題名:

てのひらのこびと

観劇日:

04/5/27

劇場:

新国立劇場

主催:

新国立劇場    

期間:

2004年5月11日〜27日

作:

鈴江俊郎

演出:

松本祐子

美術:

礒沼陽子   

照明:

沢田祐二    

衣装:

}前田文子

音楽・音響:

}高橋巖

出演者:

裕木奈江 茂山逸平 檀臣幸
 



 「てのひらのこびと」

一間幅の押し入れに観音開きのタンス、影の薄い掛け軸がさがった床の間に、だんだん奥まって飾り棚。交差する壁と出入り口のふすまは上手において、部屋をやや斜めに見る構え。座卓を挟んで曲げ木の座イスが向かい合い、卓上には茶枢とポット、茶菓子のようなものがのっていて、つまりこれは典型的な日本旅館の一室である。
美術の礒沼陽子は畳の座敷を円形に切り、その部分を大きく客席に突き出してみせた。座席を左右に置いて、このほぼ二人だけの芝居をさまざまな角度から見せるためもあったが、むしろ俳優の演技の方向を"絶えず"変化させる必要からこのような工夫をしたのかもしれない。結果としてこの円は動作の密度を高めてみせる効果があった。
明りが入ると、ふすまが開いて田之上有紀(裕木奈江)が飛び込んでくる。バッグを投げ出すと、スーツのまま畳のうえに腿もあらわに大の字に寝ころがる。
これを見て僕は演出の松本祐子の努力が多少なりとも報われたと直感した。松本はおそらく裕木奈江の耳元でこうささやいたに違いない。「あなたは、教え子と恋愛関係になった高校教師、スキャンダル騒ぎに嫌気が差して駆け落ち、500kmも運転して今ここに着いたところよ・・・さあ、どうする?」
実は昨年「AMERIKA」の劇評で「裕木奈江は無残というより他ない」と書いたが、こんどは大丈夫かと心配していたのだ。見ているうちに気にならなくなったが、最初の方はひとつひとつの動作に松本の叱咤激励の声が聞こえてくるようであった。いい演出家に出会ったようだ。
見終わったあとで、パンフレットに鄭義信が寄せた文を読んで笑ってしまった。「祐子ちゃん・・・言いにくいけど・・・あんたの演出はやっぱり『しつっこい』で。・・・三本つきあわせてもろたけど、そのたんび『しつっこい』。あんたあれやて、でけん役者にはマンツーマンでダメ出ししてるんやて。帰り道にもダメ出しして一緒に帰ってるんやて。俳優のKな、『自宅まで来るかと思いました・・・』って泣いていたよ。・・・」
祐木奈江の家まで行ったかどうか?演出の執念が俳優を透過して見えてくるという希有な経験を僕はしたわけである。
さて、高校の英語教師、田之上有紀27才のあとに続いて、その教え子唐崎三平17才(茂山逸平)がバッグと金魚鉢を抱えて入ってくる。追いつめられて燃え上がった恋の焔を冷ますように「とうとう来てしまったね。」「後悔していない?」などと互いの気持ちを確かめる言葉を交わす。三平は金魚鉢を角の飾り棚に置き、これに僕たちの愛を入れてはぐくむのだという。なるほど、こう言う年ごろにとって、愛というものは自分達の心からとりだして透明の器に入れて育てるものになっているのかと感心した。
着替えを済ませて落ち着くと、有紀が布団を敷きはじめて三平をさそふ。三平は今はその気になれないと布団を畳もうとするが、有紀は許さない。布団の奪い合いのうちにやがて男と女の主導権争いの話になる。女は男に従うものと思っているならそうしてあげると有記はいうが、不本意であることは間違いない。三平にしても今どきそんな考えがあるはずもなく戸惑うばかりである。この微妙なずれは、二人の行動予定にも現れる。三平が明日は寝ていようと思っていたのに有記が近所の紙漉神社にいこうと勝手に決めていたことが気に入らない。このような小さないさかいがいくつか重なり、好きだ、愛しているという気持ちとはうらはらに互いのわがままがぶつかりあうことに違和感を覚え始めている。 
鈴江俊郎という作家には初めて出会ったが、このあたりの小さなエピソードの積み重ねによって二人の気持ちの揺れをこまやかに、しかもごく自然な語り口で表現する手腕はただ者でないことを思わせた。
この最初のプロットを見ながら、僕はジャン=ポール・サルトルの「存在と無」を思いだした。恋愛をモデルに「対他ム存在」の様態を説明したところだが、ごく手短にいうとまず、その当初は互いの欠如を補完する存在として相手は立ち現れる。やがて対象を求める狂おしい眼差しは相手をわが物にしようという意志に変わる。これは互いに自律的な実存の自由を奪おうという行為であり、したがってこの関係はあらかじめ挫折している。鈴江俊郎が意図したとは思えないがどこか重なるものを感じた。
有紀が英語の答案用紙を出して採点を始めるのをみて、三平は彼女の翻意を心配する。しかし、有紀は「立つ鳥あとを濁さず」、最後のご奉公をするのだと安心させる。同僚の英語教師に送り届けて、学校との関係はおしまいにするつもりだ。三平が外出した夕暮れ、この同僚に答案用紙を送る旨、電話を入れる。学生を道連れに町を出奔した有紀に同僚教師が居場所を尋ねるのは当然である。二人とも無事で心配ないと、窓から見える景色を楽しんでいる様を説明する。18階の窓からは大きな川が見えて、波立っている。街の灯はまばらで、遠くに見える明りは紙漉神社のものか、などといっているところへ三平が戻る。これは後に二人の身に起こることの重要な伏線になっている。
有紀には石田薫(檀臣幸)という恋人がいた。同僚の教師である。2年3ヶ月前に別れた。石田は優秀な教師と評判の男だが、追いつめられると意外にもそこいら中の衣類を畳む妙な癖があった。有紀の心が得られないとわかって、別れる前はよくこの癖が出たと三平に語る。自分は、石田から受ける愛され方を好まないというのだ。(このあたりの女心の捉え方はうまい。)三平への愛は純粋に自分の能動的なものであるといいたいらしい。
しかし、二人だけの時間を過ごすうちに、金魚鉢に入れた互いの愛はいくぶんかでも育ったのか?僕には、とりだした愛の分だけ、自分というものの存在が大きくはっきりと見えだしたのではないかという気がした。自分の中にあったもうひとりの自分の発見、とでもいえばいいか?二人の関係は深い愛で結ばれていると思っている。しかし、一方そのことで傷つきたくない自分というものがあるのをいやおうなく感じている。
その無垢な自分だけは確実な手触りを感じられる唯一のもの(てのひらのこびと)である。と、鈴江俊郎は示しながら、それ以上に心底生きているという実感を味わえるものがこの時代にあろうかと問うているのである。
有紀は「反戦教師」といわれていた。戦争反対を唱えるのは勇ましいが、どの戦争にたいして何故?ということはない、と三平は批判する。この小さなエピソードにも「反戦教師」がもはや左翼に分類されないという時代を語る鈴江俊郎の視線がある。
率直に言うと、これほどリアリティのある時代認識に出会ったことはない。共感するかどうかは別だが鈴江俊郎の感受性が深いところで現代の様相を捉えていることは確実である。
翌朝、有紀が妊娠していることがわかる。三平はどう対処していいか、ほとんど言葉も出ない。有紀は自分で状況を引き受けなくてはならない。三平は無力だ。紙漉神社にでかけたのはひとり三平の方だった。
その夜、二人が浴場に向かうが、すぐにふすまが開いて二人は後ずさりして部屋に戻る。追ってきたのは、石田であった。石田は同僚の英語教師にあらましを聞いて、見当をつけてやって来た。紙漉神社、大きな川、まばらな灯、18階。そんな高い建物はここしかないと、18階の廊下で待ち伏せしていたのである。
石田は、有紀にたいして気持ちが残っている手前、強くは言えないのだが、二人とも自分勝手ではないかとなじる。そして、有紀との関係について、自分はいつも愛を受け入れる側だったが、初めて自分から好きになったのが有記だったと例の衣類を畳む癖をみせながら告白を始める。やり直せるかどうかはともかくここから戻るべきだと説くのである。英語教師に窓から見えるものを話したのは、迎えに来いという符号だったのではないか?と決定的なことを言われても、有紀は黙っている。石田は明日朝来ると言って帰りかけるが、じっとうなだれている三平を見て引き返すと襟首をつかんで思いっきり横面を張り三平も抵抗して二人は激しく格闘する。不思議なことに、石田も三平も、観客ですら膨らんでいた感情を吐き出すことが出来た。
朝、有紀は既に身支度を整えている。三平は寝巻きのまま布団に潜り込んで動かない。石田が現れて有紀はあっさりと去ってしまう。残された三平は怒りに任せて部屋中のものをひっくり返し、果ては押し入れのふすまやタンスの扉を外して投げ捨てる。あらかたセットが壊され骨組みだけになるあたりで紗幕の向こうに灯が入り、がらくたの捨て場のようになった暗い荒野に雨が落ちてくる。布団も畳も構わず舞台一杯に激しい雨が降る中に、裸の三平と有紀が立ちすくみ、それでも私たちは大切なものを抱えて生きていくと呪文のように唱え、それをかき消すような勢いで雨が降り続ける。
この終幕には誰もが驚いた。しかし、これでよかったのだと納得する幕引きでもあった。僕にはそう思えた。
「金魚鉢の縁と胸の間に挟まれて死んでしまうかもしれないこびと」とせりふにあった。このこびとをてのひらにつつんで、大事に抱えて私たちは生きていくというのだが、このガラス細工のような、繊細で弱々しくこわれもののような「こびと」でいいのかという気もする。これは、いまを生きる若者の実感に違いないと思いながら、傷つくのを恐れて手のひらから出てこないなら結局何事も起こらないと僕は言いたい。
先に上げたジャン=ポール・サルトルに従えば、人間はどのように生きようが自由であり、 自分で選択をすることによって自分を見つけていかなければならない存在である。人間の本来的な生き方は、 既存の道徳や価値にもたれかかることなく、自らが主体的に選んだ人生を歩むものであるという。主体的に選ぶとは現在の自分を未来に向かって不断に投企(projet)することであり、世界に投げ込まれている存在(engagement)として「人間は人類全体に対して責任を負う。」(社会参加) ということである。
この時代、自分という存在を深刻に考える契機などどこにもないと言ってしまえばむなしいが、鈴江が書こうとしたイメージを突き抜けたところにサルトルが描いたような地平が拡がっている可能性もある。
それにしても鈴江俊郎のストーリーテリングのうまさ、繊細な言葉と緻密なイメージの積み重ねを堪能できた。これを舞台として創り上げた松本祐子の力も十分に評価できる。彼女は、おそらく全編のイメージを推敲に推敲を重ね七転八倒して組み上げた上で、役者を説きに説いて創ったものだろう。鄭義信の文章からその様子を想像すると、思わずにやにやしそうになる。論理的で破綻がなく極めて完成度が高いと思うが、ほんの少し技巧に走った気配が見えることもあった。若さだろう。
三平の茂山逸平を見たとき、どこにこんなぴったりの役者がいたんだと感心した。十才も年上の先生を愛した17才の高校生という想像するも難しい役どころを淡々と苦もなくこなしているように見えた。有紀との距離感に悩んでいるふしもあったが、これはむしろ松本祐子が三平の態度を決めかねたせいであろう。狂言の家に生まれた役者ということだが、活躍が楽しみである。
石田薫の檀臣幸が現れたときはその容ぼうに「これは高校教師だ!」と思わず心で叫んだ。終盤の少しの出番だったが、三平の存在を圧倒した。「お前ら、何をやってんだ!」世間の代表であり大人の代弁者であり、、自らも愛情の問題に揺れながら純愛を打ち砕くものとして立ち現れる。その顔には、人間はそれでも明日も明後日もずっと生きていかねばならぬという覚悟が表れていた。
「世界の中心で愛を叫ぶ」が100万部を超えるベストセラーだそうである。これを聞いた僕らの世代の誰かが、「ケッ!」といった。韓国産の純愛ものが流行っているそうだ。世は純愛の時代のようである。「てのひらのこびと」もそういえるだろうか?「ケッ!」と言った誰かはさすがに否定するだろう。しかし、こう言うかもしれない。
「おれのこびと(あったとしたら)ならとっくの昔につぶれてなくなったよ。」                      

 

                             (2004年6月5日)

 


新国立劇場

Since Jan. 2003