題名:

胎内

観劇日:

04/10/8

劇場:

新国立劇場

主催:

新国立劇場      

期間:

2004年10月4日 〜17日

作:

三好十郎

演出:

栗山民也

美術:

島 次郎     

照明:

勝柴次朗     

衣装:

宇野善子

音楽・音響:

市来邦比古

出演者:

秋山菜津子 千葉哲也
檀 臣幸
 
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「胎内」


一組の男女とひとりの男が洞窟に閉じこめられる。洞窟は胎内の喩えであろう。とすればこの三人は何か?
花岡金吾(千葉哲也)は闇成り金のブローカー、汚職にからんで官憲に追われ情婦の村子(秋山菜津子)とともに温泉地を転々と逃げている。雨宿りではいった洞窟は、戦時中陸軍が立てこもるつもりで掘った横穴で、追っ手から隠れるのに都合が良かった。持ち込んだスーツケースとボストンバッグには酒と食料がある。村子は元ダンサーで新橋の女の子をおいたバーの経営者、刹那的な享楽におぼれ花岡とくっついて夫を捨てた。花岡は紡績工場の職工あがりで戦後はヤミをやって拳銃を隠し持つ様な無頼の徒になった。昭和二十二年というという設定だが、戦後のアナーキーな世相を象徴するような男女の風景である。
村子が愚痴をいい、痴話げんかが始まる。花岡が本夫との関係に嫉妬して力づくで村子を押さえつけ衣服をはぎ取ろうとするが、のし掛かった花岡は人の気配にぎょっとして動きを止める。地べたにはり付くようにボロボロの軍服を纏った男が力なく横たわっている。
佐山富夫(檀 臣幸)は、戦時中に兵隊としてこの穴を掘った。結核で既に妻子があったにも関わらず招集された。肺病病みで大学出のインテリだった佐山は古参兵の格好の餌食になった。いじめ抜かれ死んだほうがましだと思えるような苛烈な日々の中で次第に虚無的になり人格があやしくなったところで終戦、家に戻るが生きる気力もなく妻子に見放される。妻は枕元に男を引き入れインポテンツの佐山の存在を露骨に否定する。家を追いだされた佐山は死のうと思いながらあちこち転々として気がついたら自分の掘った穴へ戻ってきていたというのである。花岡は見とがめられたと思い懐柔しようとするが佐山は反応しない。食い物をやってもいらないと言い、首を絞めると殺してくれとつぶやく。
地震があって、横穴の入り口が崩れた。花岡は出口を探してあたりを掘るが岩に阻まれうまくいかない。閉じこめられたのだ。彼らは交代で掘り返したが衣服はボロボロに破れ次第に疲労の色が濃くなっていく。花岡と村子はわずかに残った食べ物を分け合うが、死への恐怖感がまさりそれを吐き出すほどである。このまま死ぬかもしれないという絶望は花岡と村子の間を険悪にしていく。村子はこの状況へ引きずり込んだ花岡に憎悪をつのらせる。愛していたのは夫だったと本音を吐くと、花岡は男の征服欲と村子の肉体欲しさから奪っただけだと応じ、二人のののしり合いはつかみ合いになりいつのまにか男女の営みの姿になっていく。
出口を掘る必死の作業にも関わらず死がいよいよ確実になって、花岡はすっかり弱気になって口数も少ない。村子は下着姿で力なくすわっている。佐山は村子にたいして「人間はいつかは死ぬ。死を見つめて覚悟を決めることが肝要だ。」と言い始める。しかし村子は死のうとした佐山が必死で掘るのはおかしいという。佐山は「自分の考えは間違っていた。」と告白する。自分は甘えていた。自分自身に嘘をついてきた。ボケて命をおもちゃにしてきた。死を前にして初めて自分がどんなに生きたいか、気がついたというのである。自信を取り戻したように見える佐山に死を恐れる村子は助けを求めてすがりつく。佐山の腰に顔を押し付けて震える村子がふと股間のものに気がついた。慌てて佐山はズボンを引き上げるが、意外にも村子も恥じ入ってうろたえる。この時俳優の尻はむき出しだった。
おそらく村子は男のそれを見て死の恐怖とは別の次元、いやむしろ現実へ連れ戻されたであろう。佐山もまた村子によって生きる意欲に灯がともったことを確信したのである。
ふたりは互いの来し方を話しているうち別れた自分の妻と夫と思い始め、相手を激しく難じていたが終いには許しを乞うように抱き合う。もはや嫉妬する気も湧かない花岡がそばへ来て笑うのにふたりは我に返り慌てて離れる。もはや佐山は食い物を独り占めする花岡を許さない。圧巻は終幕近く、穴堀りに疲れて横になっている佐山に花岡が話しかけ近づくと、来るな、来たら殺すと言うどすのきいた声がする。佐山のいるあたりを懐中電灯が照らすと白いキノコのようなものが一本浮かびあがった。それがなんであるかようやく理解した花岡がこんどは村子を求めて明かりを向ける。立ち上がって腰を伸ばし胸を張ってそれを見ている村子が浮かび上がる。もはや死を恐れる村子ではなかった。暗闇の中から搾り出すような佐山の声がする。
「俺あ、こどもを、生ませたい。」
インポテンツの佐山が現実的な死を前にして猛然と生きる意欲を示した。しかも子を孕ませると言う究極とも言うべき欲求を昂然と叫んで。それを受け止めるように村子は「屹立」している。この荘厳とも言うべき場面の中に、三好十郎は生も死も性も表裏一体のものなのだという主題を鮮烈に描き出した。
それにしてもなんというリアリズムだ。「浮標(ブイ)」の時もそうだったが、三好十郎は情け容赦なく人間の真実をえぐり出して見せるリアリズムの作家だと感じた。くそリアリズムといってもいい。写実主義の表現は直裁で分かりやすい。しかし、この劇のように上演となると微妙に難しいところが出てくるのも否定できないと思った。
もっとも違和感を感じたのは、村子のキャラクターというより、はっきり言えば「肉体」である。「戦後まもなく新橋のバーの女」という設定は僕らに先入観を抱かせるものでもあるが、この物語の流れからいって、三好十郎のイメージにあったのも成熟した性的魅力に溢れた女体だったに違いない。今風に言えばフェロモンのむんむんするような女である。そんな肉体(を演じられる)の女優が都合よくいるか、いたとしても舞台の上で肌もあらわにしどけない仕草をするについては問題があろう。
秋山菜津子は決して村子役に合わないとは思わない。素顔だけで十分色気を発揮する女優である。ところが、この舞台では長い髪の毛に隠れて表情がよく読み取れない。しかも腰から尻、太ももをコルセットのようなもので頑丈に蔽い、胸も押さえつけていた。これでは秋山の細い身体が中性的に見えて狙ったイメージからはほど遠い。
栗山民也はわいせつに見えることを嫌ったのであろう。戯曲は動物的な交わりや性的な象徴としての肉体を要求しているが、舞台を作るうえでは節制したに違いない。しかし一方で勃起した一物をリアルな形で見せておきながら、これが限界だったとは僕には思えなかった。もう少し言うなら、三好十郎が描いた村子のイメージを仕草やせりふで論理的に説得できる女優がいればよかったと思う。
 もう一つの不満は、島次郎の装置である。少し傾斜した細長い舞台を劇場の真ん中においたのはいいが、そこが洞窟であるという表現は両端の壁にかがんで通るほどの穴を開けた以外、ほとんどしなかった。舞台中央に水たまりがあり絶えず水滴が落ちてくる。それが象徴的だとしても、三人が閉じこめられたという閉塞感はない。閉じこめられ湿度と気温が上昇して息苦しくなり、精神的にも追いつめられていくという迫力が感じられないところはリアリズムの芝居として一貫性がない。両側に開放されている舞台だから囲むわけにいかないが、ならばいっそのこと客席の天井ごと紗幕で覆って観客ごと閉塞してしまう手もあった。
パンフレットの記録によると、この戯曲は昭和二十四年の「中央公論」に発表された。まもなく三好の主宰していた戯曲座で取り上げようとしたことがあったらしいが時期尚早として見送られた。初演は発表から十四年後のことである。舞台に上げることを躊躇させるものがあったと推測する。(初演以前に当時のNETテレビが、岩崎加根子、三国連太郎、金井大のキャスティングで制作している。これは見てみたい!)
では何故いまになって栗山民也はこの芝居を取り上げたのか?「胎内」は今シーズンのテーマ「The Loft 小空間からの提案」のひとつである。小空間の必要性についてかなり重要な発言をしていると思われるので紹介しておこう。
「・・・物質的な豊かさと引き換えに、しかし私たちは人間としての基本的な関係性をいつの間にか忘れ、対話の失われた一方通行の状態が続いているのではないでしょうか?
演劇という舞台芸術の現在も、確かに最新のテクのロジーの導入によって、より便利に円滑に機能することで、巨大で華美なものを求める傾向にあるように見えます。・・・そういった時代の中で、演劇が必要とするいくつもの絶対的な関係をもう一度見直すためにも、人間の身体と言葉を中心とした、交流の場所が欲しかったのです。」(パンフレットから)
そう書いて、小劇場「The Loft」を欧州の劇場に必ずと言っていいほど付属するアトリエやスタジオ、ラボと呼ばれる多機能の小空間になぞらえて、使っていこうというのである。これは営利を追求するものには決して出来ないことであろう。
この主旨から言えば「胎内」を選んだことはうなずける。リアリズムといっても、佐山のモノローグは多分に思弁的であり、時には冗長である。花岡との会話も極めて理屈っぽい。昭和二十四年の思潮の中で三好十郎が考えたありったけの言葉=想いを詰め込んだ戯曲として、あるいは実存の根本に関わる問題提起として、それらは現在にも十分通じる。
しかし、空席が目立ったことが気になった。それならいっそのこともっと大胆に戯曲の指示しているところを表現してもよかったのではないかと思った。実は見たあとで上にかいたように村子の表現が中途半端だと感じて、戯曲にあたって確かめようとした。が、上演回数も少ないこの作品を手に入れることは出来なかった。ただ三好十郎はト書きをかなり事細かに書き込んでいるらしいことが分かった。村子についての断片をとりだすと「成熟しきった肉感的な体つき」「ほとんど裸体に近い姿」「エジプトの女神にあるような、肉という肉をげっそりとけずり落として、三角形に、全く精神的になってしまった顔と、まだむっちりと豊かな胸や腹部や腰などの、わいせつに近い曲線を露出している首から下とが、激しい対照をなして・・・」ということになる。
僕の勘は当たったが、これを舞台で表現できるものはいない。おそらく三好十郎は文学としての戯曲を書いたのだ。ならば必ずしも上演を前提としない。あえてこれを選んだ以上、もうすこし大胆にしたほうが感情移入しやすいと思った次第である。(観客のレベルは低くないと思う。)
そんな中で、檀 臣幸は佐山という困難な役どころを極めて説得力のある表現で示した。生きる意欲を失って洞窟に転がっているところから、いよいよ外にでられないとわかり死を覚悟してなお生きようとする翻心まで微妙な変化を巧みに演じ分けた。「俺あ、こどもを、生ませたい。」と言うしわがれた声はいまも耳に残っている。
逆に千葉哲也の花岡は少し一本調子になった。無頼漢という強者の顔の下から死を前にして紡績工場の職工あがりという小心者が現れる。この変化をもっと劇的に表現してもらいたかった。この人にはいつも役柄の現在はあるが、過去が見えないもどかしさを感じる。
さて、「胎内」とは何かという命題を積み残してきたが、いまとなっては複合的な意味を込めたと分かる。しかし、これが人間の現実ではないかという三好十郎の言い分から見れば、胎内など優しすぎるタイトルに思えてくる。少なくとも彼らが無垢になって生まれ変わると考えるのはロマンチックな幻想にすぎぬ。   

 (2004年10月19日)
 


 


新国立劇場

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