木真理子(坂口理恵)になっていたという話である。つまり二十五年もの歳月をスキップ=飛ばしてしまったのだ。この二人が常に舞台上にいて適宜入れ替わるのだが、このタイミングが絶妙で、桜木真理子の娘美也子(實川貴美子)や他の同級生たちとのやりとりは団体体操を観ているようで楽しめた。
成井豊の才能を感じるところであったが、いい原作に巡り合った事も僥倖であった。
僕はここ十年以上前から小説が読めなくなった。あんなに夢中だったハードボイルドも読み出して、三ページと続かない。おもしろくない。文章が気に入らない。たぶん現実がフィクションを越えているという感覚からだろうと自分では思っている。だから、どんな小説家が活躍しているかは新聞の書籍広告で知るだけで、内容もその広告コピー以上の事は知らない。
高村薫という女流作家がいるから北村薫も女だろう。漫画の原作を書く作家にそんな名があったか?などという認識しかなかった。北村薫は男で僕らと同世代、早稲田のミステリー研にいて、いまは母校春日部高校の教師をしているということだった。覆面作家としてデビューしたが、その後多数のベストセラーを生み出し特定のファン層がある。本屋に行ったついでに見ると文庫本もそれなりの数がそろっていて認識を新たにした。
成井豊は高校時代の恩師北村薫の原作を翻案したことになる。タイムスリップものを多く書いてきた成井にとっては自分の守備範囲にあるテーマで、これは舞台化したいと思っていたらしい。縁は異なものである。
話はたわいもないもの、といっても筋書きの責任は北村薫にあるといっていいが、「エンターテインメント・ファンタジー」を標榜しているこの劇団にはなじみの世界だ。
ある朝高校生の真理子が目覚めるとそこは見知らぬ家だった。寝ている間に四十二才になっていたことが次第に明らかになる。十七才の娘がひとりいて、その高校生が通う学校の教師をしているらしい。四十二才の身体に思春期の心が宿っていることになる。娘美也子は母親の変化に戸惑うがやがて事情を理解し、真理子の「現状復帰」を積極的に手伝うことにする。やはり教師をしている夫の桜木(岡田達也)も協力を約束してくれた。高校教師だからたくさんの生徒がいる。同僚もいる。自分に起こった「記憶喪失」を悟られないように桜木真理子を継続しなければならない。物語はこう言う状況でおきる主として学校内のてんやわんやを丁寧におもしろおかしく描いていく。二十五年後の暮らし方は大きく変わった。その比較文化論がおもしろい。授業風景にリアリティがあるのはさすが、不良学生や落ちこぼれもさもありなんというところ。男子生徒に恋心を告白されて困惑することもある。やがて学園祭の実行に向けて準備が始まり、真理子はその渦の中で次第に今の状況を受け入れる気持ちになっていく。そうしたある日バスに乗り生まれた街に向かう。家の辺りは空き地になっていてまわりの景色もすっかり変わっていた。もう高校生の自分に戻る事は出来ないのか?思い立ってあの頃の友人池ちゃん=池内(大木初枝)に連絡をとってみる。やってきた池ちゃんは年相応につかれた表情で高校生の面影はない。そこで自分が知らない、自分のその後のあらましを聞いた。
終幕、学園祭も終わり一区切りついた休日の朝、旅行鞄を提げて夫桜木と一泊のドライブ旅行に出かけようとしている。一ノ瀬真理子は桜木真理子を受け入れて生きて行く決心をしたようだ。
全体としてみればいわゆる学園ものである。しかも現在と六十年代の高校生活が二重に見えてそれを知っているものにとってはなつかしさに胸がいっぱいになる風景かもしれない。これは両方を知っている北村薫の視点である。そして、学園にフォーカスし他はいっさい見ないようにしたためにこれほど求心力のあるドラマに仕上がった。
一ノ瀬真理子の素直でしっかりしたものの捉え方、考え方がすがすがしい。自分が何故こんな理不尽な運命に見舞われたのかなどと嘆いたりはしない。目の前の状況を受け入れてそれを切り開いてゆこうとする。暗闇を手探りで進む勇気をたたえたい。それを見守る美也子や桜木も善意の人である。生徒や教師も悪意の気配などどこにもない。
この清新なキャラクターに岡内喜美子がさらに磨きをかけて理知的で涼やかな一ノ瀬真理子を作りだした。右手を少し上げて上体を傾け懸命に心情を説明する姿に観客はいやでも引き寄せられる。伸び伸びと屈託ない表情はごく自然ににじみ出ていて「アロンアゲイン」の時の小川江利子とはまた違った質ながら確かな演技力とみた。
桜木真理子の坂口理恵はこの若い集団のなかでは年長らしく貫録さえ感じる。独特の鼻声が気になるが、岡内の繰り出す直球を巧みに受けて返す要の役割を十分に果たした。
先に団体体操のようだと各エピソードやシーンの転換のことを書いたが、この劇はテンポのよさが身上で長編小説の要点を並べて間然とするところがない。だから岡内の素直さやテンションの高さもあって、善意の人々の少し変則だが心温まるドラマと受け止めていい。上品な砂糖菓子のような、つまり口にいれたら甘く香ってスッと溶けてしまうような味わいの物語である。
ところが、僕には気になることがあった。終幕、夫の桜木とドライブ旅行に出かけることになり鞄を手にした桜木真理子が立っている。からわらに夫、桜木の姿があったかどうか記憶にない。ない、というのはひょっとして僕がかってに記憶から消してしまったからかもしれない。というのも、そこにいることにとても違和感を覚えるからだ。一ノ瀬真理子は前を向いて生きて行こうと決心するが、その心はまだ桜木という男に出会っていない。この男は教師だから恐らくどこかの学校で同僚だったのだろう。出会って好きになり恋愛して結婚し美也子が生まれた。濃密な時間である。しかしその記憶が真理子の中には全くない。ないかぎりは赤の他人である。十七才の真理子が四十代の見知らぬ男と出会っていきなり夫婦である事を容認するなどいかにも不自然である。真理子がとても早熟でこの劇の間にそこまで成長したと言っても、桜木にとっては妻の顔した自分を知らない少女である。どう扱ったらいいのか?その関係はもっと納得のいくプロセスを用意してもらわないと理解に困る。ドライブ旅行にはいささか早すぎるのである。
こんな引っ掛かる幕引きにするくらいなら、いっそ桜木は一ノ瀬真理子がやってくる直前に病気かなんかで死んでいたことにしたほうがすっきりしていた。その死のショックで真理子の心は少女時代に戻った、とでもしたらどうか?
まあ、あんまり勝手なことばかり言うと、この物語全体が絵空事になってしまいそうだからよしにするが、実際冷静になって考えてみると、スキップとは女子高校生の心理を的確に立体的に描いて見せるために用意された特殊な設定で、何故?などという野暮な疑問を抱いてはいけないもののようだ。ある朝目覚めるとこれといったわけもなくグレゴール・ザムザは、断固として巨大な昆虫になっているのである。
こう言う構造は漫画によくある。フォーカスされた中心以外でどんな理不尽、不合理が行われても中心にはいささかも影響を与えず、リアリティは失われない。それはそれでかまわないが僕のような野暮には、これがたわいもない話に思えるのである。そういえば「エンターティンメント・ファンタジー」の日本語訳はたわいもない話になるか。
この芝居を十分楽しんだうえで言うのだが、北村薫に多くの若い読者がいて文庫本数冊が本屋に常備されている状況を見て一体これはどう考えたらいいかいささか困惑している。この小説が二葉亭に始まる日本近代文学史のどこに位置づけられるのか?いやこれに限らず、ベストセラーの「セカチュー」とかなんとかなど僕にはたわいもない話と思われる小説が一定のマーケットを形成している事がなんの脈絡もなく見えるのが気にかかる。
いっぽうで、「文学界」や「新潮」「すばる」などの文芸雑誌が軒並み一万部から二万部という超低調で廃刊寸前なのを知ると、時代の移り変わりを感じざるを得ない。小説を読まないものが心配しても始まらないが、せめてこう言う状況についての評論があったら読んでおきたいと思っている。
北村の話ばかりで肝心の成井豊に言及しないのは不公平だろう。この小説の戯曲化は非常に成功していると思う。北村薫の文章はいささかも難しい言葉を使わずに複雑な心理を描いてすっきりと頭に入る。清明な文体だ。その特徴をとらえ、朗読にうまくいかして状況説明をし、それを受けて役者が、舞台が動く。そのタイミングやリズムが絶妙で、かなり稽古してつくり上げた完成度の高いものである。一点だけ不満を言えば、この劇団の特徴だと思う簡素な装置のうち鉄パイプで組んだ二階建ての回り舞台を動かす必然性の作り方が手慣れていない。意味もなく、何となく回したり中途半端に止めてみたり使い方に工夫が足りなかった。
たわいないがおもしろい芝居だった。もう一度見るかと聞かれたらもちろん、と答えておこう。高原を吹く風のようにさわやかな一ノ瀬真理子を感じながら、これでいいのかと自分に問いかけてみるのも芝居を見る功徳にはなるだろう。      

 

     (2004.12.20)

 


新国立劇場

Since Jan. 2003