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「たとえば野に咲く花のように」

下敷きになったギリシャ悲劇を知らなければ、昔の日活映画のような和製西部劇の趣があって、その気になって見ればあり得ないこともない恋愛話ととりあえず納得できる。ダンスホールの抗争にやくざっぽい男と踊り子数人、船員(海上保安庁の役人だが)と憲兵上がりの朝鮮人ときたら小林旭と宍戸錠、二谷英明の出番ではないか?そこに浅丘ルリ子と白木マリ、楠侑子(渋いなあ)が加わるとこんな話になりそうだ。逆に古典の物語を知っていたらいたで、少々強引に話の辻褄を合せようとしたところに釈然としない思いを感じたはず、と思う。
「三つの悲劇」シリーズの第二弾ということだが、最初の「アルゴス坂の白い家」では、わざわざ登場人物の解説からストーリーまで舞台に出して説明してくれた。書いた川村毅は、ギリシャ悲劇のどこが有り難いものかという態度で、殺し合いも悲劇も現代においてリアリティはないと冷たい態度で突き放してしまった。このシリーズがそういうコンセプト(ギリシャ悲劇は大して有り難くないという、つまりは作家がプロデューサーの意図を打ち砕いてもいいという)で貫かれているのかと思ったが、鄭義信は川村毅よりは真面目な性格らしく、注文に応じて本気で「本歌取り」をしようとしたふしがある。鄭義信の態度は、「三つの悲劇」を、ギリシャ悲劇を現代に移し替えたらどんな話になるかと解釈したのである。もっとも映画「月はどっちにでている」を書いた作家でもある。悲劇を下敷きにした物語のはずなのに、そこはかとないおかしみがただよっていて、なんだか喜劇を見たような気にさせられたのは、やはり結果としてプロデューサーの意図を打ち砕いてしまったのではないかと内心心配している。
鄭義信は、ラシーヌの名作(原作はエウリピデス)といわれている「アンドロマケ」をもとにしたと書いている。大急ぎでどういう話か紹介すると、トロイ戦争が終った後の事、アキレスの息子ギリシャの勇将ピュリスが、虜囚として連れ帰ったトロイの王子ヘクトルの妻アンドロマケに恋をするところからはじまる。しかし、アンドロマケは亡きヘクトルへの思いが残っていてピュリスの愛を受け入れることは出来ない。いつか心変わりをと、ピュリスはアンドロマケが守っているヘクトルの遺児を掟に叛いてかくまっている。一方、ピュリスにはもともと婚約者エルミオーヌがいて結婚を迫られているが、これを拒否し続けていた。ヘクトルの遺児を受け取るためにピュリスのもとにアガメムノンの息子オレスト(例のクリュタイメストラの息子でエレクトラの弟)がやってくる。実はこのオレストは、一方的に恋情を寄せているエルミオーヌに会いたいとの思いでやってきていた。嫉妬に狂ったエルミオーヌは、オレストを巻き込み、ピュリスとアンドロマケとの間を割こうとする。また、自分を拒絶し続けるアンドロマケに業を煮やしたピュリスはついに遺児を殺そうと決心する。それを悟ったアンドロマケは、その母親を助けたことのあるエルミオーヌに命ごいにいくが、憎んでいるアンドロマケの願いを聞き入れるわけもない。やむなくアンドロマケは子供を守るために自分の命と引き換えのつもりでピュリスの結婚の申し込みを受けることにする。再び裏切られたエルミオーヌは、ピュリスに対する憎悪を募らせ、オレストを唆してピュリスを殺そうと画策し、ついにギリシャ軍がピュリスの居城を包囲する。オレストがエルミオーヌに、エルミオーヌがピュリスに、そしてピュリスはアンドロマケにという片思いの連鎖が悲劇を生むという話である。
これを鄭義信は、まず舞台を朝鮮戦争のさなか、昭和二十六年の軍用飛行機の爆音が聞こえる福岡の港町に置いた。町外れのダンスホール「エンパイア」で踊り子、安田満喜(七瀬なつみ)が出征して亡くなった恋人の思い出を抱いて働いている。他に珠代(梅沢昌代)と鈴子(三鴨絵里子) の二人の踊り子しかいない寂れたホールである。満喜の弟、淳雨(大沢健)は憲兵上がり、終戦で職を失い姉の庇護のもとにいる。実は姉弟は朝鮮人で、弟が戦時中憲兵だったことが災いして朝鮮人にも戻れず、差別の中で職もないまま反体制運動に関わっている。そうした中、表通りに出来たダンスホール「白い花」のオーナー安部康雄(永島敏行)と支配人の竹内直也(山内圭哉)が飛び込んでくる。店に火炎瓶を投げた犯人がここに逃げ込んだというのだ。淳雨と関わりのあることかもしれない。ところがそこで満喜を一目見た安部康雄が一瞬にして恋に落ちる。康雄は顔に弾傷を負った帰還兵である。それから康雄はなんども店にやってきては満喜に心情を告白し、一緒になってくれと懇願するようになる。しかし、満喜の心は動かない。恐ろしく気の強い満喜は言い寄る康雄の頬をはり、なじりはねつける。ところが康雄には婚約者と称してつきまとう四宮あかね(田端智子)がいた。一緒になると約束したはずだとあかねは康雄にしがみつく。それを見ている直也は気が気ではない。あかねに好意を抱いているからである。あかねの態度は次第に狂気じみてきて、満喜にからんだり、酒におぼれ、果ては康雄が隠してきた戦時中ガダルカナルでやった卑怯な行為をばらしてしまう。
ある日、破壊活動をやっていた弟の淳雨が現行犯逮捕された。満喜に、康雄が心配することはないといって、かねてから知り合いの警察に掛け合いもらい下げてくる。淳雨に朝鮮戦争の特需で羽振りがいいのは人の不幸で稼いでいるにすぎないと指摘された康雄は、確かにいう通り、事業は人に譲って、満喜と一緒に田舎で畠でもやりながら静かに暮らそうともちかける。満喜は弟を助けてもらった上に、それをきいてほだされたのか「虹の向こうに幸せがあるかもしれない」と康雄の愛を受け入れることにする。
一方、康雄に対する愛情が憎しみにかわり、あかねはとうとう自分の言うことを何でも聞いてくれる直也に康雄を殺してしまえ、そうすればあんたと一緒になってもいいという。直也は康雄だけが頼りなのに事業から手を引くといい出されたり、あかねの狂乱ぶりを目の当たりにして正気を失った上に刃物をふるい、あやまって淳雨の腹を刺してしまう。直也は自分の行為に驚愕してその場を走り去るが、淳雨は腹に隠し持っていた禁制の雑誌「朝鮮女性」数冊に阻まれて、無傷であった。直也が勘違いのあまり何をしでかすか分からないと後を追う康雄。
脇筋として、踊り子の珠代のもとに通って来る海上保安庁の船員、菅原太一(大石継一) が朝鮮の港に旧日本軍が残した機雷を掃海するために国連軍から船ごと借り出される話や二人の恋愛と結婚の場面がにぎやかに挿入される。また、鈴子が淳雨に対して持っていた好意が次第に恋愛感情に変っていくという筋もあり、「エンパイア」の主人でオカマっぽいしぐさの伊東諭吉(佐渡稔)をのぞいて、登場人物が皆色恋沙汰の渦中にあるという結構なお話しであった。結構といえば、半年後というエピローグで、珠代も鈴子も腹が膨らんでいる。康雄の姿はみえないが、そのうち帰ってくるだろうといって出てきた満喜の腹もまた大きく成っている。こういう女たちの生き方を「野に咲く花のよう」な生命力だと鄭義信は思ったのだろう。「アルゴス坂の白い家」に続いてまたしても「悲劇」はどこかへ飛んでいったのである。
こういう話で、鄭義信の本歌取りはうまくいっていたのだろうか。もとの物語の背景にはトロイ戦争がある。都市国家の抗争は、敗北即ち奴隷、負けたものの遺児は直ちに殺されるという運命が待っている。ということでピュリスとアンドロマケの間には基本的に遺児と自分の命を巡ってただならぬ緊張関係が存在する。掟を破ってまでも恋を貫こうとする激情とそれに抗する敗者の誇りと意地、こういう関係を時代を変え、状況を変えて設定するのは難しいことに違いない。鄭義信は自分の出自に絡めて満喜と淳雨の姉弟を朝鮮人とした。そして、相手の康雄を朝鮮に爆弾を落として大勢の同胞を殺している側にいながら、ぬれ手で粟のように儲けている男とすることによって対立の構図をつくった。朝鮮戦争の時代にしたのはそれなりの説得力がある。満喜が守るべき「遺児」は康雄との関係を描きやすくするために成人のほうがいいと判断したのか弟という設定にした。康雄は戦場で心もからだも傷つき、淳雨も憲兵だったことがその後の運命を狂わせたことで戦争の影を引きずって生きている。悲劇の遠景にはきっと戦争があるという点ではその通りの設定である。さて、そこからの話であるが、康雄と満喜の間には差別されて生きてきた朝鮮人としての矜恃を示すという点で対立はあるが、基本的に命のやり取りをするような緊迫した関係はない。満喜が弟を康雄から守らなければ成らない理由も見あたらないから、ここはどう見ても康雄の単なる一目惚れに過ぎない。突然知らない男に好きだと言い寄られても返事のしようもないのが普通の人間である。満喜の場合は少しきつく反応したに過ぎなかった。あかねの存在も、エルミオーヌが後ろに王女として一国の権威を背負っていたのに比べると、康雄にとっては別に脅威になるほどのものではなかった。あかねに好意を寄せている直也にしても康雄がいなければ生きていけないという崇拝者であり子分である。どうもこの片思いの連鎖には、その熱情が貫かれた場合に大勢の人間を巻き込んで、人々の運命を変えていくようなダイナミズムは感じられないのである。
さて、アンドロマケは、ピュリスが子供を殺すと決めたと察知するや、その命を守るために意を翻して求婚を受け入れる。子供のために自分は死んだつもりになって、迫り来る運命を引き受けなければならなかったのである。
こうなると、アンドロマケが母としての立場を貫こうと決心したように、満喜がどこでどういう理由で翻意して、康雄を受け入れるかが問題である。きっかけとなったのは、弟淳雨が公務執行妨害で逮捕されたことであった。朝鮮人だから拷問されるとか、懲役三年は確実などという話に満喜は驚いて絶望的になるのだが、そこで康雄がさっそうと警察に乗り込んで淳雨を取り戻してくる。その後、康雄が事業から身を引いてお前と田舎で暮らしたいと切々と訴える。まあ、ここら辺りで気が変ったのだろうと推定するのだが、それというのも、満喜はじっと聞いているだけで、自分の心情は語らなかったからだ。彼女は誰のためでもない自分のために心を入れ替えたのである。なんだがっかりだなあと思わなくてもいいだろう。こういうことがあってもおかしくはない。
しかし、ここが釈然としなかったのは僕だけでなかったらしく、シアタートークで誰かが質問した。満喜は何故康雄を受け入れたのか?それに対して演出の鈴木裕美は、あの低いどすの利いた声で、延々と速射砲のような言葉を打ち出した。たまに考え込むこともあったが、いっていることが難しくて僕にはよく分からなかった。あんなにしゃべったところを見ると彼女自身が納得するためにあれだけの言葉を必要としたほど、ここの解釈はクリアカットにいかなかったのだろう。なんのことはない鄭義信に聞けばいいだけなのだが、演出家がこの調子では作家に確かめていなかったのである。
ここを僕なりに解釈すると、満喜はこう思ったのではないかと思う。

  1. 弟の危機を救ってくれたのは私に対する愛情の深さに違いない。

  2. 戦争でひどいことをしてきたが、それは心の傷になるほど深く反省している。心が優しい男で見どころがある。

  3. 自分の事業が間接的に我らの同胞を苦しめているということを理解出来る。洞察力と広い心を持っている。

  4. 田舎で畑仕事でも、というのは自分の趣味心情にあっている。

  5. まあ、いつまで踊り子でもあるまいし、ここらで年貢を納めてもいいか。

ざっとこんなところではあるまいか。彼女も歴史上のヒロインではなくて普通に生きる庶民のひとりなのである。
このうち、田舎に引っ込んで畑仕事というのは、鄭義信の趣味をいっていることで、昭和二十六年の時点でそんなことをいい出すものはいない。それはともかく満喜のこの決心が、あかねの憎悪に火をつけ新たな火種になるというのでもなく、そのまますんなりと子まで宿す仲になってしまったのだから、片思いが成就してめでたいことである。
これで本歌取りかといえばいえなくもないのだろうが「悲劇」はどこかに置き忘れてきたように見える。せっかく「三つの悲劇」といっているのだから、本歌取りするなら「悲劇」の要素、その構造を取り込むべきだったはずだが、片思いの連鎖だけを参照したのである。これでは、そこいらに極くありふれたお話になってしまった。なにもギリシャに起源があるなどと大げさに言うことはない、僕の回りにだって山ほどあるしTVドラマもせんじ詰めればこんな話ばかりである。
ならば悲劇の要素というのはなにかといえば、まず凡庸な庶民は主人公になりえない。ユージン・オニールの「喪服の似合うエレクトラ」も舞台となるのは何代も続く米国東海岸の名門の家である。次に核心的な部分だが、主人公がそれと知りながら抗し難い運命の糸に導かれて悲しく不幸な幕切れを迎えねばならない。典型的に表れているのが「マクベス」だといってもいい。三人の老婆の予言を聞きながら、野心の赴くところを駆け登り、そして将軍は予言通りの破滅を迎えることになる。
こういうことを鄭義信は一切気にせず形だけギリシャ悲劇から借りて物語を作ったが、細部に渡って対称するようによく考え抜かれていて感心するところも多かった。しかし、早い話が、鵜山仁が期待した「大きな物語」が成立するためのお膳立てを用意するつもりはなかったようだ。朝鮮戦争は満喜や康雄の世界からは遠過ぎて二人の関係に直接陰影を与えるものにはなっていないし、朝鮮籍の問題はあるが越えられない障害でもない。やや無理やりこじつけた感が無きにしもあらずである。ならばそういう過去から現在に向かってどんなメッセージが有効かと考えてもあれから五十年経ってそういう問題もすっかり変質してしまっているのである。なんだか無国籍のエキゾティックな昔の日活西部劇を見ているような妙な感覚になったのはこの作り物が必ずしも成功していなかったということではないか。たとえば野に咲いたように置かれた作り物の花と映ったということである。
役者は随分稽古を積んだものと見えて、皆熱演であった。ただ、あかねの田端智子は若すぎて違和感があった。永島敏行を相手に結婚を迫るといっても、なんだか色気もなにない妹が兄におねだりしているように見えたのは少々つや消しであった。ミスキャストといわざるを得ない。
舞台装置は、第一作に続いてギリシャの円形劇場風にするのかと思っていたら、まったく違ったものになっていた。島次郎にしては珍しく、あの当時のダンスホールをリアルに再現しようとしたらしいが、どこか作り物のような気がした。ダンスフロアから二階の安宿に上がる階段などあの当時の光景としてあまり見かけないものだ。いずれにしてもあの広い中劇場の舞台を持て余し気味だったのは意外だった。

これで結局のところ、再び、「三つの悲劇、ギリシャから」というテーマは悲劇にならなかったという点で一作目と同じことになった。「大きな物語」としてのギリシャ悲劇に作家も観客も一体どれだけの関心があるのか?次の第三作目でそれが分かるかもしれない。

 

 

題名:

たとえば野に咲く花のように

観劇日:

07/10/19 

劇場:

新国立劇場                  

主催:

新国立劇場

期間:

2007年10月17日〜11月4日日 

作:

鄭義信               

演出:

鈴木裕美 

美術:

島 次郎

照明:

原田 保

衣装:

宮本宣子

音楽・音響:

友部秋一 

出演者:

七瀬なつみ 田畑智子 三鴨絵里子 梅沢昌代    永島敏行 山内圭哉 大沢 健                大石継太 池上リョヲマ 佐渡 稔 

 

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