題名:

高 き 彼 物

観劇日:

04/9/9

劇場:

俳優座劇場

主催:

俳優座     

期間:

2004年9月2日 〜12日

作:

マキノノゾミ

演出:

鈴木裕美

美術:

川口夏江     

照明:

森脇清治    

衣装:

宮本宣子

音楽・音響:

小山田 昭

出演者:

高橋長英 藤本喜久子 森塚 敏  浅野雅博  歌川椎子 松島正芳    酒井高陽
 


 

「高き彼物」


突然雷が鳴って激しい夕立の雨音とともに幕が上がる。舞台中央に座卓をおいた座敷。正面の縁側のサッシ戸は開け放たれている。高い石垣に視界は遮られているがその手前の僅かな庭に大輪の向日葵が数本咲いていて盛夏の風情。庭に突き出したモルタルの家屋の一部が石垣の圧迫感を殺しているのは、美術の川口夏江が工夫したものか。その裏からひょっこり老人が現れると言うリアリティをうまく生みだした。
座敷の下手には仏壇と飾り棚、上手はソファの上に段ボールが積まれ、そばに事務机といまはなつかしい黒いダイヤル電話がおかれている。上手奥に食品を並べた陳列棚があるが商売熱心には見えない。要するにここは田舎町によくある商家の居間なのである。
その店の上がり框にずぶぬれの警官徳永光太郎(酒井高陽)が入ってきて、制服を脱ぎ始めると、訪ねてきていた教師の野村市惠(歌川椎子)が応対している。やがてこの家の娘猪原智子(藤本喜久子)がそれに加わる。遠州の方言丸出しの会話が面白い。ただし、この導入部は無意味な愛想笑いが気障りでテンポも悪い。どうなることかと思っていたら、やがて病院へ出かけていた父親猪原正義(高橋長英)が帰ってくると、妙な芝居は収まった。演出の鈴木裕美が何か考えすぎたのかもしれない。
前年、正義が二人乗りのバイク事故に遭遇して面倒を見た少年のひとりが、事故現場で脱水症状を起こし猪原家に運ばれた。藤井秀一(浅野雅博)は東京の予備校生。事故は中学の同級生と遠出して起きた。元暴走族の友人は亡くなったが秀一は足を折っただけで助かった。秀一が世話になった猪原正義に長文の手紙を書いて心情を語ったことから交流が続いていた。
病院から帰った正義が秀一に会うとなにか心にわだかまりを持っていることに気がつく。猪原正義は十五年前に高校教師をやめた。この年代の少年とは多く付き合ったからわかるのであろう。正義は突然座卓の前に坐って茶わん酒を勧める。
事故は実は自分が起こしたものだと秀一がいい始める。バイクの運転を教えてもらって山を下りる途中ガードレールに激突したのだが、警察は元暴走族が起こした事故と決めつけて処理した。それを告白して友人の母親に謝罪したことが予備校の教頭である父親に知られ、父親は結局これを金で解決した。秀一はそれを軽べつし、嘘をつき通している自分も許せないと悶々としていたのだ。いかにも少年らしい純粋さである。
秀一の懊悩を理解した正義は、解決方法を一緒に考えるためにしばらく滞在したらどうかと提案する。そこへ父親から予備校の夏季講習へ出ろと言う電話。正義は事情を話すが聞き入れてもらえない。つい怒鳴ったことが引き金になって、第二幕では正義が教師をやめたいきさつが明らかになる。
訪ねてきていた野村市惠はかつての同僚で、半年にいっぺんほど自分の生徒の文集を正義に届けていたのだが、「なあに、あらー両方に気があるで・・・」と正義の父猪原平八(森塚敏)にいわれている。この老人は飄々として浮世離れしているようだが、家人の動向はよく見ていて三十路をすぎた孫の智子にも最近相手が出来たらしいとひとり察知している。智子は母親を正義が教師をやめる以前に亡くしており、自分が家を出たあとのことが気掛かりで、安易にそれを言い出せない。そうとも知らずに正義のかつての教え子、警官の徳永光太郎は妻子に家を出られていまや独身、智子に恋心を告白する機会をうかがっている。
と言うわけで恋の矢印があちこちを指しているもどかしさがこの劇の求心力を形成していて、この点余計なものを挟まない分かりやすさがマキノノゾミのスマートさと感じた。さらに、秀一との語らいの中にはっきりと現れるが、正義が英語の勉強法を教えるくだりや吉野秀雄の詠んだ歌「屑たばこ集め喫へれど志す高き彼物忘らふべしや」の解釈をゆだねるやり方、酒を酌み交わすという少年の心をくすぐる方法はまさに高校教師、正義は教えることが嬉しくてしようがないのである。それほど天職と思える教師を何故やめたのか?そのなぞによって観客は劇の中にひきこまれるというのがもう一つの求心力である。
それは終盤、秀一の父親から届いた速達によって明らかになる。電話で怒鳴られた父親が、猪原正義とは何ものかと手を尽くして調べ上げたことを書き送ったものだった。そこには正義が教え子との同性愛の嫌疑によって辞表を出したとあった。
秀一を前に逃げないことを覚悟した正義が話しだす。当時、片山という家庭事情が複雑だが優秀な生徒がいて、家で勉強が出来ないのを知った正義が当直室に呼んで泊めてやっていた。他の教師と当直を交代してまでも面倒を見た。夏休みを目前にしたある蒸し暑い夜当直室でうたた寝から目を覚ました正義の前に、水泳で鍛えた少年のからだが横たわっていた。正義はそれを美しいと思った。見ているうちに熱いものが込み上げてきて、それは恋だと思った。正義はその肉体に恋をしたのだと告白する。相手が女であれば確実に襲っていただろうともいう。正義は代わりに自慰をした。その最中に片山が目を覚ました。片山は他の土地へ転校して、それ以来ゆくえは知らないという。
自分は教師として有るまじき行為をしたばかりでなく人間としても最低の男だと頭を下げる正義に秀一も野村市惠も智子も言葉がでない。
何だか後味の悪さを感じるところである。
鍛えられた少年の肉体を美しいと感じるのは女よりもむしろ男に多いのではないか?状況さえあれば、それを恋だと言い張ってもおかしくはないだろう。恋というのは脳のしびれだ。(あばたもえくぼとはよくいった。)理性がお休みになったからそんなことをしたのである。それを他人に理解しろというのは無理な話だ。正義がその行為を告白することによって自分が正直であることに満足しているとすれば、多いに迷惑である。狂った正義のしたことを目の前にいる正義と同じに考えることは出来ないからだ。だから言葉を失う。むしろ、一同は、辞職の理由になったという世間一般に言われる同性愛行為があったのかあるいはなかったのかに興味があるのである。正義は「それはなかった」とだけいえばよかった。自分が美しいと感じたことは事実だが他人には伝わらない。しかし自分の行為を自分が許せない。冷静になった正義はそこで自分に罰を下すことにした。天職を失うという最大の罰を。それで済んだ話である。
ここまでひとりの生徒に関わって指導するというのも異常なことである。妻を亡くして時間があったことでもあるが宿直室に何度も泊めるというのは変なうわさがでるに決まっている。まさか自分が理性を失うとは思ってもいなかったのだろう。その前に何故こんなことが許されたのか多いに疑問の湧くところである。
と思っていたら、マキノノゾミは飛びきり愉快な結末を用意していた。老人が指摘していた智子の相手が現れたのである。それは、今や医者になって病院に勤める片山仁志(松島正芳)だった。あれから母親が離婚して一緒に実家に帰り、現役で医学部に入ったというのだ。あの夜のことはみじんも話に出ない。片山は正義が思っているほど気に掛けていなかった。最後に正義が倒れて病院に運ばれるが概ねハッピ−エンドである。
じつに劇的で緻密で面白い構成の芝居である。唯一の不満は正義の余計な「芝居がかった」告白が染みのように残ったことである。
というのも秀一の少年らしい潔癖さ純粋さにまともに向き合って人生の先達らしく時に突き放しときに導き「高き彼物」とは何かと問い続ける教師正義の姿は、一種の精神主義、理想主義の象徴といえるが、人間の本能に根ざす行為をそのおなじ地平において計ることは難しい。僕らは正義の感情の発露に唖然としながらそれを肯定する一方で、「高き彼物」に思いをはせると言う両義性を生きている。この芝居においてそのふたつのことに合理的な橋渡しが出来たかどうか疑問のところである。その点、片山の登場によってかろうじて救われたようなものだが、あれが女だったらと考えるとぞっとする。
 この猪原正義にはマキノノゾミの英語塾の先生と言うモデルがいたようだ。昔はいかにも先生らしい先生がいたものである。吉野秀雄に習った人がいたというエピソードもおそらく実話を元にしたものだろう。ただし、「屑たばこ集め喫へれど志す高き彼物忘らふべしや」は頑張っていてあまり感心した歌ではない。貧困と病苦の歌人という背景を添えてみればますますその思いが強くなる。こんど知ったが、吉野秀雄にはもっといい歌がたくさんある。山口瞳が鎌倉アカデミアでの教え子で、彼が小説家になってからも家族ぐるみの交流があったこと、それが松竹で映画化されたことも知った。
さて、舞台は立ち上がりの変調を除けば再演を重ねただけあって、アンサンブルもうまくいっていた。とりわけ高橋長英がよかった。最近いくつか見ている中でいつも役柄とのずれを感じて不満だったが、猪原正義は役を得たという感じでいきいきとしていた。森塚敏は飄々とした味わいのある老人ぶりでしっかりと脇を固めた。長生きして欲しい。警官の酒井高陽も成績の悪い生徒だったところをうかがわせる好人物をうまく造形している。方言が巧みであった。
それにしても、こんなにも理想主義を高らかに歌い上げた作品が今どき成立するのに驚いた。「高き彼物」とは何かと誰もが考えることだろう。高き彼物は究極的には唯一のものではないか?と考えるかもしれない。しかし唯一のものなどない。理想主義の怖さは、この逆立ちである。
僕はこんなふうに考える。「高き彼物」とは僕たちの心の中にあって、それを追い求め届きそうになってもさらに高みへ去って永遠にたどり着かない雲のようなものではないかと。    (2004.9.14)

 


新国立劇場

Since Jan. 2003