題名:

その河を越えて、五月       

観劇日:

02/6/7     

劇場:

新国立劇場     

主催:

新国立劇場    

期間:

2002年6月3日〜13日 

作:

平田オリザ/金明和

演出:

李炳君*平田オリザ        

美術:

島次郎     

照明:

小笠原純    

衣装:

李裕淑    

音楽・音響:

菊田光次郎/渡邊邦男

出演者:

三田和代 小須田康人 佐藤誓    谷川清美 蟹江一平 島田曜蔵    白星姫   李南煕 徐鉉吉吉 禹賢珠  金泰希           
 

 

「その河を越えて、五月」

この作品は、2002年舞台芸術賞〈朝日新聞主催、テレビ朝日共催〉グランプリを受賞した。(1月発表〉サッカーワールドカップの年にふさわしい配慮かもしれないが、グランプリはともかく、等身大の韓国と日本の交流を穏やかに描いた佳品として、十分評価できる。まずはプロデューサー栗山民也の手柄であろう。

設定がいい。

ソウルの街中を流れる漢口の河原で、日本人の韓国語学校の生徒とその先生である韓国人の一家が一緒に花見をする。桜の花びらがちらほら落ちてくる木の下で弁当を広げ、言葉がうまく通じないながらも互いに理解しようと努める姿をみるのは、気持ちの良いものだ。平田オリザと金明和が話し合って決めたことだろうが、ひょっとしたらこの世代でなければ考えつかなかったかもしれない。

僕が日韓条約反対運動にかかわったのが、高校生のころだ。このころは韓国の軍事独裁政権が人々を押さえつけていて、国内が、あるいは暮らしがどうなっているかあまり情報も届かなかった。民主化されるまでは、長い間、反日教育が徹底していて、日本の情報は鎖国状態、文化的交流など全くかんがえられもしなかった。 僕らは、差別の実態を子供ながら少しは知っていた。たとえば、小学校六年の同期の男子が父親に連れられて北朝鮮に帰った。〈日本人の母親は残ったが。〉学生時代の友人は日本に帰化した。差別はなんの意味もないことを知っていたが、なぜ、いつごろからあったのか、よくは知らなかった。それについて誰も語らなかった。

こういう過去を知っていると、まず、植民地支配と差別を非難され、謝罪しろといわれるような気がする。それからこっちも政治的なレベルの反論をして・・・という展開になりそうだ。少なくとも、いきなり桜の木の下で一緒に花見をするという発想は、なかなか出てこないのではないか?と思う。

はずかしながら、朝鮮半島の人々の生活原理のようなことを知ったのは、司馬遼太郎によってであった。 彼はどこかでこんな意味のことを書いていた。「韓国や朝鮮の老人はじつにいい顔をしている。にこにこしていて屈託が無く、ひがな一日踊ったり食べたりして、日本の老人の暗い表情とは大違いだ。老人が大事にされる、長幼の序を重んじる社会だからこうなるのだ。」つまり、この国は儒教の教えを土台にして成り立っているというのである。しかし、これが行き過ぎると、論理的正当性だけを追求するようになって、空理空論に陥り、現実から乖離して実効性を失う、特に政治においては、ともいっている。

そういえば、韓国語教師の弟夫婦がカナダへ移住することをオモニ(母親)に言い出すことが、家族にとって極めて深刻な問題あるいは事件として、この物語の重要な骨格になっているのがそれであろう。母親に対する異様なほどの畏れに驚くが、そうとわかってしまえば、納得できることである。

日本人のグループは、年齢もさまざま、それぞれが事情を抱えて韓国語を学んでいる。転勤の夫についてきた主婦、不登校だった若者、ボールペンを販売している会社の社員、水泳選手でオリンピックを目指す在日韓国人の青年とその恋人、世界中を回っているフリーターの女性などである。それに、韓国に新婚旅行でやって来て花嫁とはぐれて河原に迷い込んだ男が静かな舞台をかき乱す。これがアクセントの役割を果たして、少し平板な芝居の構成をひきしめた。

ひとつひとつのエピソードは、いまの日本の一般的な市民の状況を表していて、さらに韓国に身を置いた日本人の視点から韓国の現在を語る。僕が考えたような政治的議論はきれいさっぱりなくて、彼我の違いを確かめ、善意にあふれた言葉を取り交わすのである。 この平田オリザの水彩画のような現代の切り取り方は、この場合適切で、不満のないところだ。そして、とりわけきれいで的確、安心して聞ける日本語がいい。平田オリザの芝居は観たことがなかったが評判以上であった。ここではむしろ平田を指名した栗山民也のプロデューサーとしての才能が評価されるべきか。

俳優では、何と言っても白星姫の貫録。この存在感は、日本ではたとえられる女優が見つからない。 韓国語教師の李南煕も人柄のよさがにじみ出ていて好感が持てたが、次男の徐鉉吉吉も韓国にいかにもいそうな青年を表現豊かに好演した。

佐藤誓がサラリーマンというより「営業マン」の雰囲気をよく出していて、思わず実際、経験があるのでは?と思ってしまうくらい達者だった 。 収穫は小須田康人だと思った。第三舞台から出たようだが、何かやってくれそうな雰囲気を持った俳優だと感じた。  

このようにして、若い世代が次の日韓の関係を築いていこうとするのは、僕も賛成だ。2000年くらいの長いスパンで見れば、「不幸な時代」はそれほど長いものではない。しかし、こういえばいきり立つようにして不幸な時代を問題にする世代も残っている。はたして、「それは、それ」としてすまされるのか? その人たちの意見も聞いて見たい気がする。


新国立劇場