題名:

サムワン     

観劇日:

06/1/13        

劇場:

俳優座劇場    

主催:

ホリプロ    

期間:

2006年1月12日〜22日     

作:

フランク・マクギネス        

翻訳:

常田景子      

演出:

松本祐子          

美術:

堀尾幸男             

照明:

 沢田祐二            

衣装:

出川淳子            

音楽:

高橋 巖
出演者:
高橋和也 大石継太
千葉哲也  
                                

「サムワン」

二十年くらい前の話だが、ロンドンの下町、カムデンタウンの駅前で人を待っていたとき、目のくりくりした爺さんに話しかけられたことがあった。「10ペンスくれ」と云うのである。自分は傷痍軍人でまともな職に就けず、金に困っているとズボンの裾をあげて傷らしいものを見せようとするのをあいまいな態度で聞いていた。五月の欧州大戦戦勝記念日のあたりでいろいろ行事が行われている折りだった。頃合いを図って僕が「English(英語)を理解することは出来ない。」というと、びっくりしたように僕の顔をまじまじと見て「俺もだ。」という。「俺もEnglish(英国人)を理解出来ない。」といったのだ。続けて「Iユm Irish.」といってウインクするので、一瞬の間のあと二人で大笑いした。
この劇を書いたフランク・マクギネスもまたアイリッシュである。登場人物の一人がアイルランド人ということもあるが、如何にもそれらしい気質を感じさせる友情にまつわる話しである。といっても、三人の男たちの状況はきわめて深刻である。理由も分からずに街中で拉致され、鉄錆の浮いた壁の地下壕のような牢に放り込まれ、ご丁寧にも足かせをはめられ鎖でつながれている。モザイク国家レバノンでのことだから何があっても不思議ではない。アラブ人の若いものが監視についているというから過激派が白人を狙ったものだろうが、尋問もなければ理由も言わない、いつ解放されるかあるいは殺されるかいっさいが分からないという極限状況におかれている。
堀尾幸夫の装置は三方を鉄壁で囲い、天井も覆って閉塞感をだした。わずかに下手奥の天井に四角い穴を開け、はしごの先が覗いている。出入り口はここだけだから足かせに鎖は余計ではないかと思うが、これは人格をそぎ取るための一種の拷問なのだろう。実際にあった事件に取材しているというからこの通りに違いない。アラブという社会が中世的というか古典的というか一向に近代化しない価値観のままという印象を受ける。ただし、食事は粗末ながら与えられ、トイレに行くときは若い者がついてくるという。アルミのはしごで出入りする牢屋の構造では面倒で仕様がないだろう。
この監視の若者は日に何回か接触するはずだが、劇ではまったく登場しない。その場面があったら得体のしれないものに捕らわれている恐怖感が薄れたであろう。それにしても、食事(しかも汁気が多い)とトイレの度にあのはしごを上げ下げすると想像しただけで、この劇の構造は崩れるのではないかという気がする。余計な気遣いかも知れないが、演出家は不思議に思わなかったのか?
暗闇から「Someone To Watch Over Me.」という歌が聞こえて来る。50年代の流行歌、ガーシュインの曲というが、むろん覚えていない。「誰かが私を見守っている。」と自分を慰めている意味があるのだろう。「Someone Whoユll Watch Over Me.」が劇のタイトルである。このSomeoneがくせ者で、我々の中の誰かというよりは、どうも超越的な存在を云っているようである。この劇に一貫して流れている宗教観のようなものが鼻について、とてもニュートラルな気持ちでは見ていられなかった。(つまり余計なことを一杯考えながら見ていた。)
重い鉄の扉が閉まる音とともに幕が上がると、米国人の医師、アダム(高橋和也)が鎖につながれたまま体操をやっている。それを見ながらときどき身体を動かしている男がアイルランド人のエドワード(千葉哲也)、ジャーナリストである。エドワードは、アダムが健康を維持するために習慣的に体操をするのが気に入らない。万事状況の変化に合わせろというのだ。米国人のピューリタン的律義さと融通のきかなさに腹を立て、口汚くアダムをののしる。自分は取材して記事を書く仕事をしているが、何が起きるか分からない。だから臨機応変、どんな状況にも対応出来なければならないという。しかし、やがてそれもアダムに対する忠告であり、友情の証だと分かってくる。
彼らは恐怖感を紛らわすために、想像上で映画を作り、カクテルで乾杯し、故郷の海岸線をドライブしてつかの間開放感を味わったりしている。
そこへもう一人捕らわれたものが放り込まれる。マイケル(大石継太)はパイを作る洋梨を買いに市場へきたところを拉致された。古代英語の教師で、英国の大学をリストラされレバノンに職を得てやってきたばかりだった。何故何のために自分が捉えられたのか納得が行かないマイケルは二人に打ち解けるどころではなかった。
エドワードは中産階級の言葉を使う気弱そうな大学教師が気に入らない。イギリス人だからといって、自分の不満のはけ口にした。アイルランドで150年前に起きた大飢饉は、イギリス人のせいだとマイケルをののしる。マイケルも負けじと「アイルランド人が、じゃがいも以外を食べようとしなかったからだ」と応じて引かない。日本で云えば江戸時代の出来事を挑発の材料にするみたいなもので、この国の対立の根深さは僕らの理解を超えている。
やがて、マイケルも二人のやり方に慣れてきて、カクテルのパーティに参加するようになる。「僕はウオッカマティーニ。君は?」と聞かれて「僕はシェリー」と応えるとエドワードがいやあな顔をするのがおかしかった。アイルランド人にとってはシェリーなぞ女が飲むものだというのだろう。
あるときアダムが「Amazing Grace」を大声で歌うのを二人はだまって聞いている。この歌はクリスマスの季節になるとよく耳にする。もともとはスコットランド民謡で、米国でつけられた歌詞が奴隷を救うものという内容で、いわば賛美歌のようなものである。アダムはこれをフルコーラス歌いきる。
そして、次に明かりが入るとアダムがいた場所に足かせと鎖だけが残されていた。
エドワードは、アダムが殺されたのだと確信しているようだ。目に一杯の涙を浮かべ、アダムのために饒舌に思い出を語る。
そのエドワードが突然解放される日がやって来る。真っ黒に汚れたTシャツとパンツ姿で、捕まったときに着ていたシャツとズボンにネクタイ、革靴まで抱えて立っている。マイケルに対して申し訳ない気持ちが全身に現れていた。しかし、この頃になるとマイケルもそうした試練に耐えることが出来るほどになっていた。
終わってみると、この劇はちょっと屈折した男の友情の物語ということのようだった。「ちょっと屈折した」と云うところが如何にもアイルランド人気質で、監禁されて何をされるか分からないという恐怖感はそれほど強く感じられなかった。おそらく、拉致して拘束したアラブ人たちについて何も言及されていなかったからだと思う。そこがこの劇の欠陥で、自分たちの置かれた状況を分析し、アラブ人たちが何をしようとしているか議論のかけらすらないのはおかしいのである。とりわけジャーナリストなら自らの運命について推理する材料をいくらでも持っているはずである。米国人のアダムはすでに四ヶ月も監禁されている。エドワードは二ヶ月。行方不明の男たちをレバノン当局は、米国大使館あるいは国際機関は捜していると想像するのが自然と思うが、かれらはそこにはどうも期待していないらしい。たよりにするのはSomeoneである。
イラク戦争では、捕まえたものを一週間もしないうちにまるで家畜でも殺すようにしてその映像を送り付けた。ぐずぐずしていると自分たちが捕まる恐れがあったからだ。それにはアメリカにイラクから出て行けと云う明確なメッセージが込められていた。状況の説明不足および拘禁の理由がわからないというのはもうひとつ真実味=恐怖感が伝わってこないものだ。
欧米人を無差別に拉致したのだろうが、米国人とアイルランド人に英国人という取り合わせも、何だかご都合主義である。レバノンはフランス領だったからフランス人が入っていてもおかしくない。幸いなことに、母国語が皆英語だから成り立った話で、フランス人やらドイツ人が交じっていたら別の展開になっていただろう。
ジャン・ポール・サルトルは第二次大戦中ドイツ軍の捕虜になったことがあったから、こういう拘禁・拷問される話は戯曲にも小説にも少なからずある。そこから考えると、フランス人の場合は、人生の不条理についてあれこれ思いを巡らすだろうが、Someoneを期待したり友情を育むということにはならないような気がする。これが英国人だけであったなら、どのように脱出するか相談をはじめ、ドイツ人なら一人出し抜いてやろうとするのではないかなどとつまらぬことを考えた。
宗教臭も気になったことは最初に書いた通りだが、これはアラブ人との対立の構図が否が応でも際立って見えることになった。「Amazing Grace」をフルコーラス歌うというのもかなり挑発的で、うんざり聞きながらアイルランド人作家は少しやりすぎていると感じていた。この劇は、互いに相いれない異教徒という印象が最後まで残って、一人は解放されたものの、問題の解決へむけた希望など何も見えないというむなしい幕切れであった。
千葉哲也はなかなかの熱演だったが、口の悪さや皮肉屋で饒舌という見かけの下に友情が隠されているという「アイリッシュ気質」については十分理解していなかった。ジョン・フォードはアイルランド人であったが、彼の映画に登場する人物には典型的なアイリッシュが多い。(ジョン・ウエインもそうだった。)口汚くののしっているうち、ふとした瞬間に本当の感情が顔をのぞかせるという「落差」が面白いのだが、そのメリハリがしっかりとついていなかった。演出の松本祐子は昨年「蜘蛛女のキス」で男同士の芝居を作った。今村ねずみストレートプレイのデビュー作を台無しにしたA級戦犯は松本祐子だと僕は書いた。この芝居も結局、男の友情の話しなのだが男というものを「持て余し気味」の印象は免れなかった。マイケルも投獄された当初はともかく、いつまでもおどおどして弱々しいままではやはりおかしい。
訳もなく投獄された男たちの話しだというから、拷問やら死の恐怖など恐ろしいことが起こるのかと思っていたら、解放されたら何をしようという話に終始したので拍子抜けした。これは十年くらい前のことらしいが、いまのイラクなら確実にもっと深刻な事態になるだろう。用もないのに近づかないのが一番と心得るべし、か?
ところで、最初に書いたカムデンタウンの出来事だが、多いに笑いあったあと、爺さんが手を伸べるので、僕はその手をたたいて「悪いが、お金は持っていない。」といった。すると爺さん、口をとがらして肩をすくめると立ち去っていった。こういうあっさりしたところがまた、アイリッシュの愛すべき特徴である。

                                               

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


新国立劇場

Since Jan. 2003