題名:

その場しのぎの男たち

観劇日:

03/10/29     

劇場:

本多劇場

主催:

TBS/東京ヴォードヴィルショー

期間:

2003年10月11日〜11月3日

作:

三谷幸喜    

演出:

山田和也   

美術:

石井強司      

照明:

宮野和夫     

衣装:

菊田光次郎    

音楽・音響:

石神保     

出演者:

佐藤B作 佐渡稔 石井愃一 市川勇 あめくみちこ 伊東四朗 山本龍二 坂本あきら たかはし等 山本ふじこ 大森ヒロシ 増田由紀夫 まいど豊 櫻庭博道 瀬戸洋一朗 中田浄 他
 


「その場しのぎの男たち」


 創立三十周年だそうである。確かこの劇団初期の頃に見たことがあった。大勢が舞台でどたばたしている喜劇だったと思うが、あとのことはきれいさっぱり忘れた。その頃東京乾電池も評判で、こちらも見たような記憶がある。佐藤B作も柄本明も自由劇場からトンズラこいた(と柄本がパンフレットで言っている)連中だった。柄本が、乾電池の旗揚げ公演を見にきた吉田日出子に会うと一言「バカ!」といわれたという。ボォーという寝起きみたいな顔で下北や笹塚をふらふらしている柄本をみると、同根といっても、どこかに田舎の秀才が残っているB作にはヴォードヴィルに徹しきれないところがあって同じ喜劇でも質は違うと思う。自由劇場がとっくに解散したのに、分裂騒ぎもなくどっちも劇団として今日まで続いているのはおそらくテレビのおかげであろう。70年安保の後は、どの劇団にとってもいい時代だった言える。
 開幕前の二十分ほどお決まりになっているらしい「オードブルショー」というコント集を見せるのだが、これはあまり感心しない。第一に台本がよくない。間が悪い。役者に味がない。したがってサービス精神を感じない。浅草のヴォードビリアンは観客の鋭いやじや冷たい視線に鍛えられて芸を磨いた。溢れかえるほどの娯楽がある今と比較するのは酷だが、木戸銭を取る以上はもっと魅力ある芸をみせてほしい。本がダメなら例えば坂本あきらがいるではないか。買いかぶりかもしれないが、彼なら二十分を持たせられるだろう。それに追随する若者が出てくるかもしれない。そういう注文をつけてもいいのではないかと考えた。
 それにしても三十年は長い。世相は変わっても新しい観客を獲得しながらここまで来たことは客席を見れば分かる。まずはご同慶の至りである。
 さて、この芝居は92年初演というから三谷幸喜の30才前後の作品である。彼の評価は確立されたあとだと思うが、どこか若書きの感がある。せりふが練れていなくて、やり取りがぎくしゃくしたり、必要のないエピソードの挿入やスピード感のないギャグには白けるところがある。よく知らない劇団、ヴォードヴィルショーに書き下ろしたせいか、このての喜劇が得意でなかったからか、いずれにしても、もっと整理してシャープにできる余地を多く残した。才能にケチをつけるわけではないが、彼にしてはあまりいい出来の作品でない。
 演出は三谷の理解者といわれている山田和也である。山田の演出には、舞台の脇でギャグをやらせるなどディテールのつくりで納得のいかないところがあった。笑いをとるやり取りは立ち位置が不自然だろうと強引にでも舞台中央で見せて欲しい。隅でごそごそやるのはテレビカメラの目線のつもりなのか?
 決定的な問題は、山本龍二(伊藤博文役)の暴走を許したことだ。(伊東四朗とWキャスト)あの語尾をあげて、啖呵を切るような山本の癖をそのまま放置したから、他の役者から著しく浮いてしまった。山本龍二は「パートタイマー秋子」の時もそれが目だった。(拙稿を参照)しかし、「キーン」(作:J - Pサルトル、演出:栗山民也)の従僕の役では演出がこの癖を極力抑えた。いえば抑えることも可能だということである。怪優として定評があり不器用の割に誘いが多いのはいいとして、この癖が喜ばれているはずがない。伊東四朗は「この役はシリアスにやるべきだ。」と言っている。「伊藤博文はすでにフィクサーだから引いてやる芝居で、その中にすご味が出せればいい。」喜劇を知っている人の言葉である。このWキャストは伊東四朗で見たかった。
 山田がこの伊東四朗の線で踏みとどまって喜劇を作り出そうとしたら、もう少しましな芝居になっていたかもしれない。。しかし、この演出家に多くを求めることはどうも無理がありそうだ。
 三谷の若書きを責める気はないが、山田演出でもどうにもならない問題が脚本自体にあったということを指摘しておきたい。というのは、強引に喜劇仕立てにしようとしたために、人物と台詞に乖離が生じて説得力を欠いたという点である。観客は自分の中にある大臣という概念を舞台上の架空の大臣にいわばチューニングする作業が必要だった。そのかわりに観客は歴史的大事件というこの芝居の背景を見失ったのである。別の角度からいえば、話の筋が「その場しのぎ」、つまり単なる思いつきで、ころころ変わるのはギャグコントのようで面白いが、このてんやわんやの展開の先に三谷が見ているものはなにか?ということはさっぱり理解できないのである。
 三谷幸喜は、題材の選定がうまい。そして構成の巧みさにおいては当代一と言っていいだろう。この芝居も大津事件と言う申し分のない題材で、明治新政府の要人がロシアという大国相手に右往左往するどたばた劇である。襲われた皇太子の傷がどの程度のものだったか、ロシア公使シェービッチが日本側の面会を断ったために、さまざまな憶測がとんだこと。津田三蔵を皇族に対する罪で死刑にしようとしたこと。それがかなわず、狂人に仕立て上げようとしたこと。精神は正常と鑑定されたので、殺し屋を雇って拳銃で暗殺しようとしたこと。などの周章狼狽ぶりは史実であった。まことに喜劇に仕立て上げられるべき話である。しかし、当時の日本にとっては対処を誤れば大国ロシア相手の戦争に発展しかねない深刻な事件であった。何としても津田三蔵を死刑にしなければと伊藤博文は軍事に関係させて戒厳令まで持ち出したという。また後藤象二郎(当時逓信大臣)と陸奥宗光(当時農商務大臣)はまじめに暗殺説を唱え、青木周蔵(当時外相)に向かって「君、帰りがけ獄舎の窓から津田三蔵を撃て!」と言うと「維新前なら名案だった」と皮肉られたらしい。
 近代国家を作る現場とは実際こうだったのだろうと思って興味は尽きないが、三谷幸喜がこのどたばた劇のタイトルを「その場しのぎの・・・」としたところに三谷の劇作家としての態度が表れている。
 単刀直入に印象を言うと、三谷は「憶測」をもとに「その場しのぎ」で右往左往する軽薄な男たちの喜劇を書くために、この事件を利用したのだ。皇太子が軽傷で怒ってもいないことが判明するところでさっと幕を引くのは、喜劇の仕掛けとしての「憶測」が氷解(一種のオチ)したからで、この芝居は実際のところ出来のいいコントが持つ典型的な構造を持っていたのである。
 しかし、事件の本質は、むしろこの幕が下りてからにある。大津事件とは、日本中を自殺者まで出す騒ぎに巻き込んだことや、我が国が法治国家として世界に認められるか否かという課題を突きつけられたという意味から、維新以来近代化の過程でおきた最初の大きな国際問題だった。
 三谷は、こうした背景は喜劇のためには余計なものあるいはお飾りと思ったのだろう。
 就任五日目にして不幸にもこの事件に遭遇した首相松方正義(佐渡稔)は、藩閥政府の薩長輪番制でたまたまなった頼りない男として、また内務大臣西郷従道(坂本あきら)は松方の幼なじみで時には下僕のように慕うアッパラパーの人物として描かれる。陸奥宗光(佐藤B作)はいかにも知恵者かと思わせて実は思いつきの無責任、外務卿青木周蔵(市川勇)は単なる使い走り、後藤象二郎逓信大臣(石井愃一)は直情径行の変節漢である。一方、伊藤博文(山本龍二)は露骨に無能ぶりを笑う意地悪い老人として彼らとからむ。やがて、皇太子が無事とわかって一同胸をなで下ろしておしまいなのだが、これでは事態の深刻さや思いの切実さ、とりわけ事件が我が国の近代化に与えた影響の深さが伝わらない。
 このように三谷幸喜にとってこの歴史的事件のハイライトは、その場しのぎの無責任男たちの大騒ぎとして完結してしまっている。あえて言えば主題としての射程は、現代の政治家だってこのレベルではないかと言う批判として届いているかもしれない。しかし、それなら既に周知のことであり、何を今さらの感がある。この大騒ぎが終わってみれば、ところでそれでどうしたの?という思いだけが残って、観客はどうにも宙ぶらりんである。
 三谷は最近のエッセーの中でこんな意味のことを書いている。
 芝居を観終わった観客が「ああ面白かった!」と思ってくれて、家路に向かう駅につくころにはすっかり中身を忘れてしまっている。自分が書くのはそんな芝居でありたい。
 これをまるまる信用するものではないが、この芝居を観ると「その場限りのおもしろ劇」という点で、符合するのである。
 三谷のものをすべてみているわけではないが、「マトリョーシュカ」の展開の見事さと終盤のもたつき、ニール=サイモンばりの都会派ラブストーリー「You are the top 」の登場人物のいかにものリアリティと締めくくりのまずさ、映画「ラヂオの時間」「みんなの家」の豊富なエピソードとしまらない最後、と一様に前半の構成の面白さに比べると終幕は感動も余韻も薄い。何故かということを考えて、今回はじめて気がついた。三谷にとっては歴史観も思想性もなくて構わないものだったのである。面白い話はどうにでも作れる。しかし、なるほどとひとが納得出来るようにまとめるのは難しい技である。作家の側にある世界と向き合う思想なり人生観なりが根拠となって伝えたい概念が手渡されるのだが、三谷幸喜の場合、それが見当たらない。三谷だけではない。この世代以下が現在のテレビドラマをつくる中心にいるはずだ。消費される「面白い話」に一々批判精神やらある種の毒を込めても職場を失うだけだと彼らは心得ているのである。かくて、テレビ世代は面白いが結局はつまらない話を「面白い話」としてすり込まれ、感覚をマヒさせていくのである。三谷幸喜がその先べんをつけたとは言わないが、後少しなのにといういらいらがいつもこの作家にはつきまとう。
                              

 

                              (11/26/03)


新国立劇場