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「召命」
「渡辺源四郎商店」の名前はしばしば目にしていたが、この芝居の作者、畑澤聖悟が主宰している演劇ユニットの名だったことも「弘前劇場」で作家、俳優として活動後独立したこともはじめてわかった。畑澤は弘前中央高校の現役の教師ということである。同校は旧制弘前高等女学校で現在も女子高である。(註:平成7年から共学になったというご指摘を受けたのは驚愕の事実であった。)畑澤は女子高の先生なのだ。したがって学校のことはよく分かっている。ただしこの劇は、近未来の中学校が舞台。そこの校長が自殺した。何故かは明かされない。「この時代、中学校の校長は海外派遣の自衛隊より死亡率が高いのである。」(「パンフレット」の作者の言葉より)成り手がなくなった校長を教職員の互選で決めることになったという仮定の話だが、それにキリスト教で言う「召命」と言うタイトルを付けたのはかなり痛烈な皮肉である。そういう諧謔というかブラックユーモアがこの作家の持ち味なのであろう。2000年の作らしいが、劇団昴がどういうわけかこれをとりあげた。「校長が何故自殺したのか?」というただ一点を知りたいためにYは蒲田くんだりまで行く気になったようだが、果たして回答は出るのだろうか?
長田佳代子の舞台美術がよく工夫されていて感心した。校長室という設定だが舞台を半円形に囲って、奥から三尺ほど高い廊下を下手手前にかけて回り込むようにおろした。廊下の壁と部屋の壁がちょうどら旋状に見えてモダンな近未来を表現したのだろうが、上手奥に一枚、磨りガラスのはめられた昔風の木製のドアがあって、そこだけ時制が違っているようだ。
開幕の生徒の母親、黛温子(落合るみ)と家庭科の教師、近藤克美(茂在真由美)とのやり取りは、現在の教師と親の関係をスケッチ風に見せたもので、噂では聞いていたことだが現役の教師が書いた互いの本音と分かるところが面白い。生徒がピアスをしているのを咎めたのが悪いと母親が抗議にきたのであるが、教師としてはバカな子供に愚かな親と思っている。親の方は教師の学歴をあげつらって見下したいという態度がありありである。近藤教師の出た地方の教育系単科大学は偏差値が低いとかなり露骨な言い方をする。昔は、教師は大概が師範学校を出ていたから学歴でとやかく言われることはなかったと思うが、近頃では偏差値という尺度が幅を利かして、親が教師を尊敬しなくなった。教師の学歴がたいしたことはないと、気持ちの中では小ばかにしているのだ。そのまねを子供がするというのも当然の帰結かもしれない。実際問題として、それが教師としての人格や能力に関係ないことが分かっているから、言う方は溜飲を下げるだけ、言われた教師も蛙の面にションベンである。
僕らの世代は幸か不幸か「偏差値」なるものと縁がなかったからどこの大学を出ようと出てしまえば皆同じだと思っていた。実際学卒の給料は一律同じ、その後の能力といっても運次第で、社会で生きていくのに学歴などほとんど関係ないことを知っている。韓国のように入るのが難しい大学を出ると給料に二割五分増しのような露骨な差がある国は、思わず笑ってしまうほど正直だとは思うが、これなどは受験の能力と社会人としての能力を一緒くたにしているところが単純でどうも奇妙な光景に映る。それはともかく近頃では、わが国でも「お笑い」の世界ですら偏差値が取りざたされる世の中になった。この世界で高学歴といったら大卒かと思うと大卒などはざらにいるらしい。なにしろ同世代の半分は大学へ進学する時代なのである。知名度のない三流大学を出たものは、大卒でも高学歴とは言わないことになったようだ。高学歴というのは国立大学や昔はたいしたことがなかった早稲田・慶応・明治など一部の高い偏差値を示す私学出の「お笑い芸人」で、これらは大卒といっても別格という扱いである。言葉の意味が変ったのだ。ではいっそ韓国のようにギャラも別格にしたらどうかといえば、たちまち学歴と芸とどう関係があるのだと騒ぎ出すに決まっている。見ている方の笑いもこわばってしまうだろう。つまり理屈では分かっているのである。分かっているがやめられない。それがどうも偏差値というもので、これが人の心に住み着いてコンプレックスや優越感を生んで悲喜こもごもを巻き起こすものらしい。
しかし、このエピソードは話の本筋には直接関係しない。親がいなくなった後で、神妙な面持ちで聞いていた教師が「あのバカ!バカ!」と床を蹴飛ばして鬱憤を晴らすところなど、近頃の親と教師の典型的な関係を戯画化して見せたものである。二人が舞台から去ると、ギターを抱えた若者が出てきて歌い出す。どこかで聴いたような歌詞だと思っていたらすぐに芥川竜之介の「蜘蛛の糸」に曲を付けたものだと気がついた。この小説のお釈迦様が天上から人間世界の浅ましさをながめているという教訓的なところをうまく使って劇の序曲にしようと言う意図だったかもしれない。
この頃、文部科学省は何故か学校を指導し拘束する力を失って「校長」は教職員から互いに選んで就任するという制度を導入していた。いわば校長は誰でもいい、学校経営など勝手にせい!という態度である。あの文科省が打つ手なしとあきらめたというのは笑える。こういう設定がブラックなところで、しかも、誰も校長になりたがらない。理由は示されないが、前校長が自殺しているという事実がすべてを物語っている、というわけだ。そこでこの学校では、八人の候補者を選んで、その者たちで校長を決めるというルールにした。校長室で勤続二十五年、国語教師の草野ハナ(寺内よりえ)が新人教師の諏訪春子(池谷香)の授業を評価し指導しているところへ他の候補者が三々五々集まってくる。司会進行役を買って出る国語教師、勤続十五年の豪徳寺定江(高山佳音里)、三年目の社会科教師、長崎誠(平本未来)養護教員の小島尚子(市川奈央子)勤続十二年、技能主事の二十三歳、舘島流(舘田裕之)、それに民間企業から教師の体験学習を兼ねて出向しているレンタル教師の正岡岳史(宮島岳史)、最後に飄々とした態度で現れるのは安宅忍(星野亘)勤続二十九年のベテラン理科教師である。つまり、経験もバラバラ、出向教師、養護教員、技能主事(昔の用務員のこと、その昔は小使いさんだ。)と学校に関係していたら職種も問わない、誰でも校長になれるというわけである。皆一様に、こんなものに選ばれた不運を嘆いている。
司会を引き受けた豪徳寺はさっさと選んで早く終りたいという意図がありありだが、進行役なら選ばれにくいという計算もしている。しかし、ひとりひとり校長には向かないという理由をもっともらしく述べるのでいっこうに決まる気配はない。そこへ教頭の藤沢豊(やなせさとる)が様子を見にやって来る。この教頭がくせ者で、自殺した校長の跡を継ぐべき立場なのにそれを避けている。学校は教頭がしっかりしていなければやっていけない、自分がやめたら誰がやるのか、という理屈で勝手に校長互選の候補を選んだ張本人らしい。親父ギャグやら駄じゃれやら連発して愛想を振りまき、軽そうなところを見せてはいるが、実はしたたかな管理職の一面を垣間見させる瞬間がある。いかにも教頭、つまりナンバー2にいそうなキャラクターである。
劇は、この校長選びの過程を見せることが中心になっている。皆いかにして校長という役割から逃れるか、断る理由と他のものに押し付ける理屈を探して必死の思いである。そこに学校における様々な問題を詰め込んでいるのだが、例えば、養護教員が毎日のように保健室で過ごす生徒の精神的ケアをしていることを述べて、そういう問題が現在の中学校に存在することを示唆していて、なるほどと思うところもある。子供を預けている女教師には負担が多いということもある。しまいには、議論は行き詰まって、とうとうじゃんけんで決めようということになる。なんと校長はじゃんけんで決まるのだ。校長の権威はどうなったのかと嘆いている場合ではない。畑澤聖悟はこの大笑いの中で、近い将来校長のなり手はいなくなるだろうと警告しているのである。じゃんけんでは、諏訪春子が負けて、校長の椅子はこの新米教師のところに回ってきたのであった。諏訪は顔を覆って倒れ込んでしまう。この後、劇は二転三転するのだがいっこうに希望の見えない展開に暗澹たる気持ちにさせられる。本当に学校はこうなるのだろうか?校長の価値は地に落ちてしまうのだろうか?
畑澤聖悟は構成力の確かな作家である。他の作品は見ていないが手堅い作劇術を備えた書き手だと思わせるに十分な劇であった。教師と親の関係を、そのあきれた実態をプロローグとして観客の興味を惹きつけ、群像とは言えないが集団としての登場人物の人となりを描くことにも過不足がなく、配置もバランスがとれている。校長の地位を押し付けあうという単純な話を人間のエゴや欲を雑えて、緊張感を絶やすことなく面白おかしく描いて、間然とするところがなかった。
ただ、すこしおかしいと感じたことがないわけでもない。二十三歳の用務員や新米教師、出向教師にあえて言えば養護教員については、もともと校長になる資格があるだろうか、という点である。そこがこの劇の笑えるところで、野暮なことは言いっこなしと言われそうだが、とはいえ素行に問題がなかったとはいえない若い用務員が校長になったとしたどうなるのか?新米教師は教育という世界を経験してもいないのに校長になれるのか?なったとしてそんなことで世間は通るのだろうか?あの最初に登場した口うるさい親たちが事態をだまってみているとは思えない。そこにマンガになってしまう危険が潜んでいた。教職員なら誰でもなれるという校長が、この時どういう存在になっているのか説明があればもっとつじつまは合っていた。例えば、管理職としての職務権限は一切所有せず、学校行事で挨拶文を読み上げるだけの象徴的存在、ということであればこの「サルでもできる校長」の馬鹿馬鹿しさが理解出来た。逆に責任だけはやたらに重くて権限はまったくないという存在であったとしたら、そんなものに誰がなりたいものか。というので互いに押し付けあうことがより鮮明に分かった。いずれにしても、文科省が「勝手にせい」とさじを投げたその時に「校長」とはそれまでと違って何をして何をしない存在なのかはっきりさせることが必要だったと思う。
劇中、埒が明かなくなって休憩を取る場面がある。誰もいなくなった部屋で、そこだけ古ぼけた様子のドア、自殺した校長の執務室に通じるドアを若い用務員がこじ開けようとする。偶然見とがめた教頭が慌てて制止するのだが、それはあくまでも前校長が自殺した理由を封印しようという態度であった。
Yは校長が自殺した理由はなにか?教育の現場で何が起きているのかという関心一点で蒲田の町工場を改造した小劇場にタクシーまで使って足を運ぶ気になった。しかし、劇ではその理由を問わないとした。つまりはどんな問題があったのかはわからないのである。謎めいた校長の死と校長になったら死ななければならない(かもしれない)という暗示が下敷きになっている劇なのに、肝心の「死を賭した校長という役割」自体が判じ物のようになってしまっている。タクシー代を惜しむわけではないが、肩透かしをくらったわけだ。
一般に校長はその学校のすべての権限を掌握し、彼の教育理念をもって運営されていると思われている。校長先生は偉いのだ。ところが僕のような現場を知らない素人にも最近はそうでもないことがわかってきた。端的に言えば権力・権限というのは金と人事権+理念のことである。校長には予算を決める権限も人事権もないに等しい。理念といっても上には自治体の教育委員会があってさらにその上に文科省がある。しかも人事権はないのに教職員の管理監督義務はある。はっきり言えば一般の会社の課長くらいの権限と役割しかもっていないのだ。多少給料はいいかもしれないが、下からの突き上げと上からの締めつけ、校長さんはつらいのである。
したがって、誰もなりたがらないというこの劇の展開に違和感はない。しかし、だからといって揶揄しているだけなら、なにも解決しないだろう。校長の自殺の理由は明かされなくても、せめて「誰もなりたくない」校長とはどういうものか具体的に示されたらもっと奥行きのあるドラマになっていたに違いないと思う。
題名: |
召命 |
観劇日: |
07/9/28 |
劇場: |
蒲田演劇工場 |
主催: |
劇団昴ザ・サード・ステージ |
期間: |
2007年9月22日〜30日 |
作: |
畑澤聖悟 |
演出: |
河田園子 |
美術: |
長田佳代子 |
照明: |
古宮俊昭 |
衣装: |
|
音楽・音響: |
藤平美保子 |
出演者: |
星野亘 やなせさとる 宮島岳史 舘田裕之 平本未來 寺内よりえ 高山佳音里 落合るみ 市川奈央子 茂在眞由美 池谷香 |