題名:

殺陣師段平

観劇日:

06/5/12

劇場:

シアター1010 

主催:

青年座     

期間:

2006年4月25日~4月30日

作:

長谷川幸延

演出:

鈴木完一郎

美術:

柴田秀子     

照明:

中川隆一    

衣装:

岸井克己

音楽・音響:

ノノヤママナコ・高橋巖

出演者:

津嘉山正種 山野史人  永幡洋  村田則男 佐藤祐四 田中耕二 井上智之 堀部隆一 石井淳 山崎秀樹 川上英四郎 高義治 高松潤     豊田茂  中村大輔  今井和子 岩倉高子 阪上和子 泉晶子  万善香織 小暮智美  

              
      

 


「殺陣師段平」

新国劇の代表的な演目を新劇の青年座が上演するにはいささかの議論があったと鈴木完一郎が書いている。しかし、あえて青年座五十周年記念公演に選んだ理由は、芝居の裏方の話しであり、その普段は日の当たらない場所にいるもののことを考える機会にしようと思ったことと、温故知新、古い「旧劇」の芝居でも面白いものは面白い、青年座らしさを十分だせると考えたことだという。「国定忠次」なら議論にもならなかっただろう。
青年座初演は二年前のことだが、その後まもなく津嘉山正種が脳梗塞で倒れ、宮本研の「夢・桃中軒牛衛門の」を山本龍二にゆずって静養していたが、これが満を持しての復帰第一作目となった。三日間の公演だから、よほど悪いのかと思ったら、とんでもない。3月から6月にかけて、あいだをおいて11月12月、最後を国立劇場おきなわで締めくくる予定という長丁場の旅公演であった。
東京の三日間は北千住駅前に出来た「シアター1010」で、ここははじめていった。客席七百ばかりの、芝居にはちょうどよい入れ物で、席にも余裕があって気分のいい劇場である。ロゴ入りの土産物を売っているのはいいが、いっしょに「函館のとろろ昆布」をおいているのには笑えた。さすが下町、万事おおらか庶民的である。
さて、この芝居は長谷川幸延の作だが、補綴・演出、鈴木完一郎とあるから演出家の手が入っている。二時間とちょっと、という程よい長さにするにはかなりつまんでしまったのだろうが、このつまんだことが存外はっきり分かって「補綴」が必ずしも成功していない嫌いがあった。とは言え「殺陣」を見せるのがこの芝居の、いや新国劇の真骨頂だから、それがどうだったかといえば、どうも立派に「新劇」になっていて、出自は争えないものだという気がした。不満だというのではない。ただ芸そのものが別物だということである。
津嘉山正種は病が癒えて渋味が増し、風貌が辰巳柳太郎に似てきた。それだけに辰巳が見せたあの豪放磊落でやや狂気を含んだ危うさ、いわばくそリアリズムが思い出されて、それに比べると落ち着いて理性的であり、悲劇的ではあるが「凄まじさ」という点では辰巳の線のこちら側にとどまったといえる。
もっとも、線を越えたとなればたちまちアンサンブルが壊れて芝居はめちゃめちゃになってしまっただろう。それこそ鈴木のいう「青年座らしさ」だったというべきかも知れない。
大衆演劇というのは観客の感性に直接訴える。考える余裕など与えずに有無を言わさず劇世界にまき込んでしまう。観客は登場人物とともに生き、泣いて笑って、カタルシスを覚えるものだ。日本の近代演劇の出発点は坪内逍遥、島村抱月らが創始した文芸協会であった。その演劇研究所出身の澤田正二郎は、彼らの近代演劇とは一線を画した新しい国民の劇を打ち立てようとして、新国劇を旗揚げしたが、それが殺陣を見せ物にする大衆的演劇だったかどうかはかなり疑問である。
澤田があまりにも早く亡くなったために、結果としてこの劇団は「新国劇」にならざるを得なかったのではないかという気がする。その澤田正二郎は、東京での旗揚げが不入りで、一旦関西に逃れ捲土重来を期している。
物語は、澤田正二郎(佐藤祐四)が講談の「国定忠次」を舞台に上げるに当たって、新しい剣劇、リアリズムに裏打ちされた殺陣を考案する者を探しているところから始まる。
大阪の弁天座の楽屋。頭取(劇団の世話役といった意味)の市川段平(津嘉山正種)は歌舞伎の出身、かつて鴈治郎に殺陣を付けたことが自慢である。若い衆を集めて稽古をつけるがそれはまるで歌舞伎の殺陣である。そこにはいくつもの約束事があって、ほとんどの動きは様式化されている。舞踏のように優雅で美しいとも言えるが、剣を交えて闘争する激しさ、迫力はない。
澤田正次郎=澤正は段平に誰か適当な殺陣師を紹介しろというが、段平はそれに衝撃を受ける。自分は劇団の中にいる。何故自分ではないのか?澤正は真実が欲しい、ほんとうに戦っている様子、リアリズムが必要なのだという。無学文盲の段平にリアリズムが何であるかわかるはずもない。
しかし、勢いに気圧されて澤正は段平に任せることにした。第二場は、大阪宗右衛門町のにぎやかな一郭。劇団をやめようとしている辻(井上智之)が、女優の葉山あけみ(泉晶子)も連れ出そうとしている。やってきた段平がそれを察知し、止めに入る。女優も逃げようという気は無い。辻はもともと澤正に恨みを抱いているようだったが、女優をかくまわれたとやっきになっているところへ当の澤正が現れる。いい機会と思って仲間をけしかけ痛めつけようと澤正に襲いかかる。すると澤正は持っていたステッキを刀替わりに振り回して、たちまち若い者らを蹴散らし倒してしまう。その振る舞いを見ていた段平が、沢正のいうリアリズムとはなにかを悟るのである。
この第二場は、宗右衛門町の路地の雑踏ということになっているが、墨で屋号を書いた白提灯をいくつか下げただけのそっけない風景で、とてもあの路地のにぎやかで猥雑な雰囲気はなかった。人の出入りもあまり整理されておらず、よく分からない動きがあって戸惑うことがあった。
それというのも、辻と澤正との間にどんないきさつがあったのか、あるいは辻と女優の葉山あけみとの仲はどうだったのか、その肝心なことにはなんの説明もないまま、目配せやらもみ合うしぐさでなにか察してくれることを期待しているように見えたからだ。おそらく澤正の立ち回りを見せるために用意した布石に違いないが、ここは省略のしすぎで、これでは話の筋がすっきりと頭に入ってこない。第二場は、柴田秀子の美術も含めて本の見直しが必要なところだ。
続く第二幕は、大阪関屋町女髪結いお春(岩倉高子)の家。段平はいわゆる髪結いの亭主である。お春には弟子があった。まだ幼かったその子を段平が連れてきたときは身よりの無い子だから預かってくれという触れ込みだった。そのおきく(万善香織)は、実は段平が京都の芸者に産ませた子供で、母親が亡くなったためにやむなく引き取ったといういきさつがあった。段平はお春の手前、父親とは名乗れないから知らん振りだったが、お春も当のおきくもそれとなく察しているようだった。
段平のつけた殺陣で、「国定忠次」は評判を呼び、ついに新国劇は東京に凱旋する。段平は、ひと足遅れて上京しようとするが、金がない。お春は黙って箪笥から着物を取り出し風呂敷に包むのであった。ダメ亭主にしっかり者の女房という構図である。ただ、この頃すでにお春の胸の病はかなり進行していた。
第三幕では、地方講演の出し物を巡って、興行主側の要望と澤正が対立する。旅先にお春の具合が悪いというはがきがくるが、字を読めないこともあってどれだけ切迫しているのか段平には分からない。興行師(村田則男)たちは菊池寛の「父帰る」ではおぼつかないと立ち回りのある「国定忠次」を演目に入れるように要求するが澤正は断固として応じない。その過程で、殺陣は単に客寄せのためにやっているのだという澤正の不用意な発言が段平の心を傷つける。その頃浅草では剣劇が大はやりで三百円という大金で段平を引き抜こうとする者が現れるが段平はそれにも耳を傾けず、殺陣師として自分の仕事は終わったと黙って劇団を去ることにする。
大詰は、あれから四年、お春の最後には間に合わず、いまは京都の町家の二階で、中風に当たって床にふせっている。一人前になったおきくが通ってきては面倒を見ているが、昨夜は久し振りに昔の仲間が(山野史人)新国劇の大判ポスターを持ってきてくれて、それを見ながら一升空けたところだった。そこへ突然、澤正が見舞いにやって来る。「国定忠次」の新しい狂言で忠次最後の場面を考えているという。段平と同じように中風で寝込んでいるところを捕り手に囲まれるという設定を聞いて、段平は動かぬ足をさすりながら渾身の力を込めて立ち上がる。
すると十人ほどの捕り手が現れ段平を取り囲む。もはや国定忠次が乗り移った段平は、片手に刀を振りかざし、動かぬ足を引きずって応戦する。銀色にひかる捕り手の棒が突き出され、払う忠次に戸板が迫る。髪は乱れ汗は飛び獅子奮迅の働きにもついに縄がかけられ、首にからんで押さえ込まれるとうしろから一突き、忠次はどうと斃れてあえなくなる。そして、そのまま段平は逝った。
段平はリアリズムが分かっていなかった、と澤正。なぜなら段平の人生そのものこそリアリズムだったから・・・。

この芝居の殺陣師は国井正廣である。少し前までは擬斗といった。劇中三つの大きな立ち回りがあって、それぞれがまったく別の概念ででき上がっていて楽しめた。最初は、段平が若い衆に歌舞伎の立ち回りを見せるところ、様式美である。次に澤正がステッキを刀替わりに若者をなぎ倒す場面、これはもっともオーソドックスな剣劇で迫力があり美しく、いわゆるかっこいい。最後が中風で半身が利かないというあり得ないような条件下での難事業、忠次の壮絶ともいうべき凄まじい立ち回りには圧倒される。さすがにいづれもよく出来ていた。
鈴木完一郎の演出は確かに青年座らしい「殺陣師段平」を作り出したといえるが、指摘したように構成上の分かりにくさが多少あった他に、ディテールにも瑕疵が散見された。たとえば、第二場の若い衆が舞台を出入りするときの仕草である。何となく出てきて何となく去る、というのでは芝居に締まりが無くなる。このたがが緩んでいるという感じは残念なことだが、この演出家にいつもつきまとう。(「明日」のズボンのファスナーのことなど)
津嘉山正種の段平はどうしても無学文盲という風には見えないところがあるが、まあ新劇の殺陣師段平とはこういうものだという見識を示したものとして評価したい。(比較すると無名塾の「いのちぼうにふろう」の殺陣の方が迫力あり。)ところで、パンフレットに映画の「殺陣師段平」の記事があって、中に面白いものを見つけた。
何度も映画化されているようだが、年代からいって昭和25年の東横映画が最初だったらしい。段平は月形龍之介、お春に山田五十鈴、澤正が市川右太衛門、おきく、月丘千秋、他に進藤英太郎(東映時代劇に欠かせない大物悪役)杉狂児、加賀邦男、原健作(松原千明の父親)、加藤嘉など僕らには懐かしい顔ぶれが並ぶ。監督はマキノ正博、そして脚色のところにある名前はなんと、黒澤明である。「殺陣師段平」に黒沢が深くかかわっていた。
昭和37年の大映、中村鴈治郎(段平)、田中絹代(お春)、市川雷蔵(澤正)の時も脚本を書いている。「用心棒」「椿三十郎」において凄惨な立ち回りに馬肉をたたき切る音を重ねた斬新な殺陣を創造し、その後の時代劇を一変させたあの表現の原点が、案外「殺陣師段平」にあったのではないかと思ったのである。

チャンバラは面白い。子供の頃はベルトに板きれ(材木の街だから刀に適当な木はそこいらにあった)をさして、近所の悪童と遊んだものだ。東映時代劇全盛のころで、週変わりに映画館へ行った。ただ、あの頃の殺陣と比べるといまのほうが格段に迫力があり、リアリティがある。たぶん、歌舞伎出身の役者の動作は舞踊が基本にあるから、どうしても優雅で形式的になったのだろう。市川右太衛門、片岡知恵蔵、大川橋蔵、中村錦之助、東千代之介、市川雷蔵このあたりは皆そうだ。
では、ほんとうの立ち会いとはどんなものだったか、これが案外知られていない。子母沢寛が祖母から聞いた話として、どこかに書いているが、どうも拍子抜けするような様子だったらしい。
祖母は旗本のお嬢さんだったが、彰義隊の頃上野の山で刀をかざして向き合う若者二人を遠くから見ていたそうだ。双方とも微動だにしないのをじっと眺めていたが、そうして三十分もしたろうか。一瞬二人が動いたと思ったらもうすでに勝負は決まっていたのである。刀を打ちあうなんてことはなかったのだ。
子母沢寛を引き合いに出したからついでに「氷川清話」からもうひとつ。大政奉還なった幕末、京の寺町を歩いていた勝海舟の前に三人の壮士が現れ、うち一人が突然切りつけてきた。とっさにうしろに下がって刀を避けたが生きた心地はしなかったという。脇にいた岡田以蔵が長刀を抜いてものもいわず「まっぷたつ」に斬ったら「あとの二人は逃げていったがね。」とある。あの人斬り以蔵が龍馬の命を受けて勝の護衛をしていたから一瞬で済んだ。
ざっと思い出しても実際に派手な立ち回りをしたという話はほとんど聞いたことがない。ということは、我々が見ている殺陣とはほんとうの出来事ではないかも知れない。
澤正はリアリティが欲しいのだといったが、でき上がったリアリティは、実は現実とは違うフィクションであった。だからといってそれが嘘だということでもない。僕らは舞台の上の立ち回りを通して、現実に人間が生と死を賭けて闘争する有り様を想像している。それがほんとうらしく見えれば見えるほど、現実の意味するところが分かってくるという仕組みになっているらしい。
つまり、リアリティを求めるとそれはフィクションになり、僕らが見ているフィクションとは現実の写し身であり、意味そのものだということが出来る。そう考えれば、なんのことはない、殺陣の本質は演劇のそれに通じていたのだ。
澤正が求めたリアリティを演劇そのものに延長すればもう少し広い世界が見えてくるのではないか。

 

 


新国立劇場

Since Jan. 2003